ツインレイの存在の自立までの経緯と、鬼の存在による二人のサイレント期間の弊害について。
ツインレイのふたりは善悪二元論の状態となり、ようやく出会うことになる。
それは私たちが二元論に縛られているからであり、この善悪二元論を二元性にもっていくことがツインレイの目的でもある。
善と悪の相関性は『悪がなければ善が成立しない』『善がなければ悪が成立しない』という善悪というどちらもが存在し、同時にここには勝敗が決まっていると付与が追加されている。
いわば、私たちは『善が正しい』『悪が間違い』という主観を持って生きている。
もちろん、ツインレイのふたりも同じである。ツインレイの相手は「きっと正しい」と思っているが、だけどそれを本当の意味で理解をしていない。
しかし、ある時、ツインレイのふたりはサイレント期間へ突入するとき、離別をむかえる。
「相手は間違っている」という自身の主観によるぶつかり合いが生じる為である。今までは『相手は間違っていることを愛』として内包することが出来たが、ツインレイ自身が相手を愛しきった先には反転世界が待っている。
その反転世界では『相手を信じ、愛している』から『相手は間違っている』と言う反転を起こす。いわば、信じていたり、愛していたのは『そこに間違いがあったから』なのである。
私たちは信じ、愛することで、間違いを理解することが出来ないほどになっていた。それは『間違い』というものを愛しているからである。
私たちは『悪や間違い』というものに目をつむっている。目をつむり、自分自身の『悪や間違い』を肯定し、それがあるからこその自分が存在していると自身の経験を持っている。
自身の経験を肯定すればするほど、ツインレイの相手を愛することができる。ツインレイの相手へ気づくことができる。
しかし、自身の経験は『悪・間違い』なのである。それがツインレイの相手への概念となってしまっている状態だ。
ツインレイの関係性は『自分が存在しているから相手が存在している』という愛の概念のもとに存在している。しかし、それにも限界がやってくる。
それはツインレイのふたりが愛により、ツインレイの相手を愛しきったとき、二元論の存在が生まれなくなるのである。
ゆえ、自分自身のなかで『自他』という意識がなくなる。ツインレイの相手は『自分』となる。これが『自己愛』となる。
当初、善と悪(愛)により分離していたふたりは、愛を自己のなかへ取り込むことにより、ツインレイの相手により生まれた悪を取り込んでいくことになる。しかし、取り込まれた愛とは『悪』である。
その悪を愛しているがゆえに、ツインレイはそれぞれ『どこからみたって自分が正しい』というような状態となり、ツインレイのふたりはサイレント期間へ突入する。
ツインレイの相手を間違っていると思っているものに対して、愛しているがゆえに、ツインレイの相手の間違いを受け入れているのである。
サイレント期間では、ツインレイの相手が間違っていると思っていた内容を私たちは受け取っていくことになる。
当初、善悪二元論のとき、私たちはツインレイの盟約をしている。
次に、二元性を確立すると、ツインレイの契約を結ぶことになる。
しかし、ツインレイの盟約を結んでもいいのかということを、ツインレイのふたりは誓約により判断をすることになる。
ツインレイの盟約とは『お互いが自立として成立しているのか』である。
私たちは、サイレント期間で『愛による過ち』についてを理会していかなければならない。
ツインレイを愛したがゆえの過ち
ツインレイを愛していると同時に、私たちのなかには『善』『愛』しかなく、中身はけっきょく『善のみ』というような偏りを生じさせている状態である。
人は必ず、二元性を維持する必要性がある。それが精神構造だからだ。
ゆえ、ツインレイたちは自立をするために『では、悪とは何か』を考えていかなければならない。
ツインレイの相手が愛したがゆえに抱えている『悪』のなかに紛れ込んだ鬼を暴いていく必要性があるのである。
なんでもかんでも許せばいいってもんでもなかったということだ。しかし、私たちは未熟である。耐えて忍び、多くの愛による弊害をも理解するために、私たちが『過ちまでも愛してしまっていた』という事実と向き合っていかなければならない。
それはツインレイの相手が愛していた過ちである。
鬼とは何か——
ツインレイがサイレント期間に立ち向かう鬼とは、闇の刺客とも言えるが、今回は私は『鬼』として書こうかなと思う。
では、鬼とは何か。鬼とは『人のせい』にすることにある。
愛とは『自分のせいではないものまでもを背負わされることを許可する』ことである。
六道の表裏一体表 表・強い心(ハリボテの弱さ) 裏・弱い心(ハリボテの強さ) 天道 人を受け入れる 有頂天になる・拒絶する 人間道 四苦八苦を受け入れる 自分の心の苦しみから逃れようとする 修羅道 時に厳しく人(自分)を正しいほうへ導こうとする 人を自己都合による正義や道理で殴り、怒る 畜生道 人は失敗をする生き物である(自他の失敗を許す) 愚痴っては人を見下し、自分を優位にする 餓鬼道 欲しいものがあるとき努力をする 人の持っている能力などを羨み、努力をしない 地獄道 いかなることがあったとしても平常心を心がける 人を苦しめ、悪意を持って害を及ぼす
- 拒絶(苦しみの拒絶)
- 四苦八苦(自分の苦しみを人のせいにする)
- 怒り(怒りを他者のせいにする)
- 愚痴(自分の立ち位置による不満を他者のせいにする)
- 妬み(努力をしない言い訳を他者にみつける)
- 犯罪(自分の罪を他者へなすりつけるために害を及ぼす)
というような六道からも、六つあげられる。
どれも『人のせい』である。これが鬼のやることである。
最後は『自分の行いは、すべて人のせい』というカタチに着地しては、今も自分は悪くない道理を見つけ続けようとしているだろうが、すべてにおいて『自分の行いによる結果』である。
苦しみとは、自分の心、自分の行いによる結果に過ぎない。その苦しみを『人に押し付けようとするのが鬼』である。
いわば、他人が苦しんでいる姿を見ることが『自分の苦しみから逃れる手段』なのである。正気の沙汰じゃねえよ。
愛とは何か——
愛とは、鬼を愛することではない。
しかし、無差別級の愛を放ってしまったがゆえに、私たちは自分たちの領土に鬼を生み出すことになった。
愛により犠牲が生まれた。その犠牲とは自分である。自分のなかに鬼を許してしまった犠牲が生まれた。
この犠牲を、ツインレイたちは除去していかなければならない。
鬼たちに『自分の責任は自分でとる』としていく必要性がある。
自分の責任を自分でとることが出来ないうちは、ケツが青い存在である。そのとき、とってあげることもできるかもしれないが、それを許しはしない心が必要だ。
人の成長とは『自分の責任を自分でとる』ことができるようになっていくことだ。
人のせいにし続けているうちは、人の成長は見込めない。だからこそ、人の成長の為にも、人のせいにしている人を許さないことが愛なのである。
その愛とは『成長を喜ぶ心』でありたいと思う。
鬼を抜くことで、私たちは『他者』という概念を抜き去ることができる。
いわば、愛のなかに『他者』という存在が紛れ込んでいた状態となり、私たちは鬼を抜いていく必要性があったのである。彼が着せられていた罪を理解し、そのなかにある鬼を暴き、その鬼に罪をお返しすること。
それは『自分の行い』『自分の心(苦しみ)』をすべて自分で責任をとるということだ。
彼らは、他者の行いや他者の発言による揚げ足をとっては『自己の存在を正当化』するところがある。それは人のせいにし続けているだけである。自分のなかにある『行い』『心(苦しみ)』の責任をとれない人が、どうして人の行いや発言に対して文句をいう権利があるのだろうか。
そうやって、自身が抱えられない苦しみを他者へ押し付けているのである。
それが人間でしょ? って思っていたんだが。整理して考えてみると、これは人じゃねえわ。人の皮をかぶった鬼だわ。
私は大きな勘違いをしていたらしい。なんだろうね、受容しすぎて、鬼の存在まで許していたのか・・・・・・。
正気の沙汰じゃねえと思っていたが、そもそも鬼の正気ならば、これが正常か。なるほど、鬼の上陸は拒否することにしよう。我が領土に鬼はいらぬ。
いらぬ、いらぬぜ。
自己責任によるツインレイの自立
このとき、私たちは自分のなかに『ツインレイの相手のせいにする』という意識が抜け落ちる。
私たちは愛のなかに『鬼』という『人のせい』にされた内容が紛れ込んでいた。
いわば、それが『自分は悪くない』という思想に変わってしまったわけである。
自己責任というカタチで、他人の責任をも背負ってきたツインレイだからこそ、ツインレイの相手を愛することができる。
しかし、愛を交換したとき『他人の責任を取ってきた分だけ、鬼がいる』のである。鬼により、ケンカが生まれる。
これがツインレイのサイレント期間による離別である。その量が多ければ多いほど、鬼の量も多い。(私自身も、かなり私が自己責任として他人のものを背負ってきたものがある。だからこそ、彼くんの分も同量あるのだと思われる。)
ツインレイの自立とは『他人の責任を背負わない』ことである。
いわば、多く人から押し付けられてきた責任を取っ払っていく作業である。
同時にこれは『ツインレイの相手のせいにしない』ことにも繋がっていく。
これがツインレイのふたりが存在として他人を必要としない自立となる。
自分の心と行動の責任による自立
ツインレイは自分自身の心の責任をとる。自分がいかなる感情を抱き、どんな苦しみを感じることがあったとしても。
それは『人のせい』『人に傷つけられた』と、言うこともない。心は自分自身の領域にある為、人に傷つけられるものではないからである。そもそも苦しんでいる理由は自分にあるからだ。
そして、自分自身が起こした行動の責任をとる。その行動による結果を受け取っていくことになる。行動をしなかったことによる結果も受け取っていく。
そこに善も悪もなく、ただ、結果を受け取るだけ。その結果をうけとることが経験となっていく。
自立とは『自分の存在が成立するだけ』である。しかし、そこに他者へ寄りかかることも寄りかかれることもない。
それが存在による自立であり、善悪二元論に陥っているときは存在による寄りかかりがあったが、二元性へ昇華されるとき、二元性による存在の自立が生まれる。
このとき、私たちは『存在の自己責任』をとる。しかし、他者の存在の責任(善悪二元論)をとることはない。
しかし、存在の自己責任をとる人たちと協力して生きていくのである。共存の成立である。