ビーナスの女神の愛を精神に成立させるツインレイ女性(ギリシャ神話のアフロディーテ)

| Ⓒ なとり

sponsor link

ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

kindleの読み放題Kindle Unlimited30日間の無料体験』では、ほかの三冊も同時に読み放題


ツインレイ女性は、自分の精神のなかに先ずは『ビーナス(アフロデイーテ)』を生み出す必要性があるとして考える。

というのも、ツインレイ女性がエロスとプシュケーの恋愛を模すようにして人である意識を神化させていくためには、大前提にビーナスという存在が必要だからである。

ビーナスとプシュケーは、女性性としての対立を起こすが、エロスにより橋渡しが成立していく。
その過程では、プシュケーにいくつかの課題を出すビーナスにより、プシュケーはエロスの気質を吸収しているようにも感じられる。引用:神と人による聖なる結婚とツインレイ女性(ギリシア神話のエロスとプシュケーの結婚)

プシュケーを『人の女性性』として定義し、ビーナスを『神の女性性』として定義すると、ツインレイ女性のなかに存在する『自分の確固たる女性性の芯』がビーナスとして定義されると、次に『人の女性性』というものが生まれるのである。

これが『自我』と『自己』の成立でもあり、私たちは自分自身のなかに『自分という神』『自分という人』の精神を分岐させることにも繋がっている。

 

神話のなかでビーナスは、あまり多くの神話をもたない。が、私たちはよくビーナスを『金星』とし『愛と美の女神』として定義している。

私たちのなかに『愛と美』という精神性を神という領域にまで押し上げたとき、私たちの中には『ビーナスの誕生』が成立するのである。

それが貝殻のうえに立つ絵である。色々な視点はあるが、先ずはビーナスが何故生まれたのか——という部分から『ツインレイの女神像』についてを理解していきたい。

sponsor link

ツインレイ女性の女神像と『ビーナス』

図の説明:愛と美のビーナス
図の説明:愛と美のビーナス

どのようにしてビーナスが生まれたのかについての神話を垣間見てみようかと思う。

地母神ガイアにより生まれた怪物キュクノプスと巨人ヘカトンケイル。

この怪物と巨人のことを天空神ウラノスは気に入らなかったため、妻であるガイアの体内のなかへ押し戻したことがことの発端にある。

ガイアは激怒して、息子のクロノスと共謀し、ウラノスの男根を切り落とした。

そのときの血と精液と海が混ざり合うことにより生じる『泡』から生まれたのがビーナスである。

 

これがまずはビーナスの神話にあるが、ここから『愛と美の女神』が発生したことに少々驚きを隠せない。

しかし、ビーナスが生まれたとき、たしかに私たちのなかに存在する天空神の男性性のシンボル(権威)は消失し、私たちのなかに存在する怪物と巨人を生み出さないことに意味がある。

そして、私たちは『女性性のみ』の存在となり、男性性の意味を消失する為、ツインレイ女性は『真なる女性』となるのである。

図の説明:ウラノスは女性性による怪物を排除する

わかりやすいのが、私の般若である。私のなかに存在する『怪物』と『巨人』というものすごく大きな怒りを抑圧し、腹のなかに収めることで、私たちはビーナスを生み出すことができる。

天空神とは私のなかでは日本で言うところのタカミムスビかなと思う。この世を統べている存在である。この世を統べているとは『私たちの精神の絶対者』という存在である。

私たちの精神のなかに存在する絶対的な存在が『男根を失う』のである。これは男性性を自らのなかに所室するということだ。

図の説明:ガイアはウラノスに生産をさせない

このとき、ツインレイ女性は『男性性』を消失する。この状態ではウラノスは『なにも生み出せない』状態へとなる。

代わりに『ビーナス』を生み出し、愛と美の女神となっているのである。

 

ツインレイ女性は、ツインレイの課題にあるエロスとプシュケーの課題の前に、先ずは『ビーナス』を生み出す必要性がある。

プシュケーによる『霊魂』は、エロスによる『恋』と結ばれる。エロスはビーナスから生まれるためにある。そのためにはまずはビーナスに誕生してもらわねばならないということだ。

ここからツインレイと出会う前兆として『ビーナスの誕生』が存在し、ビーナスを誕生させるためには『怪物』と『巨人』を自らのなかに抑制しきる理性たるものが必要になる。

ビーナス誕生の絵からわかるツインレイのこと


有料版の記事
ツインレイステージまとめを読む

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


図の説明:ビーナスの誕生

女神ヴィーナスは、水より出現して貝殻のうえに立ち、霊的情熱の象徴であるゼピュロス(西風)に乗って、岸へと吹き寄せられている。季節の女神であるホーラーたちの一人が、花で覆われた外套を女神へと差し出している。引用:ヴィーナスの誕生 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ビーナスの誕生の絵に描かれている登場人物を左から書きだしてみる。

  • 西風のゼピュロス
  • 西風にさらわれて結婚したクローリス
  • 貝殻のうえのビーナス
  • 季節と時間の神ホーラ
sponsor link

季節と時間の神『ホーラ』

ビーナスが誕生したあと、先ずは季節と時間の神であるホーラが外套を着せようとしている。

神の世では裸では『純真』なわけだが、私たちの精神に生まれることになるビーナスは、もはや『神』ではなく『人』である。

ビーナスは時間においてを『人』のベクトルに起く、私たちの絶対的な愛の存在となる。

このとき、私たちの中には初めて『時間的概念』を理解する。

たとえば時間が過去・現在・未来という進行形に進んでいることを始めとして、未来が今の連続性により生まれていることなど、多くの時間的概念を理解する。

もしかしたら、時間をわかっていると思っているかもしれないが、たいてい『わかっていない』のである。このときようやく私たちは『理解する』という感覚を得ると言うことだ。

西風にさらわれた『クローリス』

そして、左側には『西風ゼピュロス』と『さらわれたクローリス』が描かれている。

クローリスは、西風と結婚することで『春と花の女神』となる。春と花の女神ときくと聞こえはいいが、西風がさらい、結婚する条件として『春と花への支配力』を与えたことにより、クローリスは春と花の神となる。

西風自身は『春の訪れを告げる豊穣の神』であり、そのなかにある女性性たる『春と花』の権利を与えたということだろう。

西風は『男性性による春の豊穣の神』であり、クローリスは『女性性による春の豊穣の神』ということになる。男性が先に存在し、結合することで女性が春の権力を得る構造が存在している。

西風ゼピュロスは温厚な性格らしいがヒュアキントスをアポロンと奪い合うような三角関係にもなっている。最終的にヒュアキントスは西風が吹かせた風のおかげで『ヒヤシンス』になってしまうわけだ。
sponsor link

ビーナスの誕生で『ツインレイ』が訪れる

ビーナスの誕生の絵では『春の訪れを知らせる』状態であり、『人が持つ時間的概念を手に入れる』段階でもあることを理解する。

ビーナスそのものは、私たちのなかに存在する絶対的な女性性から生まれる怪物を引っ込ませるほどの絶対的な男性性が存在することにより生まれる『愛』の女神である。

私たちのなかでは『絶対的な女性性』ではなく『絶対的な男性性』が優位ある存在になることで、ツインレイ女性たちは自らのなかに存在する『男性的な理性』を行使することで、女性性の悪たる怒り的な怪物を抑制することになる。

この抑制により、女性たちは『自分のなかに存在する男性性の権利』を消失させる代わりに『愛』を生み出すということだ。

このときのツインレイ女性のなかに存在している『男性的な絶対的なる支配』を失っている状態である。

この状態は『地母神ガイア』『女神ビーナス』という状態にあり、優位なる女性性を確固たる形で樹立する。

ビーナスが生まれたということは、次に春の訪れを知らせるサインがやってくる。そのサインが『ツインレイ』である。

ツインレイ女性の女性性の構造

図の説明:ギリシャ神話と女性性の構造

地母神としてのガイアが存在し、ウラノスは去勢されたことによりビーナスが誕生する。

このとき、ガイア自身も去勢され、ウラノス自身も去勢されるような構造から天地による神による影響を受けないことを意味する。

ウラノスとガイアとは、私たちのなかに存在する神により与えられた精神である。この精神により発生する多くの派生して生まれでる存在がこれからは存在しないことを意味する。

ビーナスが誕生することにより、愛のもとで『春の訪れ』と『時間』という概念を手に入れることになる。

このときの春の訪れとは両性具有性による春の訪れであり、一方通行的な春ではない為、ランナー&チェイサーという目に見えたようなおいかけっこは存在しないような春である。

傍ら『時間的概念』も手に入れていくため、愛とは『受け入れること』である自体も理解することができるようになり『待つこと』を受け入れ、時間を生きることができる。少なからず「今すぐに——」という結論を急ぐような感覚からは逃れられる。

 

ビーナスの子供に当たるエロスは『恋の神』である。クビドとも呼ばれキューピッドという異名を持つ存在がエロスである。

このエロスはビーナスの母の復讐を命じられたために、プシュケーを恋による不幸へ落としいれるように向かうが、エロス自体が自分をプシュケーとの恋に落としてしまうと言う失敗に見舞われる。

神たる美と、人たる美の対立により、エロスは板挟みとなるわけだが、最終的にはプシュケーの助けとなるが『ゼウス』であり、ゼウスによる不老不死等の色々によってプシュケーは晴れて『神』へと昇格し、エロスとプシュケーは聖なる結婚を果たすことができる。

このときの婚姻の問題となったのがエロスの母であるビーナスである。

ビーナスとは生まれる発端を『ウラノス』にもっているため、ビーナス自身は愛による権利を持っているとも考えられる。

「愛とはこのようなものである」という絶対的な権利を持ってプシュケーをいじめているわけだが、これこそが、ツインレイ女性のなかに存在する『愛』と『恋』の対立性にあるのではないだろうか。

愛にいきるツインレイだが、最終的にはツインレイ女性自身も『恋をしていた事実』に気づいていくだろう。その過程では私たちのなかに存在するエロスの存在は、恋を叶えようとビーナスにたてつくわけである。

ビーナスそのものが『愛』を体現しているが、そこにある博愛性に対し、エロスの『恋』は唯一の人を愛すると言う博愛性とは真逆の思想にある。

ビーナスが『全』ならばエロスは『一』にある。このふたつが対立しあうことにより、ツインレイたちは『錬金術』を行うとも言える。

 

プシュケー自体は「翻弄されている」状態だが、実際は母子におけるビーナスによる愛とエロスによる恋の対立の間にプシュケーが翻弄されながらも『全と一の循環性』を生み出そうとしている葛藤のようにも感じられる。

ひとりを愛することを『恋』と定義し、このときエロスはビーナスへ「ひとりを愛することに許しを請う」。エロス(プシュケーの存在)が許されるとき、ビーナスは自らのなかに「ひとりを愛すること」の定義を生み出すのである。

ビーナスへの降伏(サレンダー)は、愛への降伏であり、それは恋の受容によく似たものではないだろうか。

 

最終的にエロスとビーナスが循環することにより、私たちはたった一人を愛することはすべての人を愛することと同意語である事実に気づいていく。自他統合と自他分離のメカニズムにある。

図の説明:ビーナスの全とプシュケーとエロスの一

恋による結びつきにより生じる縁は1+1=1となる。ビーナスが全であるため、対局するプシュケーとエロスの結婚は一なのである。

このように、私たちの精神構造では『プシュケーとエロス』が恋の成就をさせることにより、ビーナスによる博愛と同等なまでの『貫く恋』をひとつ成立させることに成功する。

まずは、ビーナスによる『愛』にすべてを傾倒させ、傾かせる必要性がある。それは博愛にあり、ときに自らの理性により『絶対的な自らのなかに存在する怪物』さも、腹のなかへしまい込まなければならないような状態にまで愛を昇華させる必要性がある。

怪物を腹のなかにしまい込むだけの自らの意識そのものが『愛』であり『ビーナス』なのである。

 

しかし、愛という全がみずからのなかに成立すれば、対局する一が生じる。それが恋にある。ツインレイにある。

私たちは愛することしか学べず、恋のなかに何ひとつ喜びを見つけることができなかった。恋は最終的には絶対的な悲惨を迎えていたからだ。

だからこそ私たちは愛を尊ぶ。しかし、この段階ではようやく愛と対等に立つだけの恋を成立させることができる。

 

ツインレイとは愛と恋の乱れた均衡をひとつに整える手段なのである。

ツインレイに恋をすることができない理由は、心のなかが愛に満たされているからこそでもあるが、同様に愛が恋を許さないことにある。ビーナスがプシュケーを許せないように。

だからこそ、ツインレイというエロスがふたつの橋渡し役として現れることになる。

エロスとプシュケーが、私たちのなかで恋した末に結婚をすることで、ビーナスと対等に立つことになる。

 

もし、ツインレイを愛したのであるならば。私と同じように『愛ゆえの多くの決断』を自らに課し、自らを傷つけては尚、人を愛そうと自らを滅し続けたのであるならば。

きっと多くの神の助力によって、プシュケーとエロスのように結ばれる日がやってくるだろう。

神の語る愛が人にはよほど苦しい。流れるように恋に落ちたほうがどれだけ楽なものか。それでも人を愛したのは、誰かを自らの手で不幸にしたくなかったからだ。ただその信念のみにある。

もしかしたら、自ら人の不幸を生ませないことがウラノスたるカタミムスビの父へと繋がる愛のカタチだったのかもしれない。そのとき、私たちは欲求を手放している。幸せになりたいなど、口が裂けても言えなくなる。

そして、私たちは心に血の雨を流しながら微笑むだろう。人を愛することが幸せである、と。

これが私の知る心痛ましい地獄である。私にとっての世であり、私の精神であった。