ツインレイと『構造主義』による無価値観の克服

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私はこのように述べた。

多くのツインレイの方々とは別の結論をだすことになった。
私はどこにもいません。私は私にもなれません。私は残念ながら「どこにも」いません。
私は存在しません。私は形を為すことができないからです。
だけど「いる」と思ったとき、私は「ここ」にいます。

引用:散文|悲しみは愛に変わる日がやってくるだろう。

「多くのツインレイの方々とは別の結論」とは何か——である。

私はこの文章を書いているとき違和感を覚えた。「多くのツインレイの方々って誰やねん」ってこと。でも、心はそう言っているからそう書いておく。頭の中でずっとこれが引っ掛かり続けていた。

というのは私は私以外のツインレイをほぼ知らない。その人たちがどのような結論を出したのかを私は知らない。そもそもブログで実存について解くツインレイブログを見たことがないから、現実的にそれが誰なのかを私が知らないので、この文章が「多くのツインレイの方々」が誰を指すのかがわからないのである。

ツインレイたちは何かしらの結論を出しているらしい。その結論は人生で語られていることだろう。

 

この別々の結論とは何か——だが、その結論は『構造主義』ではないかと思われる。ちなみにこの思想を知ったのは、記事を書く前日である昨日である。

構造主義とは実存主義と大局的な思想にあり、実存主義がもし心理学的ならば社会学的な構造主義が対峙してしまうのである。

たいてい、ツインレイ女性が実存主義者であり、ツインレイ男性が構造主義者ではないかと思う。そして、私は私のなかに存在する私の意識とツインレイ男性の関係性は『構造主義的』なのである。

 

私が血眼になって探し続けたなかで、一番わかりやすく構造主義について書いてくれているブログさんをあげておく。

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実存主義とは

実存主義とは、自分は自分で自分の人生を構築している。それらはすべて『自分の意思である』という話である。そして、それが最終的に自分の主体性ではなかった! というとき、絶望する。

私たちは自分の存在そのものを『他者に依存する』ようなカタチでしか構築してこなかった。しかし、私たちは他者に依存せずとも自分の人生を自ら開拓し、先に進んでいくことができるという段階へ突き進んでいくことが求められている。そのときはやる気満々な自信に満ち足りた自己責任的な人生となる。

というのが実存主義である。

この実存主義にも2種類存在していて、ひとつは『宗教的実存』への到達ともうひとつは『宗教ではない実存』への到達がある。

なとりさんは、とてつもなく道徳的な神への信仰もそこそこあったのもあって「あなたとわたしはひとつである」という感覚にまでの到達性を宗教的に処理していくことになる。つまり、他者と自分の一体的な感覚を覚えるというやつ。

こちらはキルケゴールさんが立案している。

宗教的ではない『無神論的実存主義』っていうのもあって、こっちはサルトルさんが立案者。

自分は常に未来を決定する権利がある! とサルトルさんは言っている。つまり人間はとてつもなく自由な存在なんだよって話をしてくれている。

キルケゴールさん的にも「自分は自由に意思決定をしてきたつもりだけれども全然違った件について」を段階をおって話してくれているが、サルトルさん的にも「あんた、生まれてきた時点で自由なんだから自分で未来を構築していく権利がある」という話をしてくれている。

どちらも実存主義の思想は「自由に生きている人間を肯定するもの」である。ただ、内容的には宗教的だったり、そうでなかったりするよって話。

私はこれを『心理学的』として捉えている。『自分』という視点を持って実存を肯定していくから。

 

で、ここで実存主義を脅かす『構造主義』が次の年代により生み出されていく。これが1960年代である。

構造主義とは


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構造主義は「人間みんな縛られた存在であって、まったくもって自由ではないよ」って話をしている。実存主義とは真逆に、人間は不自由であることを肯定し始めてしまった。

ここで実存主義と構造主義の対立が生まれることになるが、対立っていうよりも視点の違い。

構造主義の視点は『社会』というものを視点にして『自分』を見ている。実存主義は「いかに自分が存在していこうか」っていう生き様的な心理の模範の話をしている。

だから別に、対峙しているからと言って、このふたつが葛藤を起こしているわけでもないし、少なからず私のなかでは共存的でもある。

図の説明:誕生したときにゼロとしての自分が存在し、他者を吸収することで人格を形成する

構造主義は、人間生まれてきたときから「自分ではないもの」を吸収して「自分」を構築している環境に依存している存在だよって話をしている。

赤ちゃんのときから「自分以外の存在」を吸収し、その存在を投影した存在が自分であるために、私たちはそもそも他者の詰め合わせなだけで、私たちは私たちだ! と言えない。なんなら『私』という概念そのものは『他者の詰め合わせ』に過ぎないのだから、私は存在していないことになる。

構造主義は、社会からの目線を持って解釈しているからこそ「私という存在はいない」のである。いわば、社会という概念のなかでは「私」ではなく「コミュニティー」という複数形でしかとらえることができない。

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構造主義と実存主義の比較

実存主義の視点では『自分は自己主体的に生きているのが当たり前』であり、その主体的に生きているのが当たり前だからこそ、個人の集合体により全体性を見ていくことになる。

しかし、構造主義は『全体のなかに存在する自分』を見ていく。いわば、全体的ななかで自分と他人の違いを比較することで『自分』を見つけることができる。

構造主義は先ず『全体性』が主軸になり、その後『個人』を理解する為、私たちがコミュニティーのなかでは比較することでしか自分を理解することはできないよってこと。

だけど実存主義は「いいや、人間みんな主体性をもって生きている」ことを軸にしているからこそ、比較のない世界観を持っている。

 

社会とは個性の集まりではなくて、そもそも全体による構造主義からの視点が需要になってくる。

特にこの日本は構造主義的な思想が根強い環境ではないか——と思っている。

『差により自分を理解する』ことである。この差により自分と他人を理解し、精神が干渉するとき(社会と心理が一体化してしまっている解釈)には劣等感や優越感を感じることになる。

この差による優劣意識が強くなることが構造主義の問題にあり、自分こそが優位に立ちたいと思う意識も駆り立てられやすいのかなとは思う。反面、この構造主義はみんな協力して生きていこうっていう考え方でもあるんだが、それをするにはまだ人間的な未熟さが残っているときは無理。

だって人間はほとんど「誰かよりも優位でありたい」という本能があるから。この本能を否定していかないと構造主義による安全な社会は成立しない。

実存主義的な世界観では「個人の集まり」が社会という視点になる。みんな主体的に生きているからこそ、自分の人生を全うすることができるわけなんだが、悪い方に働けば「自分勝手な人間が大量生産されて、社会が終わる」ってことになる。

社会適応が難しくなってしまい、社会で生きていくことができない人間が量産されたら経済が回らないでしょってことだな。

 

多くの人がこの部分の意識が反転しているような気もした。

社会に対して実存主義(心理)的なものを望み、心理に対して構造主義(社会)的なものを望んでいる。

心が折れると思う。

社会に対して「自分はこんな人間だから自分勝手に自分の人生を生きるよ」と主張したら協力は崩壊する。当事者は社会性のない人間となる。これを孤独とする。

心理に対して「おまえは主体性も何もない人間で、他者により構築されているよ」と教え込んだら自己の崩壊が起こる。当事者はどう生きたらいいのかの自分の決定権を失うようになる。不安障害みたいになるだろうね、自分が他人に感じられるんだから、自分がいないということはアイデンティティの崩壊を意味する。病むよね。

 

このふたつによる人間の人格構成による成功と不成功は同じである。

人格が成功した場合、多くの人と調和することができる主体性を持った存在となる。
不成功となった場合、人と調和することが出来ずに嫌われて孤立・孤独となる。

不成功となる原因は、自分の存在の為に他者を迫害する意識。そして、人と自分の差において優劣をつける意識。

このふたつによる意識が不成功のトリガーとなる。不成功とは何かというと『心理学的に孤独』『社会学的に孤立』にある。

実存主義を極めぬくと『孤独』である。この孤独に耐えられるのが実存主義にある。(哲学者とかね)

構造主義を極めぬくと『孤立』である。この孤立に耐えられるのが構造主義にある。(個人事業主とかね)

孤独なんだけど、構造主義を理解していれば全然孤独じゃないんだよね。孤立している存在なんだけど、実存主義を理解していれば全然孤立していないんだよって感じになる。

いわば、孤独は善か悪か——という個人の感覚が違うのである。

簡単に言うと、経営者ってなんでか哲学好きだよねっていう理由はここにあると思われる。

ツインレイと構造主義と無価値観の正体

私たちは、過去の人生においてすべてを肯定的に捉えるとき、自分の人格をすべてにおいて肯定的に捉えるとき、構造主義を理解するようになる。

私たちは『自分だ』と思っていたものはすべて『他人からの提供』により構成していたために、自分などまるでそこに存在していないことを肯定的に捉えるようになる瞬間がやってくる。

いわば、これは『他人を全て肯定する』ことでも『自分を全て肯定する』ことでも、それが自分の人生、他人の人生。この自他におけるすべてを肯定的に捉えるとき、私たちは「なにもない自分」を受け入れることができる。

図の説明:自分への環境や影響をすべて肯定することで『ゼロ』の自分へ到達する

これが「無価値感」の正体であったように思う。

私たちは、自分のなかにある何かを『自分だ』と思っているけれども、根っこの部分ではまるで何もない自分を肯定的に捉えることはできない。理由はここに「他者により構成された自分」を理解してしまっている為である。

自分はこのような人間だと自分を定義しているとき、私たちは『無価値で何もない、なんなら自分など存在していない』ことを受け入れることも出来ないし、何にもない空っぽの自分を肯定的に捉えることも出来ない。(これが他者否定と自己否定)

図の説明:自己否定と他者(環境)否定は自分の人生が穴抜きになってゼロである無価値の自分への到達ができない

根っこにある自分とは『無』なのである。生まれてた時から私たちは『無』であり、価値がある・価値がない以前に、そもそも無なのである。何もないプールのなかに『他者』を入れこんでいくことにより私たちは『自分』を構築していっているだけ。

だからこそ、他者を全て自分のなかから取り除いていくと、根っこには『無』しかない。そもそも私たちは「自分なんてものは一切なかったし、自分だと思っていたものは他人だった!」っていう事実に気づく。

何かしら自分の意思で決定したと思っている内容も、実際は他者による提供された意思で決定していた——みたいな。

なんならこれが自分である! と思ったとき、それは他者を自分のなかに認め、気づいたときなだけ。

 

もし、自分は自分の人生を自分で主体的に生きているんだ! という実存主義者からすれば、この事実は絶望だと思う。

 

この事実を受け入れられるとき、私たちは『無価値観』を受け入れるのである。

この記事を書くことになった発端であるこちら。

単純に言うならば「無価値を受け入れた瞬間」であり、私の中にある他者を全て肯定的に捉えることが出来た瞬間でもある。

そして私は「私がいないこと」を受け入れる。

「多くのツインレイの方々とは別の結論」とは、無価値を受け入れているツインレイの方がほとんどいないって話なのかもしれない。それは『構造主義の受容』であり、心理から社会を理解していくことでもあるんだろう。

たしかにツインレイって多くが心理学の話はしているけど、社会学的な話をしている人がいないかもしれない。

私は思想的には心理学よりも社会学のほうが思想は近いところがある人生だったかもしれない。自分軸の話も、これは構造主義的な話でもあるんだろうなとは思っている。

自己とは他者により存在を認識されてようやく存在が生まれる——っていう考え方も社会学的な視点が強いように思う。彼は逆かも、心理学的な視点が強い、自分で自分の人生を切り開いてきた感覚がある。

昨今のスピリチュアルは実存主義的かもしれない。女性にとっては少々女性性が危ぶまれる思想ではある。

 

実存主義が不安の解消ならば、構造主義は無価値観の解消である。

実存主義により『自分にだけ視点をシフトすること』は不安を受け入れられる。

構造主義により『他者にだけ視点をシフトすること』は無価値観を受け入れられる。

不安は自分により生まれ、無価値観は他者により生まれるんだろう。

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ツインレイによる愛と無価値観

ツインレイたちは、ツインレイの相手を愛する。

無価値観の課題を抱えている人は、無価値ある存在を愛することで自分の無価値を受け入れる。

かくいう私はニートであり、自堕落であり。社会的には難があるわけなんだが、そんな私をツインレイの彼は愛してくれたわけである。これがツインレイの彼が持つ『無価値な自分を受け入れること』に繋がっている。

不安の課題を抱えている人は、不安ある存在を愛することで自分の不安を受け入れる。

ツインレイの彼はまだ未来が構築されていない状態の、未来が不安になる存在であった。その存在を受け入れることで私は自分が持つ不安を受け入れることができる。

かくいう私たちはツインレイの相手を『無価値』だとも『不安』だとも感じていなかった。

不安な存在でありながらも不安を感じていなかったし、無価値な存在でありながらも無価値だとは感じていなかった。

これは、不安を肯定し、無価値を肯定しているのである。

ゆえに私たちは不安である自分を否定せず肯定的に受け止め、無価値である自分を否定せずに肯定的に受け止めることができる。

それはツインレイ自身が持つ愛により織りなされている。それは他者愛こそが自己愛へと通じることをも意味している。

構造主義から考えるツインレイを愛することとは

ツインレイを愛することとは、相手の人生を全て受け入れることである。それは私たちがいかなる原因により自分を構成するために必要だった自己肯定という他者肯定をツインレイにより与えられる。

私たちは愛により、相手の存在を愛することで、相手の存在が構築される経緯に関わってきた人すべてを愛することに繋がっている。

それはツインレイに限ることではない。ツインレイ以外の人においても、いかなる存在であったとしても、その人の存在そのものをすべてを受け入れ愛することは、その人の人生に参加したすべての人を愛することに繋がっている。

私たちは常に連鎖している。誰かを愛するとき、その誰かを構成するために必要だった誰かを愛しているのだから。

これが「愛が広がっていくこと」なのかもしれない。

つまり目の前の人を愛せよ。その愛がまた誰かを愛することに繋がっているからこそ差別愛であれ。差別愛こそが人類というコミュニティーにおける究極の愛なのである。


そういえば、ツインレイの彼は「自分が大事にしている人たちを大事にしてほしい」と言っていた。私はこのように答えた。

「彼くんがなとちゃを一番にしてくれるのあれば、その人たちのことを大事にできるよ。でも、そうじゃないなら無理。大事にもされていないのに、どうしてその人たちを大事にしなくちゃいけないの?」

正直すぎて確信めいていた。なとちゃの社会放棄。

「なとちゃが悪い子だったら彼くんはなとちゃを嫌いになるの!」ぐらい、確信めいている。

言葉にならない『何か』を感じる、これが女性の本音だと思うよ。満足できていないのに満足している風を装わなくてはならない謎の抑圧。