ツインレイの否定説
まず、ツインレイが存在するのか、しないのか。これは仮説にすぎないということである。
私たちは『ツインレイが存在している』ことを信じている状態であり、ツインレイが本当にツインレイなのかどうかはわからない。
それは魂の話であり、ツインレイは『双子の魂』である前提を私たちは誰も明かすことはできない。ただ情報として『ツインレイという存在がいる』という前提があるが、その情報の信ぴょう性は一切合切確証が持てないということにある。
確証が持てないことを他者に「ツインレイだ」と言われても、それが真実かどうかなんて『誰にもわからない』わけである。しかし、私たちはツインレイを追い求めては不思議な現象に苛まされ続けている。
そして、自分自身が「ツインレイだ」と思っても、同様にその回答は『誰にもわからない』わけである。魂は視えないか為だ。そしてDNA鑑定をするわけにもいくまい。
結論して私たちが悩まされている現象の根源は『ツインレイが存在する』という思い込みに起因する。
というのがいわゆる、神秘主義の否定により生じる否定思想になるかなと思う。
いかんせん、これは同じ土俵に立っての否定ではない。神秘主義への否定と神秘主義への肯定は『ツインレイの否定と肯定』を繰り返すわけだが、ツインレイというお題は神秘主義のなかに存在している。
いわば、神秘主義への否定はツインレイに対してを否定しても同じ土俵に立っての否定ではない。
ツインレイの否定は神秘主義への傾倒者により行われるべきだということだ。
私は今回、神秘主義への傾倒者としてツインレイの否定を行うってことが先ずは必要なんじゃないかってこと。神秘主義否定者がツインレイの否定を行ったところで説得力がないためだ。
なぜならば、彼らは大前提である『ツインレイのお題』に対して『そんなお題はそもそも存在しない』と言っているだけに過ぎない。これでは会話が成立しない以前に議論も展開されない。
この思想の展開方法の根源は、闇側(日本記紀的には黄泉側であり、創世記的にはリリス的悪魔側)が行っていることのような気がしている。
私が言いたいことは『本末転倒的な議論は意味がない』ってこと。彼らがしている否定はお題が存在している『お題そのものに意味がない』という否定であり、そのお題に対しては何も思想ひとつを浮かべることが出来ない人たちともいえる。
私が何をするのかというと、ツインレイに対して今まで肯定的であった神秘主義者としてのツインレイに対しての否定論を突きだす神秘主義ってカタチで『ツインレイを明確にする』『ツインレイを事実にする』ってことを行いたいっていう目的がある。
この行いは『否定による肯定』である。いわば、ツインレイは存在するかしないかの賛否両論ではなく、ツインレイは存在しているという大前提のもとにその存在を否定するっていう行いをすることにより『ツインレイの明確化』が行えるってこと。
今までは『ツインレイは存在するかしないか』の行いが光と闇により闇側が『否定する』ことによりツインレイの存在そのものを消されるようなカタチに着地されている否定を、ツインレイの存在の在り方を否定するカタチに組み替えることによって、否定の立ち位置を変え、否定を肯定のように組み替えたいってこと。
本末転倒な会話をすることに飽き飽きしている。
否定したって意味がないことに否定することは揚げ足取りにすぎないんだが、常に闇側は逃げ続けている。揚げ足取りをすることで自己正当化の道具に扱い、論じるべきことに論じることがなくなった。そもそもお題を抹消することで闇が発展を阻害させているのも事実だ。それが『母』だなんて私は思わないし、思えない。
だったら、先ずは否定と肯定を同じ土俵で発起すりゃいいのかっていう結論にいたった。つまり闇という悪をガン無視で話を進めていこうぜってことだな~。したらば『存在の確立』が出来るということ。打消しではない否定によりようやく肯定するための否定が存在するため。
ツインレイとは何か
そもそもツインレイという存在はいない。私自身が思うツインレイとは『ツインレイの契約者』ということだ。
ツインレイとは魂の双子と言われている。この実証性を持つことは出来ない。DNAなんてないわけで、多くの人たちが誰がツインレイなのかがわかっていないようなツインレイ迷子状態にも陥っている。
つまり、ツインレイの相手が誰なのかがわからなくなるとは、本来『ツインレイ』というワードを手に入れているということになる。いわば、ツインレイという存在が第一に存在し、そのツインレイと上手くいかなかったというカタチに着地するとき。第二にツインレイの相手が誰なのかがわからなくなる。
もしくは『あの人はツインレイだ』というカタチでたったひとりに固執していくことにもなる。
ちなみに私は後者である。
私にとってのツインレイとは、私の精神構造のひとつに過ぎない。
私たちは、精神の構造がそっくりそのまま『社会』というカタチに創造されている。
私たちの精神構造のなかで象意が確立したとき、私たちには『象意の存在』が引き寄せられている。
ツインレイとは『分離してしまった象意』でもある。
三位一体とツインレイの関係性
この構図は『三位一体』である。私たちは神から子が生まれ、子が霊を生み出している。
神とはタカミムスビであり、キリスト的に言えばヤハウェであり、また父である。私自身も「お父ちゃん」と呼ぶのは、この父である。
この構造に意識を追加していこうかと思う。
私たちはこんなカタチで精神構造を生み出している。
が。ツインレイたちはどこかで分離をしてしまっている。その分離が『意識(愛がない)』ことなのか『無意識(大好きな気持ち)』なのか、『循環(大事する気持ち)』なのかはわからない。
この分離による欠落のなかで、私自身は『循環の欠落』を持っていた。
いわば、私は『意識』として存在し、またツインレイの彼は『無意識』として存在していている。しかし、霊が子に循環する大事にする思想が成立していないのが私だった。
ツインフレームの経験では、私自身は『子』であるがゆえに、霊を『大好き』と思う。つまり、ツインフレームでは私自身は『霊』を導き出す必要性があった。
人を好きになることで私は当初は『意識』を生み出す。その引き金がツインフレームとなる。そして、その意識が愛へと切り替わるとき、私たちは『神』を導き出す。
ツインフレームのとき、図の通り意識は無意識にしまい込む。つまり、大好きな気持ちは無意識となり、意識的に愛する行為を行うようになる。
ツインフレームの経験では三位一体の構造を生み出すことが出来る。
次にツインレイと出会っていくことになる。それが循環である。
しかし、当初のフレームの経験のままツインレイと出会うために『愛すること』しかできない。意識的に行えることは愛することだけで一方通行性にある。
無意識では大好きなわけだが無意識であるがゆえに認識が出来ない。
ツインレイの経験では『循環』を重要視することになる。この結合性を生み出し、私たちは神を追い出すことになる。
三位一体構造をしている。たしかにそうなわけだが、私たちは神から自立していくとき『愛すること』は『大事にすること』が重要視されていく。
私たちにとって神とは『自分の一部であった存在』である。このとき、私は『神』である。人を愛することができるとき、人は神であり、霊と子は『別の存在の他人』である。
私たちの精神構造がツインレイと出会うとき『自他認識が存在している』状態となる。
それは『神』と『人』による分離である。しかし、人は神の一部でもあった。それもまたひとつの事実でもある。
この分離は『自己分離状態』である。私にとってのツインレイは『自己分離の現象そのもの』であった。つまり、彼は『私の子』という意識である。そして、私は『霊と子』になろうとしている。神を卒業し、また霊と子になるとき、彼は神へとなるだろう。
これがツインレイのサイレント期間である。
彼は『愛』を探すことになり、私は『循環』を探す。これがサイレント期間である。
ツインレイの目的
ツインフレームは人を好きになり、愛にまで昇華すること。
ツインレイは人を愛し、循環にまで昇華すること。
この経験をし、自分の精神構造を『成立させていくこと』がツインレイの目的であり、またその契約である。
いわば、ツインレイとは『自己統合の契約者』であり、自己のなかに不成立となっている道を明確化していくことにある。
その契約を果たすことが出来たとき、私たちは『無意識』や『循環』を手に入れることができる。それまでは『好き=意識』でしかなかったために、本当に自分が何を好きなのかすらわかっているようなわかっていないような状態となる。
私たちは本当に欲しいものは手に入れ続けているが、手に入れていることに気づかない。それが人なのである。しかし、自己統合、もとい、三位一体が分離してしまっているものを繋げていくたびに私たちは『私たちの人生はなにひとつ間違えていない事実』に気づいていくことになる。
しかし、その私たちが『私たちであること』にツインレイの相手は関係がない。
それはツインレイという経験により『循環』を手に入れるという自己分離を自己統合させていく経緯を担う契約に過ぎない為である。
はっきり言ってしまうとツインレイの相手は条件を満たしている存在ならば誰でもいいともいえる。契約が結べる存在ならば誰でもよいのである。
つまり、ツインレイは魂の双子ではなく、これから魂の双子になる経緯をたどっている。
ツインレイの愛とは人と神が繋がるとき
さて、ここで『ツインレイの愛』の話をしているわけだが、そもそも『愛とは何か』である。
それは私たちそのものである。
私たちは神に愛されている。そして、その愛を受け取っている限り、私たちは心を持っている。その心があるとき、私たちは常に神に繋がっているのである。
では『心とは何か』である。それは神である。もっとも神は人を愛しているし、人を大事に想っている。だからこそ、私は魂の発生のとき、子は『大好き』という意識を持ち、霊は『大事にする』という意識を持って生まれている。
大好きを大事にする。これが『愛』なわけである。
しかし、人はひとりよがりにもどこかで人を傷つけなければ、自分を好きになってもらえないとか嫌われるかもしれないとか感がrているわけだ。ずっと神は人を愛しているし、心を与えている。
その心を持ち続けるには勇気が必要だ。神を信じるとは『自分の真心』を信じることと同じである。
最終的にこのような構造となる。どこかで見たことがあるとは思わないか。
日月神示のマルチョンである——。
神とは愛そのものであり、神は人を愛している。愛しているゆえに人は『好き』と『大事』を持っている。このふたつをグルグルと循環させていくことにより、円を描くことになる。そのとき、その円は『神の本心』を構造化させることができる。
いわば、人とは神の分身である。神は人を模して創造した。人は完全として生まれてきている。それは『本心』にある。
この構造を組み上げていくことがツインレイの盟約である。
さて、マルチョンの順序的なものを先ずはもう少しステージ化させてみようかと思う。
マルチョンを導き出すステージ
ツインフレームは人を好きになり、愛にまで昇華すること。
ツインレイは人を愛し、循環にまで昇華すること。
この経緯がステージである。もう少し分かりやすいように図式化していきたい。
1.ツインフレームの出会い | 2.ツインフレームのサイレント期間まで |
---|---|
3.サイレント期間の芽生え | 4.ツインフレームの別れ |
5.ツインフレームの完成 |
このようにツインフレームの経験により、人は『好きになること』と『大事にされること』を放棄し、神となる。
人のために生きることができるようになるため、我を失う。自我の喪失を進めていくことにより『ツインフレームの経験』は完成し、当人のなかから『自分』たる『人を好きになる』『大事にされたい』という欲求を喪失する。
この前段階を再び、ツインレイの相手と体現することになる。
というのは、ツインフレームのとき『神』にまで至り、人を愛することが出来るが、やはりツインフレームのことは『好き』なのである。
ツインフレームとは『好きになる対象』であり『霊』である。ゆえに、ツインフレームは『霊の体現者』ゆえに、霊を切り捨てるために(人の一部を切り捨てるために)ツインフレームとは離別を迎える必要性があると言うことだ。
そして、子である『自分』とも一時的にさよならを迎えることになる。そのとき「交代する」ような感覚である。主人格が切り替わるようなものであり、この切り替えができると人を愛することがそんなに難しくなくなる。いわば、人を愛することが徹底して行うことができるような精神状態になるのである。
これにより『博愛主義者』が成立する。
次にツインレイの経験へ移行する。