『ホムンクルス』フラスコの中の小人とツインレイの経験|ツインレイと錬金術④
錬金術の話の中には『人造人間』を作成するという項目がある。生み出された人造人間は『ホムンクルス』という。
ホムンクルスについてのツインレイのステージは、ツインレイの第二サイレント期間に訪れ、第四チャクラの課題に着手していくことになる。
ホムンクルスはフラスコのなかに存在する妖精のようなもの——として捉える。
製法はルネサンス期の錬金術師パラケルススの著作 De Natura Rerum (『ものの本性について』)によれば、蒸留器に人間の精液を入れて(それと数種類のハーブと糞を入れる説もある)40日密閉し腐敗させると、透明でヒトの形をした物質ではないものがあらわれる。それに毎日人間の血液を与え、馬の胎内と同等の温度で保温し、40週間保存すると人間の子供ができる。ただし体躯は人間のそれに比するとずっと小さいという。引用:ホムンクルス 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今まで錬金術においてをいくつかの話に渡り語ってきた。
哲学者の薔薇園においてでは、絵にてホムンクルスのような姿も描かれている。
では、この子供については何なのか——ついてを言及してきたいと思っている。
ホムンクルスのフラスコと『魂』
私たちのなかには『魂』がある。その魂こそが『フラスコ』として考えることができる。
私たちの魂とすると、とてつもなく語弊がある。私たちの魂は『霊魂』にある。魂という殻のなかに霊が入ることにより、地上にて『霊性を持つ』とした存在になることができる。
魂のなかに霊が入り込み、そして、そのふたつを合わせて『霊魂』である。この霊魂そのものにたいしてのうち『魂の殻』がフラスコということだ。
そのフラスコのなかに存在しているのが『ホムンクルス』である。
私たちは、私たちのなかに『霊』を飼っているようなものであり、またその霊は幾体にもおよび、またツインレイとしての『霊』も存在している。
上記では仏教のほうでの末那識について述べているが『末那識がホムンクルス』であり、『阿頼耶識がフラスコ』として捉えることができる。
神は『ホムンクルス』を作成できる
私は神であるおとうちゃんから『末那識』を受け取っている。つまり、神は基本的にホムンクルスを私たちとして常に生み出し続けている。
錬金術とは神が魂を作成する経緯においてのうち『魂の作成そのもの』が『フラスコからホムンクルスが作成される経緯』として書きだされているのである。
つまり、錬金術をされて私たちが生み出されているのであり、私たちこそが人造人間ともいえるひとつの側面性がある。
私たちの中には常にホムンクルスが存在している。
前意識である『五感』と『意識』は、この世に存在している意識であり、その意識によって私たちの人生は翻弄されるようになる。
五感により煩悩が生まれるため、ホムンクルスと繋がることはほとんどない状態にある。
しかし、ツインレイとは『双子のホムンクルス』とも言える。
元々はふたつのフラスコのなかを行き来するようにしてツインレイたちは産みだされている。
フラスコのなかをひっくり返したりなどしながらツインレイの霊魂は成立するが、このときホムンクルスは双子として生じる。
この過程においてを経てツインレイたちが生まれてくる為、ツインレイは『ホムンクルスの双子』でもあると言える。
反面、ツインレイたち以外に『ツインレイという存在がいない人』もいてもおかしくはないと考えることができる。理由だが、フラスコをひとつで魂を作成することも可能なため、ツインレイがすべての人に存在するという定義そのものはなかなか難しくもなる。
(ツインレイがこの世は二元性だから必ず存在する——の意見は、この時点で『ひとつのフラスコにひとつの魂を作成する』という提案が生じる限り、すべての人に存在するとは定義しきれない。ホムンクルスへ二元性を組み込んだ魂をひとつのフラスコで作成すればいいだけの話だから。)
双子のホムンクルス『ツインレイ』
では、ホムンクルスとは何なのか——。
ホムンクルスとは、霊魂のなかに存在する『霊』である。ツインレイの場合、末那識が双子として生じている部分にツインレイの記憶が眠っている。その霊を呼び起こす必要性があり、その霊を呼び起こすために『ツインレイの出会い』が存在している。
ツインレイの出会いの段階で、幼児化するような現象は『末那識の霊』に戻るが為、ツインレイたちは幼児化をする。
ホムンクルスでは多く『小さい姿』として書かれているが、たしかにツインレイたちのホムンクルスも『小さい姿』という子供の姿をしている状態にある。
ツインレイのホムンクルスのひっくり返り
このツインレイに存在している末那識の意識(ホムンクルス)は、第二サイレント期間で反転をする。
もはや、私たちの魂の作成過程で、ツインレイの相手とフラスコを行き来したときの記憶があるように、ツインレイのホムンクルスとフラスコを交代するのである。
この過程が行われるのが『第二サイレント期間』にある。当のツインレイたちの本人たちは、お互いの『自他の認識』というツインレイの相手は自分であり、また他人である自覚が取れたとき、ふたりは離別を迎えている。
段階を経て、第二サイレントでは『フラスコの中身を交換する』ようになっているためである。
ツインレイの相手のホムンクルスたちは、相手へ同意を求める、「フラスコのなかに入ってもいいのか——」ということを。
私たちは無自覚にもホムンクルスの意を受けいれ、ホムンクルスたちは私たちのなかに存在する魂の中へ住むようになる。
このとき、ツインレイたちのフラスコは出会いの時点で繋がってもいるし、ホムンクルスたちは自由に外へでていくこともできるようになっている。
それまではフラスコのなかで眠っているかのように、私たちが気づくことができない領域に存在するホムンクルスたちが、第二サイレント期間ではフラスコの外へでていくのである。
そのとき、私は「ばいばいだよ」とだけ、言葉を聞いた。
そして、ツインレイの相手のホムンクルスは「どの世界線のおれにする?」と何度も私に聞いて「君がいい」と答えるまで辛抱強く毎晩に自分を求めているかどうかを聞いてきた。
私たちの体験は『ツインレイの相手について体験』をするようになるのである。
私たちは私たちのなかに『ツインレイの霊』がフラスコのなかにはいるがために、ツインレイの霊が呼び起こす現象に立ち向かわなければならない。
私の場合は、ツインレイの彼が背負う多くの幻影と向き合うことになる。絶望、死、自殺のような『点』という自分には価値がない無価値観の極致たる意識を経験することになった。
彼は意識が『点』として存在する。点の意識は究極なる『個』であり、彼が抱える究極なる孤独感を学習したのである。
私たちは、第二サイレント期間で『ツインレイの相手の記憶』をふたたび経験することとなる現象の根源は『ホムンクルス』にある。
マヤのホムンクルスはいなくなる
最終的な結論を述べておこう。ツインレイのホムンクルスはいなくなる。もとい、そのホムンクルスは『本当にホムンクルス』だったのか——とも言える。
私の中にいたホムンクルスは『マヤ』と名乗った。最後の最後にねだったものはトムテの人形である。
ヨガでは、マーヤという言葉があります。(サンスクリット語で幻想という意味になります)
この世の中は幻想の世界であり、神の世界から人は遊びに来ているという思想です。
神の世界から遊びに来ている世界、それがこの世界(幻想の世界)であるということです。
私は、自らのなかに存在しているマヤをトムテの人形を買うことにより、自身のなかから外へ出すことになった。
これにて『ツインレイの縁』が切れることになる。私のなかに存在するマヤは外部へ出され、人形として鎮座している。
この世は幻想により生じている。幻想とは何か、もはや『思い込み』である。
マヤ自身が、私たちへ多くの地獄を見せたともいえる。多くの思い込みにより、多くの辛い思いを体現するようにマヤ自身が働くのである。
ツインレイの関係性は辛いものだ、しんどいものだ。苦しいものだ。
そのように思い込んだものをマヤは具現化していく力を持っている。小さなホムンクルスにはその力がある。
ツインレイの縁が切れる。それはマヤが見せたツインレイの縁である。そしてマヤもいなくなる。
私たちはサイレント期間の始まりに一体、サイレント期間の終わりに一体となる二体のマヤとさよならをするのである。
私たちがどのような人生だったのか、どのような感覚を覚えて生きているのか。どのような本心を持っているのか。
私たちは、ホムンクルスを交換することにより、ツインレイの相手がどのように感じ、どのように思いながら生きてきたのかをマヤの意識により理解することができる。
ツインレイの導き手はホムンクルス
私たちのなかに存在する小さな女の子は、ツインレイのふたりを導くホムンクルスである。
ホムンクルスは、ツインレイのふたりが出会えるようにする。ツインレイのふたりがどうにかこうにか結ばれるように導きをしている。
それは私たちが持つ神により与えられた小さなホムンクルスという妖精の役割だ。
ツインレイは、神による導き手を自らのなかに存在させているのである。
私たちの導き手は外部ではない、内部に存在している。だからこそ、私たちはホムンクルスの声を聴くために『意識』を手放していく。