ツインレイが忘れられない理由について

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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『ツインレイ』。その言葉を見つけて私たちは、憑りつかれたかのようにぐぐるようになる。

本当に相手はツインレイなのか。多くの人がこの疑問を持っているようにも感じられた。ちなみに私は、ツインレイの彼がツインレイかどうかについてはあまり頓着はない。

とりあえず、この題材についてを自分のなかで論じてみる時『ツインレイ』として定義することが最善だったと言える。

たぶん、なとりが自信満々に「自分はツインレイと出会っている!」と言っているように感じられるかもしれないが、私のなかでは「とりあえず、定義しておこう」っていうところがツインレイってわけだ。

なんとなく、それが今んとこ持っている世間に知れ渡っているキーワードのなかで最適解のように感じられるため。

多くの人が「相手はツインレイですか」という人に問われることもしばしばある。正直なところ、ツインレイの定義は皆違うってところ理解せねばならない。

 

憑りつかれたようにぐぐるとき。ほかにも、ツインレイのサイトを回遊したりするとき。

ふと思い出しては「ツインレイ」なんてキーワードでぐぐってみたりなんてもするわけである。

私もときおり「ツインレイ」っていうワードで検索して、ツインレイのビックワードで何位ぐらいに表示されているかなとか確認している。(つい数日前では30位前後だったと言うのに今は40位にまで落ちている。とほほ)

そんな風にして『ツインレイ』を気にかけながら生きているわけであり、このとき必要なのは『ツインレイの用語の手放し』にも繋がっている。

今回の本題は『ツインレイが忘れられない』なのだが、どうしてツインレイが忘れられないのかというと「手放し」がうまくできていないから忘れられていないのだよっていう話である。

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ツインレイが忘れられない闇に気づく

私たちは『課題』と感じられることがテーマを背負うことがある。このツインレイというキーワードにひっかかるような相手と出会い、まさかの私たちは本当に相手がツインレイだという確証が得られなくても、その相手をツインレイだと思い、ツインレイで検索し続けてはツインレイに憑りつかれていくような現象が起きる。

これはフェイクである。これは偽物である。これは間違いである。

なんなら、私たちが感じているツインレイの相手がツインレイで思うことがフェイクであり、脳の故障であるとしたならば、私たちは精神科に通わなければならないわけである。

とはいえども、過去の哲学者たちも同じ轍を踏んでいることを書いておこうと思う。

実存主義らへんの哲学者らへんしか調べてはいないものの、多くの哲学者はある一定の段階で病むのである。神経症を患うのである。

これはひとつの段階をあがっていくとき、私たちは私たちの精神の祖に触れるのだと思われる。

精神の祖とは『混沌』でもあり、混沌とは精神を病んでいる世界観にある。意味の分からない混沌とした世界観のなかで私たちは精神を病みながら前に進まなければならない。

これはもうひとつのステージがあがるごとに精神の根源に触れれば、そりゃ病理がわんさかでてくるしかない。そして引き寄せる存在も病んでいるし、自分自身も病むのである。

そして、ツインレイの相手が頭から離れることができない私たちもどっか病んでいる自覚が欲しいところだ。

いわば、私たちは「ツインレイ」という言葉に甘え、ツインレイが忘れられない意味の分からない病みのなかへ落ちているのである。ここで必要なのは、異常事態に気づかない異常に気づくことだと思われる。

ツインレイを忘れるための努力


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異常事態に気づき、先ず私たちの対処は『忘れるための努力』をすることにある。しかし、忘れようとしたところで忘れられない。

今まで失恋をしたときだって、新しい恋で上書きが出来た。新しい視点を得ることで忘れ、新しい経験で上書きをすることが出来た。

それだったら私たちもツインレイだなんて言葉を語らない。どんなに努力をしようとも忘れられないように運命が働いているようにすら感じられるのである。

必要なのは「忘れるための努力とは何か」を見極めることなのである。

忘れるために「忘れようとする」としてもシロクマ効果である。シロクマを考えないでくださいと言われると、どうしてもシロクマを考えてしまう私たちの脳みそ。そう、この思考ができる人たらしめている知的生命体の本髄。我らの敵は、我が『脳』の仕組みである。

この仕組みを超克せよと言われようとも、出来ない。残念ながらそれは『仕組み』なのである。時計に逆回りに動きなさいと命じたところで逆回りにすることはできない。手を加えて逆回りにする仕組みを作れば可能かもしれないが、私たちにできることと言えば、時計が逆回りできないことを認め受け入れることである。

私たちがしなければならないことは、先ず「忘れる努力をやめること」でもあり、「忘れたくない気持ちを大事にすること」でもある。

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ツインレイが忘れられない理由

ツインレイが忘れられない理由はひとつ。スピリチュアル的に解釈をすれば、私たちのなかに不完全燃焼の課題が残っているからである。

それが『肉体』なのか『記憶』なのか。はたまた『無意識』なのかはわからない。

しかし、どこかしらに『忘れられない原因』がくすぶっている。

私の場合は、肉体にもあるし、記憶にもあるし、無意識にもあった。順繰りに忘れていくための課題を解消していく必要性にあった。

まずは肉体でのダイレクトなアクション、次には記憶が引用され。最後には無意識が反応し、夢見にて解消を予見する。

何度も繰り返されていくこのサイクルを続けていくうちに、私たちは「ツインレイの課題」を理解していくことになる。

忘れられない理由①今に生きることが出来ていない

私たちがツインレイを忘れられていない理由は、過去に自分が置いてけぼりになって『今に生きる』ことが出来ていないためにある。

今に生きるとは過去や未来を切り捨てることではない。

過去を受け入れ、未来を見据えている『今』に生きることが求められている。

しかし、ツインレイを『過去』として定義できていないとき、私たちは過去により生まれる今を受け取ることが出来ていない。

ツインレイの相手に対して何を感じたんだろうか。何を思ったんだろうか。

私たちはツインレイの相手は鏡だと言う。その『鏡』とはどんな概念のもとにミラーとなっているんだろう。そして鏡として映ったものは『自分』なのである。

その自分をしっかりと受け入れられているのだろうか。自分が自分で感じているすべてを過去に置いてきてしまい、取りこぼしてしまった感情があるんじゃないだろうか。

その記憶は、ツインレイのみならず。

ツインレイにより引用された過去の記憶にまで付随されている。ツインレイは、私たちが持つ深い傷を浮き彫りにさせ、その傷を刺激しに来ている。ここで『癒しに来た』とは言葉にできない。

結論的に「癒し」に到達することになるだろうが、その傷に触れることは痛いのだから。

過去の傷に気づき、過去の傷を癒し、過去をすべて丸ごと受け入れ、自分を全て背負いきるとき、私たちは過去の責任を背負っている。その責任が『今』を構成し、今を軸として『未来』を見据えていくようになる。

私たちはこうやって『時間の概念』を理解していくのである。

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忘れられない理由②課題の解消

ツインレイの課題は、キルケゴールの実存主義からして『絶望』にあるとして考えられる。

私の場合、ツインレイと出会う前に生じた「さびしい」という孤独感にある。

倫理という正義を主体性を持って生きることになると、最終的には『さびしさ』がこみあげてくる。

引用:ツインレイの宗教的実存のための絶望は『ツインレイと出会う前』に訪れている件について

ツインレイとの課題は「ツインレイと出会う少し前」に起こりえる大きな感情とひらめきのような感覚により生じる。それは絶望のように視えて、ひとつの希望が差したような感覚だ。

私たちが進んできた道は絶望への道であり、その絶望の中から希望を見つけるとき、私たちはツインレイを見つけ、その姿に希望を重ねるのである。

大きな間違いと、大きな失敗により私たちはツインレイを導き出す。私たちは間違えなければ理解ができないことが多すぎる。そのとき、二極に分離した意識が光と闇と化し、私たちはふたつに二極へ分離した意識を統合させることで『新しい自分』を練りだすことになるのである。

課題の解消は、ツインレイの第二サイレント期間により生じる。

私の場合『孤独』にあり、キルケゴールの言うところの単独者へと到達する必要性があった。

なとりの孤独体制はとても低く、孤独を受け入れよということである。そして、孤独を受け入れるとき、私たちは何物にも干渉を受けず、何物にも干渉を受けるような存在となる個性化を果たすことになる。

簡素にすれば、孤独を極め孤独であることを真意で受け入れている存在は『オリジナルだよ』っていう話である。

そしてそれは『自立』にあり、自立とは、自分がやりたいように生きることができる自己主体性を持った人生を責任もって生きていくことに繋がっている。

 

その間に色々といちゃもんをつけられたりとか、人生への否定をされたりなんかも多くあり。自己責任が出来ていない人に責任をとれとか言われたり、なんとも理不尽な現象が続くために、そりゃ神経症にもなるわ的な状態が続く。(投影同一視をされ続けて疲弊する)

課題とは他者からもたらされ、他者から受け取り、他者そのものにより体現されるのである。

人に言われている内容ではなくて、その人が体現している恥ずかしいと感じられる態度そのものが我が精神そのものであると理解するとき、なんかもう悶絶するぐらいの感覚が感じられる。黒歴史を今自覚した気分になる。そして、そんな自分が世界に許されているんだなって理解した。(神の御前で足を畳むような気分だよ。)

 

課題は基本的には「ひとつ」だと思われる。しかし、その課題のなかで葉を広げるかのように、色々な小さな課題が付随してセットとなっている。そのセットになっている小さな課題を終わらせていくことで最終的には大きな課題を解消することへ繋がるのである。

ツインレイの課題が終わると忘れられるのか

課題が終われば、それなりにツインレイのことは頭から抜けていく。というか『ツインレイの道』から外れていくような感覚がする。

私は今までツインレイのレールに乗っかっていたが、少しずつ、ツインレイの相手に対して考える時間も減っていき、悩む時間も減る。それでも考えている時間もあるし、今もこうやってツインレイの記事を認めているため、ツインレイのことは考える時間はある。

しかし、個人的な感覚で「ツインレイの相手へ想い馳せる時間」はほとんどなくなる。ツインレイの相手に対して現実の時間を割くことがなくなり、私は『自分の時間』を過ごすようになる。

それでも、これから先も彼の存在そのものを忘れることはないと思っている。

彼と過ごした時間、彼とシェアした心。癒され純粋化した感情たちは、すべてツインレイにより生み出された心である。

いわば、彼は私の心のなかに溶け込んでしまい、今や実体は失われてしまったが、それでも彼は今も私のなかで息づいているのである。

私はツインレイの彼を忘れている。でも心は忘れていない。不確かな、さもそこに実体がない。記憶がない。私の人体のなかにある『肉体』『記憶』『意識』のなかに、彼は保存されていない。

しかし、私の『無意識』のなかには保存されているのである。

 

私たちは忘れている。しかし、私たちは忘れていない。この感覚を言葉にするにはまだ歯がゆいけれど、忘れているけれど忘れていない状態なんだと思う。

これが魂の経験であり、魂の在り方である。

私たちは忘れていく、そのときの私たちは過去を内包した今を生きている。そして未来を構築しているけれど、忘れているわけではない。常に「ここ」にある。

 

だから忘れられない。でも、私たちがした経験はなかったことにはならない。いかに改ざんしようが、あのときに経験をした心を忘れることはない。

忘れることは経験がなかったことになることではない。魂に刻まれている。

魂が経験したことは、ずっと心が覚えている。どこかで必ず支えてくれる愛を与えられている。それが私たちの心である。

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どうしてツインレイが忘れられないのか

忘れられない理由は、私たちが私たちの心の経験へと、ツインレイの経験を昇華させることが出来ていないからである。

私たちの経験が肉体に残っている限り、私たちの経験は魂の肥やしとすることができていない。

 

ツインレイを忘れられないとき、たしかに私たちは精神の祖へと触れる。そして精神を病むだろう。

精神が病むとは、私たちの肉体が理性により抑制することで病むことが抑えられている。

うつ病をやったことがある人ならば、そのとき、多くの人の本質を見たことがあるんじゃないだろうか。多くの人が人へ攻撃をしている姿をダイレクトに感じたことがあるだろう。

そんな感情的なレベルの姿を私たちの肉体は抑制し、理解しない方へ舵を切る。

しかし、ツインレイの記憶は魂へと刻みたい。

そんなとき、私たちは精神を病みながらも『本質へ近づき保存しようとする』のである。

私たちは精神を病む。そして魂を成長させていくための経験を保存する。

経験の保存を魂へできたとき、私たちの肉体、記憶からはツインレイの存在は消え去っていく。

悲しくはない。いつも『ここ』に感じることができるからだ。

 

ツインレイとは愛である。愛とは心を受け取ることである。

ツインレイのいかなる心をも受け取ったとき、私たちの心が完成する。

いかなる心とは本当にいかなる心である。ポジティブなものだけではない、嫌われていることなどネガティブなことを含め、すべてをまとめて受け入れることである。

いかなる心をも受け取ることが、私たちにとってはとても難しいことだった。

ツインレイを忘れるとき、それは「いかなる事実」「いかなる心」。すべて丸ごとひっくるめて受け入れたときにある。

丸ごとすべて魂に保存したときである。私たちは忘れてしまうけれど、でも忘れない。