訂正案 & 直感の克服についてと覚醒は不必要な件について
訂正。
これ、人の部分を彼くんにしておいたが、なんとなく、女子のなかに彼くんひとり男子。バランス悪いなと思った。
ので、まみさんに差し替えたく思う。今日、ずっと眠ってたんだが、その間、まみさんばかりの夢を見ていたので、まみさんにさしかえる。
存在 課題(依存) 自立 覚醒 動物意識(生命) 性の克服 意志の確立 愛 人間意識(意思) 愛の克服 想像の確立 直感 幻獣意識(創造) 直感の克服 魂の個の確立 高次の記憶 引用:それぞれの意識による覚醒
存在 | 課題(依存) | 自立 | 覚醒 |
---|---|---|---|
動物意識(生命) | 性の克服 地上 |
意志の確立 地上 |
愛 1.出会い |
人間意識(意思) | 愛の克服 2.甘えの克服 |
想像の確立 3.相手を全受容 |
直感 4.サイレント開始 |
幻獣意識(創造) | 直感の克服 5.闇 |
魂の個の確立 6.自立 |
高次の記憶 7.けやきの樹 |
こんな感じの流れを経ている。
最後、オムライスのお店を開いてる感じになっているけれど、これ、けやきの樹の記憶を思い出したってやつね。
単純に、地上のツインレイによる覚醒の流れで「愛」が成立するけれども、そこから「甘え」が生じる。愛と甘えは別物なんだが、甘えを克服していく必要性がある。
その流れで「想像」により相手を受容することを進めていくが、サイレント期間の開始のとき、強い直感性により別れを決める。
次にサイレント期間の闇とは「直感の遣い方についてを勉強しよう!」と言わんばかりに、直感を使っている人たちに出会うも、どれも「?」という感じのサイレント期間を過ごす。
その期間で学んだことはいくつかある。
- 直感は人生の指針ではない、自分の人生ぐらい自分で決めること
- 直感によって人の気持ちはわからない
- 霊的干渉はウザいこと
- 神は人に何かの期待をしていないこと
- 直感で得た使命とは「使命ではない」こと
- 神は人の願いを叶える道具ではないこと
とかだろうか。この期間の人たちが直感に振り回されていたような気がした。私もそうだったのかもしれないんだけれど、私は思想家だったので「生きている私が一番に最重要項目」という考え方が備わっていたのもあって、まだまともだったように思いたい。
たとえば、人生の決断を直感に預ける等のことが私は許せない人で「自分の人生の決断はすべて自分がしている」という感覚がある。だからこそ、すべてにおいて自己責任である。
しかし、直感がそう言っていた等に意識が傾倒すると、自分の人生を「誰が采配下しているのか——」の答えが「誰もいない状態」になる。これって、誰も自分の人生のカジ取りしていない状態になる。危険だなと思った。
ただ、私自身、直感を使っていなかったわけでもない。このブログを書いている中、耳鳴りが度々する。そのたびに「あ、間違えている」と理解する。たぶん、私がブログ書いていてサポートしてくれている存在がいるんだと思う。
生きている私が軸にあり、次に直感はそれのサポート的な立場にあるんじゃないかと思う。この関係性が反転しているケースを差闇の方々がやっているのを見てきた。
そして、この闇の人たちが使っていた直感とか、それらと私が持っている直感の大いなる違いが「自ら直感を望む」と「勝手に直感が降ってくる」の違いがあったような気がする。
闇の人たちは前者の「自ら直感を望む人たち」だったような気がする。だからか、直感にすがっている人生になっていたような気がする。
今回、魂の個として自立をするとなったが。
こちら「霊的世界による個」であり、霊的世界による自立とは、直感や霊的世界による存在に対してどのような関係性を望むのか——だったのだと思われる。
霊的世界による存在に対して依存するのか、それとも霊的世界による存在に対して自立し共存するのか。
魂としての個も、ひとつの魂として存在するとき、なにがしの干渉も必要がない状態で自分を維持することができるのか——ということだったんじゃないかと思っている。
最終的に高次の記憶を覚醒として思い出しているが、ぶっちゃけ、これ、思い出して何になるんだろう? と思いながら理論を立てている。この情報、生きていくのに必要?
めちゃくちゃ面白いよ。はーちゃんが発生した瞬間をなとりは視ちゃったしね。だけど、だから何感ハンパない。面白い、ただそれだけ。
ちょっとばかし思うのは、覚醒ってそういうことなんじゃないか——と思う。覚醒って「ちょっとだけ人生の面白さを追加できる」だけで、特に何か得られるものはないんじゃないかと。
結論として。
この「覚醒」なんだが。たぶん、生きていくには必要がない情報だと思われる。面白いけどね、この世の理とか、この世の不思議。いかにして私たちの魂が発生したのかを知って、私は面白いと思った。
また、私がけやきの樹だったときに、いっしょにいた魂たちやいっしょに発生した魂が存在して、その魂と出会える喜びもある。
だけど、私はこの知識がこの世でなんの役に立つのかさっぱりわからない。
だから人は知らんでおよろしい情報として閉じているのだと思われる。そんなんやるよりも、私は「全身全霊で遊んでいる」ことのほうが重要なんじゃないかと思っている。
とはいえども、人はアイデンティティを欲する生き物である。
私たちはどのようなルーツで発生したのかを知りたい。自分が何者なのかを知りたい。
でも、その問いかけにはあまり意味がない。
大事なのは「自分が何者になりたいのか」なのだと思う。
自分がどういう人になりたいのか、自分がどういう人生を歩みたいのか。
その自己主体性を放棄してはならないと考えている。
「自分」というアイデンティティは自分で構築していくことができる。
いかなる逆行のなかであろうとも「自分がどうありたいのか」「自分は何者になりたいのか」のロマンを捨ててしまうと「自分が何者なのかを知りたい」になってしまうんだと思う。
人は能動的な生き物のはずなんだが、いつからか受動的な生き物へと切り替わってしまいつつある。
この領域を知るには「魂レベルで自分が何者になりたいのか」を突き進むしかないんだと思う。魂レベルで自分が「個」としてのアイデンティティを手に入れたとき、必ず宇宙は「あなたが何者なのか」を教えてくれる。
だけど、自らの回答を持っていない人たちに、宇宙は回答をすることはない。
まずは解答欄をうめることなんじゃないか——と思う。解答欄をうめるとは、あなたは「何者なのか」を人生において体現してみる必要性がある。
解答欄を人生で埋めることが出来たとき、必ず回答が与えられると思う。
それが「覚醒」だけど、私はこれ、特に必要がないものだと思う。
私は私としてそもそも存在しているから、アイデンティティとして他なる回答を与えられたとしても、私は私であるだろうから必要がない。
つまり、必要がないから提供があるんだと思う。
ツインレイに関しても、ツインレイの存在が不必要な瞬間がやってきて、不必要だなって思った瞬間、なにかしらの提供があるんだと思う。
そもそも必要だと思っていること自体が依存にあり、その依存は自立へと向かわされていくんだと思う。
依存とは統合状態にあって、自立とは分離による共存である。
ツインレイのステージも、めっちゃ簡素にいえば「めちゃくちゃ真剣に生きていた時間がある」ってだけだと思う。その結果何が得られるのかは人それぞれ違うんだろうな。