七つの大罪によるこだわりとエゴの手放しの関連性(ツインレイ向け)

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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七つの大罪は『七つの死に至る罪』であり、いわゆる死へと導く罪(最大なる罪)七種類について語っている。

ちょっくらこの辺を今更ながら漁ってみようと思う理由は、夢にて『魔王のマモンさま』を見たからである。マモンさまは街角にいる茶トラ猫となっていた。(モエるシチュである、誰かここからラノベを書くんだ。)

マモンさまは街を見守っていたけど、このお人が悪い人とはまるで思えない。が、このマモンさまは七つの大罪のひとつ『強欲』を司っている。

私はあんまり神さんには『さま』とかつけないんだけれども、マモンさまは『魔王』だと認識していた。つまり目上認識で憧れを秘めるような存在のようである。

マモン(敬称略)は強欲の罪を抱えているが、ほかにも『人の信頼するもの』『富や金銭、財産』という意味合いなども持っている。つまり、マモンはこの世の富に対しての接し方への間違いにより生じるものとして考える。

このように、七つの大罪は『象徴』に対して『悪魔』と『天使』という視点を持っているということだ。

で。これが実はツインレイの克服するべき課題にも多く関係しているように感じられたので、書き纏めて置く次第である。

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七つの大罪の一覧表

七つの大罪の一覧表
大罪美徳悪魔幻獣動物
傲慢謙虚ルシファーグリフォン獅子/孔雀/梟/蝙蝠/ペンギン
憤怒忍耐サタンユニコーン/ドラゴン/オーガ狼/猿/イタチ
嫉妬感謝
人徳
リヴァイアサン人魚蛇/犬/猫/モグラ/蜻蛉
怠惰勤勉ベルフェゴール不死鳥熊/牛/ロバ/ナマケモノ/カタツムリ
強欲慈善
寛容
マモンゴブリン狐/狸/針鼠/烏/蜘蛛
暴食節制ベルゼブブケルベロス豚/虎/リス/鰐/蝿
色欲純潔アスモデウスサキュバス山羊/蠍/兎/鶏

かなり役に立ったのが『幻獣』の項目なので、この項目も注視していきたいと思っている。

七つの大罪の『傲慢』と『強欲』


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七つの大罪のなかでルシファー(傲慢)とマモン(強欲)は仲良しである。

ルシファ―は「おれは神よりも強い」となり、マモンは「この地上による金はすべておれのもの」という意識にある。

ルシファーの罪は天の覇者となるたくらみであり、マモンの罪は地の覇者となるたくらみにあると言える。

  • 天の罪・・・傲慢(憤怒、嫉妬、怠惰)
  • 地の罪・・・強欲(暴食、色欲)

私はこのように分類化してみた。

天の罪とは精神による罪であり、傲慢とは自分が無価値であることを受け入れられないことである。これは個人の精神による罪である。

地の罪とは現実による罪であり、強欲とは欲しい欲しいと多くのものを独り占めしていくことにある。これは個人の行動による罪である。

私たちは行動と精神が一致している為、傲慢であれば強欲となり、強欲であれば傲慢ともなるとして考える。

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七つの大罪のなかの主人公『傲慢』

私自身の経験から七つの大罪に対して、それぞれの防衛意識と『自分へのこだわり』が関係している点をあげていきたい。

そのなかでもほかの罪にまで通じている七つの大罪のうちのひとつが『傲慢』にある。

傲慢とは、自分が偉い存在だと思い込んでいることにある。この偉い存在だと思い込んでいるとは『社会を知らん』ってことに繋がっている。(つまり子供だよってことだな、大人とは自分の思い通りにならないことを受け入れることであり、とりあえずこの辺はサリンジャーのライ麦畑で捕まえてよ。)

目の前の存在が自分よりも目上であることを受け入れられない。自分が世界で一番偉いと思い込む意識は、自分の思い通りにならないことに地団太を踏むことである。元凶はほぼ『無が受け入れられない』ってことである。それは『死』である。

ツインレイの関係性でもそうだ。ツインレイのふたりの関係性が自分の思い通りにいかないことに私たちは悲しみ、辛いと感じ、その現実を受け入れられない。だけどどうだろう、視点を変えれば「自分はツインレイという好きな存在と結ばれることが当たり前であり、それがまかり通り程の偉い存在である」とツインレイの相手を貶めるような思考が巡っていることである。

それぞれの罪には『無価値』を与えていかなければならない。

無価値である自分を受け入れた数だけ、私たちは罪を克服し、最終段階にそびえたつ『傲慢そのもの』を打ち破ることができるのである。

 

憤怒とは、相手が悪いと思い込むことである。そして誰も悪くない事実に気づけないことでもある。誰かを責めるとき、自分を守っている姿勢があることを忘れてはならないし、その怒りが正当であるという思い込みにも傲慢さがある。

嫉妬とは、人が持っているものを欲しいと思う心にある。そして人が幸せになることを許せないことでもある。誰かに嫉妬するとき、私たちは相手が持っているものを自分が持つほどの価値があると思い込んでいる傲慢さが存在している。

怠惰とは、するべきことをしないことである。自分がするべき役割を全うしないことである。いわゆる「何もしたくない」であり、学びたくないとも言える。努力をしないことであり、努力をしなくても存在が許されていると思う傲慢さがある。

傲慢とは、憤怒、嫉妬、怠惰により構築され、この三つの意識は傲慢さが連なっている。

七つの大罪の副主人公『強欲』

七つの大罪のなかで『強欲』もなかなかの力を司っている。我らがマモンさまである。

いわゆる「なんでもかんでも手に入れたい」と思う心にあり、それは右にも左にもあるけれども、その本質そのものが近年では『不安』によって強欲となっているような気がする。

 

強欲とは、富や財産を独り占めする心である。人を信頼しないことでもあり、目に見えた『物品』に縛られ、それをすべて自分のものにしたいと思う心であり、自分が持っていないことに飢餓を起こし、欲することにある。

暴食は、節度を弁えないことこと。過ぎたるは及ばざるがごとしとも言えることなのか——。やりすぎることなどもここに入るかなと思う。自分が満たされていないと思うことにより、欲することに繋がている。

色欲は、自分の性欲を抑制できないともいえる。なぜ浮気するのかと言えば、目の前の現実から逃避するために色欲への向かうが、それは満たされていない自分を満たすために欲することに繋がっている。

 

つまり、自分が満たされないことにより、強欲となり、満たされないことに不安を感じていると言うことである。

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七つの大罪とエゴの手放し

七つの大罪は『傲慢』『憤怒』『嫉妬』『怠惰』『強欲』『暴食』『色欲』の七つが存在し、この七つによる罪を私たちのなかで抑圧していかなければならない。

いわゆる、これが『自分へのこだわりを手放すこと』に繋がっている。

私たちは七つの大罪を持っているが、それは精神的防衛ともいえる。自分を守る意識が七つの大罪へと繋がっているのである。

精神的防衛(エゴ)の手放しと七つの大罪
大罪こだわり精神的防衛(エゴ)の手放し
傲慢価値ある自分偉くもない、無価値である自分を受け入れること。(謙虚)
憤怒正しい自分人を責める意識を捨てること。(忍耐)
嫉妬不幸な自分人の幸福を祈り、願うこと。(感謝・人徳)
怠惰役割のある自分自分がやるべきことをやること。(勤勉)
強欲所有する自分人に分け与え、人へ寛容になること。(慈善・寛容)
暴食満たされている自分得るべきものを節制すること。(節制)
色欲欲求がない自分自分が抱えている問題を欲求で無視しないこと。(純潔)

傲慢の罪とエゴの手放し

傲慢は、謙虚となっているが『無価値なる自分』と向き合うことにある。無価値なる自分とは価値がない自分であり、何も持っていない自分のことである。

何も持っていない自分と向き合い続けている人たちは『自分に価値がないことを受け入れている』状態になる。自分に価値がない状態を受け入れているからこその価値が『謙虚』ともいえる。謙虚とは卑屈でもないし、我慢でもない。

単純に「自分には何もない事実を受け入れている」状態にある。

傲慢とは「知っている、わかっている、やっている」と思い込んでいる事であり、私が度々「あなたが正解だ」と言われることに対して「何、答え知ってんの? 神じゃん。」って思っていることにあり、謙虚なるなとりさんは「答え知らないから考えているんだよ」っていう視線にある。

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憤怒の罪とエゴの手放し

憤怒とは、自分が持っている怒りを爆発させることにある。自分は正しいことへのこだわりが憤怒である。自分が間違えていると言われた時に怒りが混みあがってくるとか、自分の思い通りにならない時に怒りがあがってくるのが『憤怒』である。

たいてい、この憤怒の罪を抱えている人は2種類存在し『怒りをそのままブチぎれる』存在と『怒りを無視して抑圧し、相手を怒らせる』存在がいる。どっちも憤怒の罪である。怒らないから罪なわけじゃない、相手を怒らせることも罪である。

自己正当化のために如何に行動し、相手を怒らせたのか。または自己正当化のために怒っているのかの動機の部分に『憤怒の罪』が存在している。

ただ現象的には「怒ったほうが悪い」になるってのもあって、罪を他者に押し付けている人も『相当』だと思いまする。

嫉妬の罪とエゴの手放し

嫉妬とは、他人が自分よりも幸せになることが許せないことでもある。ルサンチマン的だなと思う。

自分よりも優れた存在、自分よりもお金を持っている存在、地位を持っている存在などを羨ましいと思う心。自分が欲しいものを持っている存在に対してなども嫉妬を感じるとき、私たちはその人たちを貶める思考を巡らせる。

私が抱えていた嫉妬の罪は「結婚している人が羨ましい」に対して「結婚している人は悪い奴だ」みたいな意識にある。そして、結婚している人の幸せを願うことができないという何とも私の心はあさましかったわけである。

神に誓って私は嫉妬に溺れた人だったと思う。

根源にあるのは、私自身が他者への感謝がないってところにあると思われる。ちなみにマジで感謝する心なんて持ち合わせていなかったので「存在しているだけで君に感謝できるよ」みたいなそんな感じの心はなかった。してもらったらありがとうは言えるけれども、それ以上のものは持ち合わせていなかった。

心からの感謝ができるってなかなか難しくて、感謝はせずとも『何も思わない』ことは出来ていたように思うが。

ツインレイはこの嫉妬の罪につながりが強いように思う。嫉妬をツインレイの相手を介して『ツインレイの環境(周囲の人)』にするわけなんだが、最終的に、ツインレイへ幸せになってくれと思うとき、ようやく嫉妬の罪を手放していくことになるかと思う。

今の私は、毎晩に祈っている。コメント欄にコメントくれた人とか、ほかにも私が認識できる範囲に渡っての感謝を毎晩に渡って行い、その人たちが幸福になれるように願っている。なんとも心が広い人間になったなァと思う。

ツインレイの課題で『嫉妬』を抱えているならば「ツインレイの相手の幸せを祈る」ことや「許せない人の幸せを祈る」で自分が持つエゴの手放しの方向性へ進むと思うのでオヌヌメである。

それから、自分の不幸は誰かのせいでもないよ。自分のせいでもない。誰かが悪いわけじゃない。私が人格を怒りで解離しかけるときに自分に何度も言い聞かせたことは『誰も悪くない』ってことである。

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怠惰の罪とエゴの手放し

怠惰の罪は『役割』のような気がしている。

自分には役割がある。しかし、本当にそれが自分の役割かというとそうでもない。自分の役割は『なにもない』という事実が受け入れられないことなのだと思う。

役割とは社会にあてがわれるものであり、人に与えられるものである。役割を与えられなかったら、自分には価値がないのである。無価値化により私は社会からも、家族からも『価値がない』という状態に落ち着いていたし、自分には『何も役割がないこと』を受け入れていた。

人は特に「役割が欲しい生き物」なのだと思う。役割がなければ存在意義がないと言うか。社会的アンデイティティによる問題に繋がっていて、社会から与えられた役割を全うすることにより、自分のアイデンティティを構築していく経緯が必要である。

しかし、私たちは「自分には役割がある」と思いたい意識がある。それは在る種、承認欲求みたいなものかもしれない。

自分が持つ社会的な価値は『駒』なわけなんだが、その駒に自分を合わせることができないとき「自分はそんなんじゃない」って思いこみたい。だから承認されるほどの存在が自分であると考える。

だけど承認されない。承認されないからこそ、私たちはエゴを手放していかなければならないのだが、ここで『自分の役割は相手をただすことだ』とか『相手に正しいことを教えてあげることだ』とかの考えが生じ『自分が〇〇を支える』とかになったりもする。

SNSとかでも人を糾弾したりしている人たちにはねじ曲がった正義が存在している。その正義そのものが『怠惰の罪』であり、自分がやるべきことをやっていないからこそ、ねじ曲がった正義が生じるのである。

怠惰の罪とは「自分がやるべきことをやっていない」のだが、それは「自分の立場を弁えていない」とも言える。傲慢にも繋がってくる。他人に意見を言うほどに偉い存在だと思っている意識、憤怒では正しい自分の意見へのこだわりを見せたりもする。

怠惰とは、自分の役割があると思い込むことにより生じ、またそれが本来あるべき役割からそれてしまっていることにある。

しかし、本来あるべき役割とは『自分には役割が何もないこと』『他人にとって役立たずであること』を丸ごと受け入れた先にしかない。

人のためになれる自分がいる。人のために生きる。人の支えになれる。自分は感謝される存在だ。相手にとって自分は価値がある。

怠惰の罪があるとき『他人軸』になっていて、自分軸である自分の人生を生きることが出来ていないことを意味する。

自分の人生を怠惰している人が多く、自分がやるべきことは『他人の役割を奪うこと』でもないし『他人を支えること』でもない。

怠惰の罪は、自分の人生に対して怠惰なのである。


ここまでの『精神の罪』に関してのことは、あたいのオハコだからなんとか説明できるんだが、以下の行動の罪に関してはよくわからないかもしれないが、一応考えうることのことを書いていく。

強欲の罪とエゴの手放し

強欲については、この記事を書くことになった理由であるマモンさまのお立場にある。ちなみに最近、私は募金しました。

最近ちょっと募金とかに興味があって募金した。したら、マモンさまが猫になっている夢を見たわけである。

強欲とは何か——というと『富へのこだわり』でもあり、自分が持つお金に対してのこだわりかと思われる。

この地上における『所有することによる安心』がお金へのこだわりかと思われる。

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暴食の罪とエゴの手放し

満たされている自分へのこだわりが暴食の罪のように思う。

満たされていると思い込んでいるんだが、まったくもって満たされていないことにある。

愛情枯渇の人って、暴飲暴食に走りやすく。食べまくるってのがあるとは思うんだが、食べる行為そのものが『愛情を欲している』とも言える。

この愛情を欲しているのに、自分は愛情なんて欲していませんよ的な姿勢が暴食の罪なんじゃないかと思っている。

満たされていない自分に気づけないでいること、それが罪なのである。

色欲の罪とエゴの手放し

色欲としてしているが、これは多分『向き合うべきものに向きあえない心』なのだと考えていたのだが、本質的には『欲求がある自分』と向き合えていないのかなと感じた。

自分のなかには『性的欲求』が存在しているわけなんだが、それを満たそうとも満たせない理由は、自分に性的欲求が存在している事実を受け入れられないことにあると考えた。

色欲は、伴侶により自分の欲求が満たされないために、ほかに欲求を満たす方向性へ向かうことになるが、それは自分の伴侶に自分の欲求を赤裸々に見せることができないことにある。

ここに『欲求がある自分』と向き合えず『欲求がない自分』へとこだわっている状態に繋がっていく。

で、その欲求がある自分のはけ口がどこに向かうのか——である。

自分は相手になにも望んでいない顔をして、色々と望んでいる状態が『色欲』である。色々と望んでいることを言葉にすればいいだけなんだが、いかんせん、そんな自分がかっこ悪いと思い込み、欲求のある自分を認識できない罪である。

そのとき、人は『欲求に溺れる』わけである。

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ツインレイの男女に分ける天の罪と地の罪

ツインレイの男女に分ける天の罪と地の罪
天の罪地の罪
分類精神現実
七つの大罪傲慢
(憤怒、嫉妬、怠惰)
強欲
(暴食、色欲)
担当ツインレイ女性ツインレイ男性
詳細無価値な自分を受け入れる欲求を持つ自分を受け入れる

天の罪は精神により生じ、地の罪は現実により生じる。

ツインレイのふたりが出会うことにより、それぞれの罪が浮き彫り化され、ツインレイ女性は『傲慢(精神の罪)』となり、ツインレイ男性は『強欲(現実の罪)』となる。

第二サイレント期間でのツインレイ女性は『憤怒』『嫉妬』『怠惰』の課題と向き合い、ツインレイ男性は『暴食』と『色欲』の課題と向き合うとになる。

それぞれツインレイ女性は精神と向き合い、ツインレイ男性は現実と向き合うのである。

精神の罪となる最たる状態は『傲慢』にあり、現実の罪となる最たる状態は『強欲』ゆえ、ネガティブなツインレイは怒りを抱え、嫉妬に狂い、自分の人生を生きていない人である。

またそのときのツインレイ男性は『強欲』にあり、欲求に溺れ、自分を満たすことしか考えていない人となる。

しかし、ポジティブなツインレイたちは、自分のなかに存在する七つの大罪を克服し、自分自身が抱えている罪を浄化していく過程にある。

ツインレイのふたりが再会する前には、ツインレイ女性は『謙虚』『忍耐(我慢)』『感謝・人徳』『勤勉(自分軸)』を持ち、ツインレイ男性は『慈善・寛容』『節制(適切)』『純潔(一途)』を持っていることになる。