サイレント期間中に虚無化しているツインレイたち(ニヒリズム・虚無主義、自分には価値がありませぬ。人生に意味などありませぬ。)

2024-02-10

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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コメント欄にてニヒリズムの話がでまして。そういえば私、ここ最近、虚無になっている状態だなと思った。記事としても納得がいかないような記事になってしまっていたのが『生きる価値がない』ことについてだった。そうだ、ニヒリズムだ! と思い、記事を書く。

 

生きる価値がない。共依存が依存をやめたとき、依存対象物がそこに存在していない為『自分に価値を見つけなければならない』状態になったとき、自分に価値が見つけられない。

回避依存が依存をやめたとき。それは逃げることをやめたときである。そのとき『自分に価値を見つけられない』状態にあるのではないだろうか。

つまり、共依存は元々自分には価値がないからこそ他者に価値を見つけ、共依存により自分を価値化させる目的がある。回避依存は自分には価値がないからこそ無価値な自分から目を背けるようにして回避依存をしている。

回避依存がなぜ回避するのか。その理由は根源的に存在する無価値な自分を共依存者から認識してしまう原因をもたらしているからではないだろうか。

ここにあるのは『価値がないこと』に向き合わなければならないことにあるのだが、もし『自分には価値がない』『自分には意味がない』というニヒリズムに走ったとき、私たちは自分のなかに『無』を見つけることが出来ているのである。

 

ちなみに哲学者の自殺率が高い理由もここにあると考えている。なとりもそのきらいがあるんだが、このサイト運営上でも何度か強いニヒリズムに陥り『このサイトには意味がない』とかも書いているし、たいていは考えすぎた結果、虚無のるつぼにはまっているようなモンだと思われる。

これには意味がない、これには価値がない。これは空の思想にも繋がっている。意味がないこと、価値がないこと。それをし続けているのが人であり、意味がないことや価値がないことに『意味』や『価値』を見つけているからこそ、知的生命体たらしめるものなのかもしれない。

 

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ツインレイに意味はあるのか

ツインレイのサイレント期間で私たちは『ツインレイへ意味を見つける』ようなことを始める。もはやこれが魔境の根源でもあり、意味を見つけ続けることはスピリチュアル的な行いでもあるため、ツインレイ女性はエンジェルナンバーに歓喜し、絶望をしたりもする。

スピリチュアルナンバーなどにも私たちが意味があると思ったとき、意味を持つ。しかし、意味がないと思ったときには意味がもたらされない。つまり、これが人の価値観であるが、スピリチュアルが多くの人に受け付けられない理由は「たかが数字に意味などない」というリアリズム的な意味合いがある。(スピリチュアルは私たちが持つひとつの心の防衛でもあるから非難はよろしくない。)

ツインレイの追求をしていると、最終的には『意味がない』に陥る。理由だが、このサンレント期間について再会したいと望むことも、ある種その行いに意味があるのかといえば、再会したいと思ったからと言って再会できるわけではないため、これには意味がない。

つまり、そんなことを考えても無駄だということに行き着いていく。最終的には『すべての思考は無駄である』ということに気づく。

しかし、私たちは知的生命体であるがゆえに考えることは常に人として生きる限りの側面として存在している。

すべての思考は無駄である、しかし、その無駄を生きているのが人間であり、人たらしめているものであるゆえ、ツインレイのことで頭を悩ます人たちの多くが「人らしい行いを実行している」とも言える。ゆえに、無駄なことを考えている人たちは、まだまだ希望に溢れている存在であり、その希望により生まれる絶望から『生きている実感』を覚えているともいえる。

どうだろうか。虚無主義へと傾倒したとき、私たちは生きている実感が湧かない。すべてにおいて、生きることにすら意味が見つけられない私たちは『生きる意味』がわからないため、ツインレイの再会をも望まず、ツインレイについて考えることを放棄し、よく言われているが『ツインレイのことを忘れる』状態になったとき、再会が迎えられるのだと言う。

ツインレイの依存とニヒリズム


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回避依存の人も、共依存の人も、どちらも根源に『虚無』を抱えている。

図の説明:共依存は無価値なる存在、回避依存は無価値から逃避する存在

虚無たる自分から逃避しているのが回避依存であり、虚無そのものであるため、共依存は誰かに価値を見つけることで寄生する。

つまり、回避依存と共依存の中心は『虚無』が存在し、その虚無ゆえに共依存と回避依存をしている状態にある。どちらも逃避にあるが、根源には『虚無』がある。対応の仕方が違うと言うことだ。

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回避依存のツインレイはニヒリズム

回避依存は常に共依存側のツインレイに価値がない自分を見つけさせられ続けているようなもんである。常に見たくないものを見続けなければならない状態にあるから、根源的にある『虚無』と向き合わないために回避依存をしているともいえる。

ゆえに回避依存となるツインレイは、虚無に向き合わないために、ワーカホリックになったり、性的依存を生みだしたり、お酒をたらふく飲んだり、ギャンブラーになってみたりと自分の本質と向かい合わない術を持っている状態にある。

何かしらから逃げている状態にあるが、回避依存が向き合わなければならないのは『本当にはマジで何も持っていない自分』である。そしてそれが『当人の等身大の自分』にあるのではないか——と思う。

そして回避依存の人たちが優秀な理由は、虚無であることから逃げ出すために『ハリボテのように表面的に取り繕った自分』を生み出していくことにより、等身大の自分と本当の自分との乖離が生まれると言うことだ。

等身大の自分を常に人は見ているが、ツインレイの相手だけは『本当の自分』を見てくる。

なとり的に言えば「弱虫、毛虫、ダンゴ虫」だし「地位もない、名誉もない、フィンランドの領土も持っていない、金髪碧眼でもない、何にも持っていない男の子」である。まさになとりがツインレイの相手を見るとき、何も持っていない等身大のツインレイそのものだったとだと思われる。

ハリボテはツインレイの相手の前では崩される。もはや逃避せずにはいられまい。

共依存のツインレイは虚無そのもの

共依存のツインレイは『虚無そのもの』でもある。ゆえに、回避依存のツインレイにとっては等身大のツインレイともいえるが、共依存のツインレイが抱えている問題は『自分が虚無であるからこそ、他者に価値を見つけること』にある。

他者に価値があれば、他者の価値に依存していく。いわば、これをとてつもなく侮辱用語に変換すれば『寄生』ともいえるんだ。

自分に価値がないから、他者の価値によって自分を価値化させていく。

ツインレイにも言えることだと思う。ツインレイのなかでもいろんな方々がいるけど、ツインレイの相手と結ばれることにより自分を価値化したとき、それは共依存に他ならず、ツインレイの相手と結ばれていないときに自分にはまるで価値がないことをそっくりそのまま受け入れる必要性がある。

 

共依存のツインレイがなぜ回避依存のツインレイを追いかけてしまうのか。

はっきり書いてしまうと「回避依存の彼には自分しかない」というよくわからない自信があるためにある(これは傲慢な考え方だと思う。自分をすごい人間だ、とか自分には価値があると思い込んでいる人たちの発言のように感じられるからだ。)。どこかのツインレイの記事に書かれているかもしれない。これはもうホント、落とし穴としか言いようがないように思う。

回避依存の彼は共依存の相手を捨てて逃げたのである。それは『価値があると思っている存在への対応』なのか——。冷静に考えてみる必要性がある。

 

共依存のツインレイが受け入れなければならないのは『ツインレイ男性にとって価値がないと判断された自分』である。だから捨てられたのである。だから見放され、切り離され、拒否されているのである。

共依存の幻想では「彼は回避依存だから自分のことが好きだから避けているんだ。」とか、なんかまァ、自分にとってご都合主義的な判断をすることになるんだが、冷静に考えてみてほしい。

相手は自分ではない。つまり相手の気持ちを予測した判断に価値はない、それは真実ではない。価値がないものを信じ続けている状態になるのが共依存のツインレイにあり、必要なのは『現実』にある。

魔境の恐ろしさは『妄想が事実だと思い込み始める』ことにあり、現実から遠のいてしまうことにある。

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ニヒリズムの克服について

ニーチェによれば、ニヒリズムにおいて私たちが取りうる態度は大きく分けて3つある。

  1. 従来の最高の価値を信じる精神力を失ったために、そうした価値が無意味に感じられるということ[1]。何も信じられない事態に絶望し、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、流れるように生きるという態度(弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズム)。
  2. 精神力が高揚し、従来の価値を乗り越えてゆくがために、従来の価値が無意味に感じられるということ[1]。すべてが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考える生き方。つまり、自ら積極的に「仮象」を生み出し、新しい価値を能動的に創造していく生き方(強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズム)。
  3. 絶望すること・能動的になることにもやはり価値はないと考え、弱さのニヒリズム・強さのニヒリズムを否定する。自分では何も考えずに、しかし他者からの干渉も価値がないものだと無視して生きるという、一種の『悟り』のような態度(中心・無関心的ニヒリズム)。

ニーチェは積極的ニヒリズムを肯定し、永劫回帰の思想の下、自らを創造的に展開していく、鷲の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」になることをすすめた。

引用:ニヒリズム – Wikipedia

ニーチェさん的には、3種類のニヒリズムに対しての対応があって、ひとつは「なんかもうダメだ。何も信じられない・・・流されるように身を任せよう・・・」という生き方。これが消極的なやり方。たいてい皆、最後は自殺して終わる。(私の闇の刺客のうちの天使的思想だな。)——消極的ニヒリズム

2つ目は「従来の価値観よりも新しい価値観を構築していこう。」となる考え方なんだが、根源的には無意味であることなどのニヒリズムを受け入れる状態のまま、だったら新しい思想を生みだせばいいやっていう姿勢。これがなとり。従来のものに意味がないから新しく思想を構築している。(なとりが超人いわれる理由はここ。)——積極的ニヒリズム

3つ目は、絶望にも意味がない(消極的ニヒリズムを否定)、新しい価値を創り出すことも意味がない(積極的ニヒリズムを否定)。自分では何か行動を起こすこともないし、自分で何も考えない。そして他者に何か言われても「自分には関係がない。」と無視して生きていくっていう思想(闇の刺客の悪魔的思想)——無関心的ニヒリズム

 

なるほど・・・・・・。

『自分には価値がない』。このニヒリズム的な視点をどのように受け止めるのかの度量の話のような気がする。自分には価値がない、それを大前提にして生きている私にとって、今の現状は「まァ、そうだよね。」っていう最悪の想定内とも言える。

しかし、自分には価値があると思い込んでいる(価値があるとは思込みに他ならない)場合、共依存や回避依存に傾倒するが、回避依存の場合、無関心的ニヒリズムに落ち着き、共依存の場合、消極的ニヒリズムに落ち着くように感じられる。

ニヒリズムによる対応
依存
消極的ニヒリズム共依存
無関心的ニヒリズム回避依存

自分のなかに生み出す『自己』というものが存在するのであれば、それと同化したときの反応のように思う。

たとえば、共依存の場合、ニヒリズムという虚無と同化したとき、その虚無に対しての対応力がない。ゆえに流されるしかない。このとき『虚無』でしかなくなる。虚無の乗っ取りが起きる。

回避依存の場合、ニヒリズムという虚無と同化したとき、その虚無に対しての対応力はやっぱりない。ゆえに価値がないことを受け入れられず『悟りをひらたかのように見せかけている客観した人』みたいな感じになる。これは自己のなかで『虚無』と『自己』が分離した状態になるためだ。

つまりニヒリズムの対応は『どれだけ自分を育て上げてきたのか』により結果が違ってくる。

自分が成立していなければ、虚無に対してどのように対応すればいいのかがわからないのである。共依存は自己がないから虚無に乗っ取られ、回避依存は虚無を自己が受け入れられない為、虚無と自己が分離する。

 

超人へと進む積極的ニヒリズムの人たちは、虚無が創造の根源だと知っている。自己を構築してきたツインレイたちにとって、虚無へ触れることは新しい始まりでもある。

無となれば創造をし練り直せばいいだけにある。それだけの自己を構築し、自己そのものが虚無を受け入れる姿勢があることが重要にある。

根源には『自分には価値がない』という視点をうけいれてきたことにある。これは『他者に価値がある』と考えてきた人たちにより構築されることにあり、未熟な私たちは従来は自分の価値を失うことでしか他者に価値を齎すことができない。

しかし、今回のニヒリズムによる虚無に触れた段階で『新しい創造』をする。そのとき、自分の価値と他者の価値による善悪思想から二極の循環思想へと組み替えていくことにより、私たちは新しい思想を手に入れていくことが出来る。

なとりのニヒリズム

ちなみに、なとりだが。なとり自身は『無価値な自分』を受け入れている。だからこそ自己犠牲が出来る状態にあった。つまり、状態的には虚無そのものを常に生き続けていたともいえる。この状態が続けばそりゃ離人にもなるとは思う。

ツインレイの相手に対してもあんまり追いかけなかったりもした理由は「彼が自分を優先にしなければならない理由はない」からだ。

彼が私を重要視しないことや逃げ出していくことも受け入れられる理由は『自分が彼にとって重要である』『自分にとって彼は価値がある』という考え方がなかったら、彼が逃げ出したとしてもそれは特に問題がない。

たぶん、なとりが共依存を克服した段階が第二サイレントの始まりなのだと思われる。

無価値な自分を受け入れている状態であれば傲慢がなくなる。他者にとって自分は価値があると言う思い込みがなくなる。

自分には価値がない。これを受け入れると『無価値な自分』を地でいくことになるわけなんだが、最終的に無価値を受け入れた人は真逆にひっくり返って『価値化』されるのだと思われる。

図の説明:他者により価値化されるが、自己認識では価値化できない

自分は『無価値である』ということを第二サイレント期間の始まりでツインレイの彼から烙印を押されることになることにより、自分をそっくりそのまま『無価値』という存在になりきれる。

が、反面、他者からすれば「価値がある」のである。このときに闇が這いよる。価値がないと思っている存在に対して価値があると言葉にして伝えてくるのである。

ここで「そうなんだ! 自分には価値があるんだ!」にはならない。自己認識では『無価値』ゆえに、闇の言葉は受け入れられない。自己認識がここで少しでも傲慢たる自分に価値があると思っているとき、闇の言葉に調子に乗るような出来事が起きるのだと思われる。

ただ、同時になとりはこのような感じでもあった。闇の人たちは「自分には価値がある」って思っているみたいだが、なとりと同じゴミクズだと思うぞ? っていう感覚だ。ただ闇の人的にはこれはコンプレックスのタブーでもある。価値がない自分を受け入れられないから『共依存』『回避依存』などを繰り返しながら、なとりへの攻撃を続けるのである。

ひらたくすると、なとりが価値があるからこそコンプレックスが浮き彫りになるんだが、根源的には『なとりに価値がある』ことを認められないって感じなのだと思う。

色々闇の攻撃を受ける中で、なとり自身は『価値化』をさせていく経緯にある。闇に攻撃されたらされた分だけなとりは『価値化』されるって寸法だ。理由はひとつ。なとりに価値があることを認めてしまえば、闇側は『本当に無価値化』されてしまう。

真なる価値は新しい価値を創造していくことにあり、それがニーチェによる超人説なのだと思われる。


とりあえず、虚無に遭遇したら、虚無そのものを受け入れ、ゆえに「じゃあどう生きるのか」を導き出せばいいだけの話なのだと思われる。

ツインレイには価値がない。意味がない。じゃあ、新しい価値と意味をみつけて新しい創造をしていこう。

ツインレイは戻ってこない、再会できない。じゃあ、そこに「これからどのように生きていくのか」の新しい創造をしていこう。