意識の自分と無意識の自分の一体化に至る個性化|覚醒シリーズ⑨

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私たちの精神構造は『意識』と『無意識』が存在している。

意識では『起きているとき』にのみ働くが眠っているときには働かない。無意識では『眠っているとき』と『起きているとき』の両方で働いているともいえるが、起きているときは働いている感覚はしないし、眠っているときのほうが働いていると言う感覚が持てる。

起きているときの意識と眠っているときの意識
図の説明:起きているとき(意識+無意識)眠っているとき(無意識)

つまり、意識は『起きているとき』。無意識は『眠っているとき』に働いているとして考える。

私たちは無意識の私たちと繋がることが従来はなかなか難しい。意識の私たちがどのように頑張っても『無』は『無』なのである。

しかし、最終的に私たちが覚醒を迎えていく段階では意識の自分と無意識の自分の共存的な働きをしていくことになる。

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無意識の自分と共存すること

ツインレイが無意識の自分と共存すること

無意識の自分と意識の自分が共存したとしても、無意識における自分が『意識を支配する』というような構造をとることではない。

無意識の自分と意識の自分が協力体制に入るということだ。

無意識の自分とは『全面的に目に見える存在ではない』が、多くの活躍をしている。私たちの世界そのものをどのような世界にするのかを決め、無意識の自分が世界を担当している。引き寄せの法則はほとんど無意識の自分が管理しているともいえる。

ゆえに、私たちは無意識へアクセスしようと一生懸命に働くことになる。

それは意識の私たちと無意識の私たちの意見が不一致となるからだ。

しかし、無意識の私たちと意識の私たちの意見が足並みをそろえることで『自分が生きたい道を生きる』ことができるようになる。

これが無意識の私たちと意識の私たちの『足並みをそろえる』という感覚であり『共存』なのである。

 

無意識は目に見えるわけではない。しかし、無意識に対しての理解が深まるのが共存にある。つまり、これが『意識と無意識の一体化』になるのである。

意識と無意識の一体化(覚醒)に必要なこと


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意識と無意識を繋げるために必要なことは、

  • 無意識の自分を自覚すること(個性化)
  • 無意識の扉をひらくこと(ダアトの解放)
  • 無意識の自分と意識の自分の仲直り(ツインレイの役割)

という三つほどの項目をまずはあげられたし。

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ツインレイの役割

ツインレイと呼ばれている存在は『永遠なる女性』というゲーテの言葉に当てはめることがでいるとも言える。このお題について、ニーチェやユングなどが永遠なる女性についても研究しながらも、ふたりともが達成したのが『覚醒』である。

私は女性であることから『永遠なる男性』として定義することになるが、ツインレイ男性からすれば、アニマの象徴となる永遠なる女性、ツインレイ女性からすれば、アニムスの象徴となる永遠なる男性ということだ。

また、ひとつ言えることは、このとき『両親におけるイメージ』を脱却している段階にある。両親と自分の関係性の課題を終えているからこそ、私たちは『無意識』の課題に取り掛かるのであり、両親のイメージを引きずっている存在そのものと恋愛をする段階は『意識』の課題に取り掛かっている状態にある。

ツインレイの役割とは、私たちに『無意識の自分』へと橋渡しをするような役割を担っている。

私たちが持って生まれたとする性別を凌駕し、次に無意識たる自分にアクセスをするには『両性性』となる必要性があるためだ。

私たちの無意識媒体とは『両性性』にあり、また『両性具有』ともいえるが、子供のうちは両性具有状態の無意識であり、自らが『男性』『女性』という枠にとらわれることがない精神領域にある。

つまり、ツインレイたちは『差別意識』を超越した段階に存在しているがゆえに、自分の性別がわからないというような精神状態にも陥っているともいえる。

次に、無意識たる私たちを成人へといざなうことで『性器の出し入れ』が可能になる。私自身も、話には聞いていたが、このようなことなのか——と実体験をすることで理解が進むようになった。

この地球における課題は『自らの二元性の克服』にあるが、自らのなかに存在する『両性性を自覚する』経緯にある。ふたつがそもそも存在していることに気づく経緯で、最終的に『ダアト』の扉を開くキーパーソンとなるのがツインレイにある。

 

つまり、無意識の自分と意識の自分を繋ぎ合わせるのが『異性性』に存在している意識にある。

セフィロトの樹『ダアト』の解放

セフィロトの樹は、過去に何度かにわたり、記事にしてきた。そのうちの『ダアト』とは、存在しているようで存在していない——というような『アビス(地獄)』という物騒な存在ともなっている。

私としては、確かにアビスである理由を、幻想に囚われ続けていく経緯に感じる。また、その幻想のなかで常に『ツインレイを追い彷徨い続ける姿』を客観的に視てはかなりの滑稽さを感じざるを得ないが、あるときの私たちはアビスのなかをさ迷い歩き、ダアトを克服していかなければならない。

さて、このダアトの鍵を持っているのが『ツインレイ』であり『永遠なる異性』となる。

ダアトの鍵を開放するためには、先ずは自らのなかに『異性性をすべて内包する必要性』がある。そしてその異性と『聖なる結婚』を果たすことでダアトが解放されていく。

このダアトとはどこにあるのか——。

図の説明:セフィロトの樹によるダアトは無意識への入り口にある

ここである。ツインレイと出会うことにより共鳴する『ここ』であり、錬金術のフラスコが存在する『ここ』である。

この部分が解放されることにより、私たちは『ダアト』の世界へひっくり返ることになる。これが無意識領域の私とのひっくり返る感覚にある。

そして、ツインレイの相手と語り合っているのは『無意識の私たち』である。

思ってもいない言葉を伝え始めますので「自分のクチが勝手に動いている」というような感覚もあります。
いわゆる魂による会話が成立しているのだと思います。
「よくやく会えた」「もう大丈夫。いっしょにいれば安全だ。」と語り合いますが、次に「不安」と「執着(怒り)」により、お互いの関係性は破綻していきます。
この脳みそで話すような感覚は、本当にツインレイの超初期の段階で数回ある程度です。

引用:本物のツインレイの見分け方(真実のツインレイ化について)

ダアトの解放からはアビスへと落ち、私たちは『死の世界』を冒険することになる。私たちの無意識領域には多くの『念』が存在し、私たちの過去、私たちの罪、私たちの因縁がそろいもそろって存在し、それらのすべてを目の当たりにすることになる。

このときの私たちは地獄を覚えている。どこまで進もうとしても先の見えない道を進み、どこへ向かうべきなのかもわからない世界を体験する『魔境』のなかに存在しているのである。

 

この魔境となるダアトの扉を開くとき、私たちは何重にも纏っている鎖を断ち切っていくことになる。

ダアトの扉は厳重に鎖で縛り付けられている。私の場合は、ツインレイの出会いの時点で『ひとつの鎖』が千切れ、ツインレイのサイレント期間の始まる少し前に『ふたつの鎖』が千切れた。どのような用途なのかもわからないが、私が自覚した鎖は『三本』である。

この三本の鎖は、人が容易に無意識へと手を出せないようにする救済措置にある。

私たちが無意識を好き勝手に使いこなすようになれたならば、それこそ、今のスピリチュアル界隈で起きている倫理の崩壊が世界にやってくるためだ。

人を容易に傷つける。これを許すような状態での魂が無意識へ手を出さないようにとした救済措置である。無意識は引き寄せの法則が活躍する根源にあるためだ。

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個性化

個性化とは、私たちの精神領域における『無意識』そのものを『自己』とし、認識することにも繋がっている。

個性化が成立することで私たちは二元性を理解する。ひとつの一極に傾倒し、次にもうひとつの一極を内包することにより、私たちは『二元性を成立させる』ことになる。

私自身が過去の記録において『ツインレイの彼が自らのなかに存在している』『自分のなかにツインレイの彼の気配がする』等、自分自身の発言なども、なぜかツインレイの彼が行っているように感じられるシーンもままあった。

私たちは、自らのなかに存在している『異性性』をツインレイの相手を模して行っていく経緯が存在し、その存在は自らのなかに存在しているアニムスにあるためであった。また、それが本当にツインレイの相手かというと否、またそうではないのだと思われる。

私たちが私たちの目線で見て感じ、理解した『アニムス』に過ぎず、ツインレイの相手を理解しているわけではない。これは投影に過ぎない、もしくは妄想とも言える。

自我肥大について

影が持つ感覚として『自我肥大』が私にとってひとつ面白いテーマのように感じられた。

私は、このツインレイの道の上で、2種類のハイヤーセルフをみている。

ひとつは自らのなかに存在している『神』とは『人を可愛い』と思う意識にある。人としての自分は影に対して「関わり合いたくない」と思う心があるが、神である私の意識は『憎たらしい影でさえも可愛い』と思う意識がある。

その意識そのものは『魂に対して可愛いと思っている』という感覚だ。

神からすれば、赤子のような魂はやっぱり可愛いのだと思う。しかし、同列なる人の意識としては『関わり合いたくない人』という意識である。

これが私が持つ『ハイヤーセルフ』にあり『無意識の私』でもある。

図の説明:ハイヤーセルフの違い

自我におけるハイヤーセルフは『人を見下す』という意識がある。この自我におけるハイヤーセルフが存在しているとき、優劣意識があり、これもひとつ自己のハイヤーセルフを成立するためには捨てていく必要性がある。

「人のために〇〇をして『あげた』」という意識そのものが自我のハイヤーセルフにあり、『教えてあげる』ことが大好きだが、それはオリジナリティではなく『受け売りをそのまま』提供することにある。

自我そのもののうち『自我のハイヤーセルフを全て抑圧する』ことにより、自己のハイヤーセルフと繋がるダアトの扉が開くが、ダアトの扉の向こうには『低次の自我』と『高次の自我』が存在しているうちの高次の自我そのものが『自我のハイヤーセルフ』となる。

私たちは『高次の自我』を1種類と思っているかもしれないが、2種類存在しているとして捉えるべきなのかもしれない。

高次の自我と高次の自己である。無意識領域に存在する自己そのものがハイヤーセルフであり、高慢な自我そのものは意識の領域を脱しない。

逆ルートも存在しているようだ。

図の説明:低次の自我を抑圧し、低次の自己を促す