ツインレイ男性を精神のなかに創造するアニムス思想(孤独から生まれるツインレイについて)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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アダムは、神により創造され、その神により『生命』を吹き込まれることにより生きている。

引用:アダムの創造(ツインレイ、創造主になろうよ企画②)

あるとき、私たちは孤独になる。あるとき、私たちは孤独を理解する。

残念ながら、私たちの育っていく過程のなかで「孤独を理解している」わけではなく、自分が孤独である事実を受け入れ、また、その孤独へと没頭した人のみが得られるものが『孤独』である。

社会から断絶され、誰からも理解されず、また、その孤独を愛し、その孤独を内包しきるとき、私たちは真実なる孤独を理解するようになる。

私たち人間は、根源に孤独からの回避が起き、孤独にならない為の選択を多くする。

それは、社会に参加すること。SNSで人に認められること。ほかにも多く他者が存在しているとき、私たちは必ず『認識』され、その認識により自分の存在を導き出すことができる。

孤独とはなにか。それは他者により認識されないときに生じることで生まれる感覚である。

そのときの私たちは、私たちではなくなっている。私たちは私たちではなくなっているからこそ、孤独へと陥ることになる。

私たちが私たちではなくなり、私たちが『自分』を失い、自己の喪失段階に差し掛かるとき、私たちは孤独である。孤独とは自分が存在しない時に起きる現象にある。私たちの孤独は、自分で自分を認識しなくなった時に起きるのである。

また、この現象がツインレイ男性と起きる前に生じる。

 

あるとき、私たちは孤独になる。誰からも、それは自らも認識されないとき、私たちは孤独となる。

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孤独からの創造力はツインレイを生み出す

神は孤独だったのかもしれない。アダムを創造した創造主は孤独だったのかもしれない。

私たちは、自分の精神構造のなかに『自分』という存在しかいない。いわば、私たちはずっと『私』でしかない。ゆえに、私たちは他者を『自分のことのように思い、接すること』しか出来ない。

相手の気持ちを想うこと。それは自分のことのように思うことの沿線でしかない。

私たちの孤独を、私たち自身が自覚できなかったとき、私たちは『孤独』を生み出す。この孤独を私たちは理解できなくなった時に発生する。それが私たち自身のなかに生じる『渦』のように思う。その渦からは湧き上がるような悲しみがこみあげてくる。

これを「さびしい」と呼ぶ。

いつからか、私たちは自分をひとりにさせていることにすら気づかず、私のなかに「わたし」が孤独で泣き、さびしいと呼んでいる。

そして、私たちは創造する。さびしいから私たちは創造をし、自らのなかに「お人形」を自覚する。

①まずはツインレイの肉体であるお人形をつくろう


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神の創造は、まずは「アダムの肉体」を作り、そのなかに「生命力」を注ぐことで、アダムは人間になる。

その経緯においては『アダムの創造』に描かれている通りである。

 

私のなかに存在している創造は、先ずは私のなかに孤独ゆえにうまれたお人形がうまれた。

それは、私の中から生まれ「まずは象る」だけである。そこにいる、それだけの存在である。

この段階になったとき、私は自分の孤独があることを理解し、その孤独を癒すことをしようと感じている。それは自分と同じような孤独を抱えている人の孤独を癒すことにも繋がっていると感じたのだ。

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②お人形から自立すること

私は、このお人形を手放すことが出来なかった。お人形とは「ツインレイの彼」である。

それは私のお気に入りである。彼のことが好きとか、彼のことを愛しているとか。お人形を生み出している私は『彼』をお人形のようにしか感じていない。

そのお人形をぎゅっと抱きしめ、ひとりになりたくない。自立したくない。そう言っている段階がある。

 

このとき、私は「ずっといっしょだよ」とお人形に語り掛けている。

絵を描き始めた私が書いた絵本である。

「ずっといっしょにいようね」

私のなかで生み出されたお人形と私は「ずっといっしょ」と約束することで自立したのである。

 

この段階で、私は私のなかに生み出した創造のアニムスのお人形と『別の存在』となる。

そして、さびしさを紛らわすための道具を手放し、私は自立をするのである。

この段階で『第一サイレント期間』へ入る。

③お人形にアニムスの命を吹き込もう

このお人形を、現実世界では「ツインレイ」として模して感じている。

そして、そのお人形には『命』を吹き込むことで「ツインレイ」が生まれる。

この段階で、私の精神構造の中には「ツインレイ」が誕生するのである。

 

ツインレイとは霊魂の双子である。もちろん、私の創造主が「私を模して作った」のだから、そりゃもうこれはツインレイである。これが『ツインレイの創造』である。

この段階で『第二サイレント期間』へ突入する。

第二サイレント期間へ入る理由は、ツインレイはツインレイの相手ではない為である。

 

ツインレイの相手と出会っている相手は「お人形」なのである。しかし、そこにツインレイとして命を吹き込まれた存在は『私』なのである。あなたはわたしなのである。しかし、ツインレイの相手は「わたし」ではないのである。

この矛盾が生じてしまう為、私たちは第二サイレント期間へ突入することになる。

あなたが「あなた」になってほしい私にとって、彼はツインレイでいてはならないのである。

このとき、私はあとちゃといううさぎ(私)とミラーリングするような存在を生み出し始めている。男の子のうさぎである、名はまだない。

 

これがツインレイによる『魂の双子』である。

精神構造では、自分の孤独を癒す道具だったお人形のなかに自分の心を吹き込む経緯にある。

 

これがツインレイの幻想であり、私のなかに存在しているミラーリングしている『ツインレイ』と、現実に存在している『彼』の存在が不一致を生じさせたため、私たちは第二サイレント期間へ突入する。

お人形の段階では「誰でもいい」のである。孤独に気づいていない段階での私たちは、相手が誰だっていいし、自分にとって都合の良い存在であれば何でもいいのである。理由は、自分の孤独を癒してくれる存在ならば、自分の不安を取り除き、自分を守ってくれる存在であるならば「誰でもいい」のである。

ツインレイは「誰でもいい」から始まる。私たちの慈悲のない感情から、ツインレイは選びだされる。

つまり、ツインレイは特別など言われているが、ぶっちゃけ「自分にとって都合のいい相手であり、自分の心を癒してくれるんだったら誰でもいい選出」されている。だけど、そのなかでも「好み」はあるんだよってだけの選び方をして、私たちはツインレイを選び抜いている。

これを『運命』っていう。

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④ツインレイの存在を投影してみよう

ツインレイの存在は双子的に生まれる。しかし、上記の通り、現実のツインレイは双子ではないので第二サイレント期間へ突入する。

ツインレイの相手を「ツインレイだ」と思うことは、ツインレイの相手を全否定しているということになる。

ツインレイの相手を全否定するように、自分の思う通りの相手でないのであれば、いっしょにいないと決別を迎える。

この段階における私たちは、ツインレイの相手とコピーした自分としか認識しない(投影でしかない)からこそ、世界は『投影』と『投影同一視』の世界に陥ることにある。

どんな感覚かというと、アニメみていると「ツインレイ男性がいる・・・」って思ってしまう感じ。ほかにも町中にいる人たちのすべてが「ツインレイ男性がいる・・・」と感じる。

基本的になんでもかんでも「ツインレイ」へ結びつけてしまう投影同一視が起こり続け、これがまた異常な精神状態に陥ることになるが、この感覚はこれはこれで精神の発達段階に繋がっていると考えてほしい。

私たちは、自分を分離させて生み出した他者というツインレイ男性を自分だと思っているのである。これが『ワンネス』の感覚とも言えるし、異常状態である事実にある。

⑤他者とは『自分とは違う存在』である

他者とは自分とは違う存在である。ものすごい当たり前のことなんだが、前述の通り、私たちの精神のなかには人形のなかに自分と同じ心を吹き込んでいる『ツインレイ』が存在している。

ツインレイの気配がある~とか。ツインレイの性エネルギー交流~とか、あるわけだ。

そして、私たちのなかに「命を吹き込まれた人形のツインレイ」と「現実に存在している彼」との対比を始めることになる。

このとき、私たちはツインレイだと思っていた相手は、本当にツインレイなのか——という事実に直面していかなければならない。

現実に存在している彼は、実際、本当にツインレイだった?

もう一回問うぞ。
現実に存在しているツインレイは、本当に双子のようだったのか——である。

これが自分の妄想に気づくときである。

自分の妄想のなかで「彼はツインレイなんだ」っていう状態は、命を吹き込まれた人形のツインレイである。

自分の妄想と現実の違いに気づいた状態は、命を吹き込まれた人形は『コピーではない』のである。

 

このときの私は、二匹のうさぎを書かなくなり、新しくあとちゃのうさぎには「はりねずみくん」というお友達を書くようになった。

このときの理解として「他者とは別の存在である」「自分の投影ではない」という感覚を覚えるようになる。

これが、私たちのなかに「自分とはまるで違う他者」という概念が育つ経緯である。

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真逆側のツインレイ視点では

真逆側のツインレイ視点も存在している。

私側の視点では「あなたとわたしは同じ」という状態から「あなたとわたしは違う」という視点の切り替えを行っている。

真逆側の視点では、これをツインレイの相手の視点とし「あなたとわたしは違う」という状態から「あなたとわたしは同じ」という状態へ視点の切り替えを行っている。

この視点の切り替えだが、切り替えたからといって過去に持っていた視点がなかったことになるわけではない。

過去に持っていた視点は、過去に持っていた視点なのである。そして、今もその経験はなかったことにはならないし、今も私は「あなたとわたしは同じ」ことも理解している。

アニムスが育つ経緯で、最初は「あなたとわたしは同じ」としてコピーにより他者を生み出し、次には「別の存在」へと育っていくことになるが、もともとコピーにより生み出されたとしても、そのコピーだったときの経験はなくなることはない。

ツインレイは『自分』から『他人』を創造すること

孤独を心で理解するとき、私たちは『自分』から『他人』を自分の精神構造のなかに生み出す。

その過程のなかで「ツインレイ」と呼ばれる段階がある。それは「お人形のなかに自分の命を吹き込む」段階である。

この段階では、私と、そして、私のなかに存在しているもうひとつのアニムスという人格のなかに『同じ心』が宿っている段階にある。

そして、ツインレイの卒業とは「同じ心」ではない事実を受け入れ、その事実を精神のなかに構築していくことである。

しかし、真逆側に存在しているツインレイの存在は、違う心であることから同じ心であることに気づいていくから、ようやく最後に「ツインレイ」を理解するのだと思われる。

最初から私は、彼をツインレイだと理解しているのと違い、彼は私をツインレイだとは理解しないだろう。

だから、私は今、「ツインレイだ」と彼を自覚することはないが、彼は私を「ツインレイだ」と自覚することになるだろう。

これが私の、アニムスが私を自覚したときの感覚である。

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どの段階のツインレイなのかにより違うよ

ツインレイの相手を創造する段階で、

  • お人形であるツインレイ
  • お人形から自立しているツインレイ
  • お人形に命を吹き込んでいるツインレイ(統合)
  • ツインレイではないツインレイ

というように、私たちはツインレイの相手(アニムス)を構築していく段階により、概念が違う。

お人形であるツインレイの段階

お人形であるツインレイの段階では、他者を支配している段階にある。支配により私たちは安心を得、不安を解消し、依存をする関係性にある。多くの人が不安や恐怖により結婚をする段階にあるが、このようにお人形を抱えている人たちによる結婚を意味する。

それが悪いことってわけではなくて、この世の人類のほとんどが人を欲する理由は、ここにある。さびしくて、そのさびしさを肯定しているためにある。これが『美学的実存』なのである。さびしさが主体性を持っており、さびしいそのものが『自分』を形成しているのである。

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お人形から自立しているツインレイの段階

お人形から自立しているツインレイの段階では、ツインレイの相手と離れ、ある一定の距離感を持って関わろうとしている人たちである。私のうさぎの絵では、幼稚園にひとりでいけるよ☆って段階である。

お人形から自立している為「あなたとわたしはいつもいっしょだよ」という安心感を知っている状態にある。

ツインレイの方々の中でも、多くがこの段階へ差し掛かった時の感覚を書き残しているんじゃないだろうか。ちなみにこれが私の一次サイレント期間の感覚の前らへんにある。

 

これが『倫理的実存』の段階におけるツインレイたちのように思う。ここからとりあえず『自分の信念』みたいにもなるのと、道徳的な側面性を重要視もするために、ひとまずは大人っぽい感じがするかもしれない。

対応とかも結構『大人』だと思われる。理由は大人な対応することが倫理的な存在でもあり、この社会に没することも受け入れている段階でもあると思われる。

あと、宗教的なことや心理学的なことが好きな人たちも多くなってくると思われる為(道徳って言葉自体が宗教的なモンなんだよ)、スピリチュアル的なことも率先的にはなりそうである。

ただ、下に属することになる『美学的実存』段階のツインレイ達に対して、一線を画すような「何かしらの心理」は抱えている。で、その何かしらの心理を分離させ、愛により、自他共にぼっこぼこのフルボッコにしなければならない段階。

お人形にツインレイの命がある『ツインレイ』の段階

この段階がとりあえず『ツインレイ』と呼ばれている段階にある。

自分の心をツインレイの相手に吹き込んでいる段階である。ゆえに、ツインレイの相手は自分のコピーである。

この段階では『投影』『投影同一視』という段階であり、この段階でいっしょにいるツインレイたちは、常に相手を自分を投影し続けているため、あなたとわたしは同じなんだ・・・・・・ツインレイなんだ・・・・・・っていう状態である。

他者の概念はまだ構築されていないのと、ツインレイの卒業の段階には差し掛かる前に第二サイレント期間を空けていくことになると考えている。

いわば、ツインレイの相手が元々人形のように感じられていたんだが、「人間」というか「命」があるように感じられる段階にある。

とはいえども、他者に対して自己投影をやめることはできない。

だけど、とにかくこの段階が一番に『ツインレイらしいツインレイ』と思われる。双子だからね。

引き寄せとかもするのが、この段階。

ツインレイとは他者は自分であるため、引き寄せをして動かしてもいいみたいなまだ「他人は道具」っていう概念が抜けていない状態でもある。

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他者という概念がある段階

ツインレイの相手が「ツインレイではなかった」ってことに気づき、ツインレイとは何か——を追及していく段階にある。

この段階のツインレイたちは『宗教的実存』への到達性を感じられる。

ゆえに、世の真実を理解し、世の仕組みを受け入れ、この現状を受け入れている状態。

引き寄せとか、何かしらの抗いとかも何もない。ただひたすら『他者』とか『現実』とか。自分とは分離している存在、そのすべてを受け入れている状態になる。

これが『運命を愛する』段階にあり、ニーチェ曰く「運命愛」なのだと思われる。

私たちは、運命を愛しているとき、今、この現状に対して何かしらに『問題がある』とは感じることはない。しかし『感じる心』はある。

運命に対して、何かしらの心を動かされるようなことがあったとしても、この現実を変化させ、何かしらの動きを自分で支配し、自分の思い通りの世界を生きようと思う『自分以外のものを道具と思う概念』が抜け落ちる。

おかげさまで今日も私は元気にニートをやっている理由は、運命を動かすよりも、今あるこの現状をいかに感じて生きていこうか——ってことのほうが重要だからである。

さて、この段階に差し掛かってみると、私は「私以外の他者」という存在と同じである感覚が生まれる。

常に矛盾をはらむのである。

あなたは私ではないという他者の概念を確立していくと、同時に、私はあなたになってしまうのである。

ゆえに、私はいつもあなたと同調しているし、あなたと同じように感じている心のままであれる。

この段階を『宗教的』とも言える。この不確かで、あなたと一体化している感覚を言葉にすることができないとし、宗教として捉えるのである。

それは道徳でもない、倫理でもない、言葉で縛ることができない混沌とした新しい世界である。

 

ちなみに、創造においてだが私の結論である。

現実に起きているそのすべてを実感してごらんよ。そのすべてを実感するだけで私たちは創造している。

創造とは「今ここにある創造」に気づくことである。気づき続けていくことで、私たちは常に創造的にある。

で、この段階に差し掛かると『倫理的実存』『美学的実存』をも肯定していく。