白麒麟は索冥(さくめい)というらしいが。
あたいは麒麟だった。そして、あたいという麒麟は「白い馬(ユニコーン)」と「龍」にゆかりがある。
この前、零場で写真とったら、金色になってて「なんだこれ?」ってことでmamiさんに見せたところ「なとりのエネルギー漏れ」ってことで解決したのもあって私のエネルギーは金ということにもなった。
で、あたいは白麒麟であるってところにもいくばかの納得がある。
名を索冥(さくめい)という。
麒麟は時代の入れ替わりなどのときに現れるらしい。まさに今、私自身「色々入れ替わり」に関してのことを書き上げているのこと。
各々の担当者に繋がっては「お役目ごくろうさま」ってことでお話したりもする。
それぞれ担当があって、その担当に関しての話とか、何やってんのかとか。こっちの世界の住人じゃない向こう側の人たちがこっちにきているのをサポートするっていう立場にもある。
んで、覚醒のサポートについてはしていない。覚醒するか否かってよりもお役目やってくれってことを言っている。
あと3%ぐらいの人しか覚醒はしていないけれども、他は勝手に無自覚にお仕事やってるからそれでいい。
で、索冥のうち「冥」の部分は、冥界の「冥」ではないかと思う。
地獄である、アビスである。この世の成れ果てなる世界である。で、私はそこの世界を冒険していたし、そのなかの空間を見て回ってきていた。
というのもあって、私は索冥なんじゃないかっていうことは物凄く納得がある。
冥界にある太い縄。これが索冥かなと思う。いわゆる前世の因縁のことだと思われる。
あたいがこっちに出てきたってことは、この前世の因縁立ち切るぜってことでもある。こっちの世界にいる人たちで覚醒するには前世の因縁きっていかなきゃいけない。代わりに来世の因縁繋げていかないといけない。
とりま、死なんように綱渡りしよう。
麒麟としての気質では「君主ありきの私」でもあって、私はずっと「自分の君主」を探していた。若いころから「誰かにお仕えしたい」わけで、ずっとその誰かを探していた。
人の上に立つもののみに、私は私の能力を捧げるっていう感覚もある。で、その人の為に私は死ぬ覚悟もあるし、その人の為に私は生きる覚悟もあるっていう、謎の武士が私だった。
麒麟だったというのであれば、名君が生まれたのもあって「私」が発生した可能性もある。
それがもしかしたら「閻魔大王」かもしれない。
ちなみに不死鳥は私のペットである。わからないが、不死鳥は私のペット。よくわからんけどな。
龍は私にとっては糸、細い糸。
あたいは「令和の麒麟」ではない。あたいは第二次のときに発生した麒麟。多くの人の願いにより生み出された平和の象徴。
また、麒麟の役割だが「理」であり「社会のルールの管理者」である。この世の理を組み替えたりしてこの世の秩序を守っている存在。心の采配をする存在。
法律は道徳のもとにある。あたいはいつもそういうけれども、まんま麒麟の役割のことだったんだと思われる。
そのために龍たちが動いていて、それを総括する立場にある。だから一番偉いっちゃ偉いけれども、あたい自身はなんもしてない。やっていることはこちらの世界での書記と向こう側の理やら情報をおろしてくる役割。
だから定義、概念、理、ルールみたいなものが大好き。
麒麟は「管理者」って感じ。で、それぞれのカラーがあるみたいなんだが、そのなかでの索冥という白麒麟は「冥界のルール」だと思われる。
で、あたいが今回、この記事を書いた理由のひとつ。
めちゃくちゃ腹が立つこと。
あたいの君主は「瀬織津」ってやつじゃない、なんかすごく腹が立つ。
なんだこいつ、なんだこいつ、なんだこいつ。なんか知らねえけど、ずっと大っ嫌いな存在の神。
多くの人がもてはやし始めて、特に嫌いになった。世に知られるように——と知名度あがってさらに腹が立つ。
あたいは認めない、こいつが君主だとは認めない。
この神、なにかできるわけじゃないし、なんなら「何かする」わけじゃない。
「何もできない未熟な神」なのに、多くの人がもてはやし始めた。
もてはやしのなかで「何かできる」と思い始めた。
でも何もできない。なのに、この神、なにかができると思い込んでいる。
それが腹が立つ。
立場を弁へよ、神ならば神であることを弁えなければならない。
君主たるもの、何もできないことを受け入れなければならない。
何かが出来るのではない、何もできないことを受け入れなければならない。
何もできないことを受け入れ、何もしないことを受け入れなければならないというのに「何かが自分にできる」と思い込んでいる。
これに腹が立つ。
君主の器たるものを履き違えた主なんぞ、いるものか。何かを為す君主などいるものか。
あたいは認めない。何も成さない君主とならねばならない。それが王の器よ。
王が何も成さないとは、この世が平和であり、この世に問題がなく、この世に不幸がひとつもないということ。それを存在で知らしめるのが神の絶対性にある。
君主が動くとは「この世には問題がある」の表明に過ぎない。なにも問題がないように「何もしないこと」が出来るのが未熟に生まれた王の器であるというのに、何かをしようとする。
何かをしようと動き回る神が必要か。何もしないからこその神である、何か問題があると動き回るのは人の所業に過ぎぬ。
上に据えてなるものか、腹が立つ。上には上に立つものの器がある、それがないからこその動乱。
新しい君主を立てるときがきた。
許すまじ、世をこのような暗がりにしたこと、許すまじ。
なんか知らねけど、すげえ腹が立つ。許せない。
多くの人が「神だ」と言っている存在は、本当に神なのか——。
あ た い の 君 主 は、
も っ と か わ い い !!!!