キルケゴールと実存主義の三段階による「主体性のある自分」

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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またもやここにきた。自分のなかで哲学が成立したあとに「ヒョンなことで答え合わせ」を過去の哲学者がしてくれる。センキュー、我が友よ。

前回はユング先生だったけど、今回はキルケゴールさん。実存主義の三段階についてである。

こうやって、自分のなかに哲学を生み出したり、心理について考えたりはしているが、基本的にはもう既存している思想を私自らがイチから自らのなかに構築していることが多くて「勉強すれば、スキップ出来ること」を一切合切「自分でなんとか経験から成立させては答え合わせをする」ってことをやり続けている。

思想を生み出した人たちが「どうしてそう思ったのか」の部分を私は学習しているように思う。

結論ではなく、経緯である。そしてその経緯にこそ『経験』が詰まり、私の身となっているのである。

 

実存主義の三段階は『美学的実在』『倫理的実在』『宗教的実在』とある。

わかりやすいウェブサイトがあった、そちらではとてもイイ感じに説明をしてくれているので、そっちを参照されても良し。

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実存主義とは

個人が主体性を持つまでの経緯のことを意味している。

途中では『主体性だと思っていたが、全然主体性ではなかった』っていうときに絶望がやってきては、最終的には『宗教的実在』へと至り、主体性を獲得していくことになる。

なんで絶望するのかっていうと、関係性が不健全だからだよってことだ。

実存主義の三段階『美学的実在』

これが3次元的な視点を持っている実在にある。今、目の前にある快楽を追求し、衝動的にあること——だ。

単純に説明をするのであれば、おせっせしたいからするって話である。やりたいことをやる、実行するという段階である。

これが私の説明する『3次元的な理解』にあり、私のツインソウルの経験のように思う。

ただ、背景には「死」が隠れていて。今、やりたいことをやり、実行し、またおせっせしたいならするっていう状態で、自分はいつか死ぬことを無視している状態にある。このときの私たちの無意識に存在している虚無感が絶望へ陥らせるトリガーとなる。

なので、向き合わなければならないことが『自分の人生は有限である』といういつかは私たちが死ぬ事実を受け入れていく経緯にある。

問いかけなんだが「結婚しなくても(不倫関係とか含め)、今、楽しい関係ならばそれでいいんじゃない?」っていう感じだろうか。

なんとなく「おせっせしても心は満たされないんだな・・・、そうじゃないんだよな・・・」と思ったときだと思う。(ちなみに私はそうだった、心が満たされないおせっせに価値が見いだせなくなった瞬間がツインフレームにある。)

 

そういう快楽的なこと、自分が向き合わなければならないことから逃避している人たちは『虚無感(死)』からの逃避であり、いつかは自分が死ぬことが受け入れられていないってことがわかる。

だから、私はこの美学的実在のターンで死にかけている。そして自分が死ぬことを受け入れなければならない。

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実存主義の三段階『倫理的実在』

倫理的実在は、今度は「自分の良心」というものに従い始める。このときから倫理観や道徳性など、人への善意を持ち、いわゆる模範的な自分を目指すわけである。(自分が思う限りの悪いことをしない善性かな。)

このときの私たちは正義感を持ち、他者にとって正しい、自分にとって正しいと思う道を進むわけである。

ただ、このタイミングでも絶望し始める。理由は『自分の罪深さ』に気づいてしまうためにある。

これが私のツインレイの期間にある。

私はツインレイの彼くんを、愛して愛して愛しぬく! という道徳性を持っていたわけなんだが、まったくもって不幸であると言う事実に気づいてしまう。結局、愛しぬいた結果、手元には何も残らなかったわけである。

そして、自分が「今まで何をしてきたのか」の自分の罪の部分に目を向けることになる。

このタイミングでユングにて語られる影の存在がやってくることにより、自分が持つ邪悪性についてや罪についてなどを理解し、私たちは「なんて自分は罪深いんだろう・・・・!」ってことを受け入れていかなければならない。

絶望的な感覚は、今までの自分は間違えていたのかという感覚にある。今まで自分の中にある信念や道徳に従って生きてきたが、その信念や道徳は間違っていたと言うのか、この十年近く努力して積み上げてきたものはすべて意味がないものだったのか——という絶望にある。

とりあえず、自分には罪がないって思ってたら違う角度からすれば罪があるやんってことに気づいしまって悶絶している感じ。(絶望を乗り越えたら次に羞恥心とかもでてくるからな。)

実存主義の三段階『宗教的実在』

最後には宗教的実在にたどりつく。その前には『自分は罪を背負っていることを受け入れる』段階があり「この世は地獄、みんな罪を背負っているのに天使みたいな顔して善人面しては人の悪意を断罪している人間様たちがいっぱいする」という揶揄するところにあり、また、そのひとりが自分であることに気づく。

ゆえに、この段階へ入るためには「めちゃくちゃ道徳的に生きてきて、最後には道徳的に生きた自分であっても罪人である」という自覚を持つ必要性にある。なんとなく、ニーチェの神は死んだっぽい感覚がするなァ。

 

一番わかりにくいのが宗教的実在のような気がする。

神の前に「単独者」として立つことなんだが、単独者の説明はwikiさんに頼ろう。

「実存にかかわる本質的認識行為」というものはそれぞれの人間にとって固有なものであるがゆえに、思想家には自分自身で考えた上で真理を見つけ出すという事が求められる。そうであるがゆえに「主体性こそが真理であり、真理は主体性に存在する」という言葉が正当となるわけである。それならば自分にとって無関心な事柄はいくら見ようと聞こうと考えようと全くの無駄であり、このような立場に立てば真理というものも客観的な事柄に過ぎないがゆえに何が正しかろうと間違っていようとどうでもよいことになる。

キェルケゴールは「真理を発見する原動力は情熱であり、実存する全ての問題は情熱的なものである」ということを重視した。そしてこの情熱を備えた上で、たった一人の者、たった一人で生きることに自信を持つ者、たった一人で生きることで満ち足りる「哲学の主人公」と呼ぶべき人物の事を単独者とした。

引用:単独者 – Wikipedia

私たちが絶望している限り、それって「独りで生きることが出来ていない」ってことなんだよってことなんだ。

たとえば、私なんかも「彼くんがいない=絶望」になってしまうシーンもあったわけなんだが、これは彼に頼ってしまい、独りで生きることが出来ていないということ。

神の前に単独者で立つとは「ひとりで生きる覚悟を心底キメ抜け」って話でもある。でも、この段階に入るまでは常に人は『不安』と『絶望』を抱えた段階の存在であり、その絶望を見なかったことにするための行動をし、存在を見つけ出そうとしている。

wikiの言っている意味がわからない人向けにもう少し噛み砕いてみる(ちなみに私は考えて読まないと何言われてるんだかわからない)と、自分が存在しているってことに対して「自分で考えた真理を見つけ出す」ってことが大前提に必要なんだ。だから、自分が自分で考えた真理を見つけていくことが『主体性がある』と言われることに繋がっている。(ニーチェ曰く、創造的であるってことだな。)

つまり、真理っていうものは『主体性がある人間』にしか持ち得ないものでもあるんだよ。主体性があるってことは、自分にとってまるで関心がないことについてを理解することは無駄なことにあり、自分が主体性を持って理解した真理にとって他人がとやかくいうがなにしようが、間違っているなんて言われようが「どうでもいいこと」としか考えられないものなんだ。

キルケゴール的には、真理を追究する人は常に情熱的で、またすべての真理追求の問題は情熱があれば解決できるんだよ!

この真理を追究するための情熱をもったうえで「たったひとりの存在」「ひとりで生きていく自信に満ち溢れた存在」「ひとりで生きることに満足している存在」を、哲学者の主人公として比喩し、この存在を『単独者』として呼ぶことにした。

 

キルケゴールがいいたいのは「他者に依存するんじゃねえ」って話であって、他者に依存している限り絶望がやってくる。その絶望を乗り越えていけば、最終的には『哲学者の主人公』みたいな単独者になるよってこと。これがユングの個性化に繋がっているような気がする。

最終的に、他者への依存心をゼロにまで持ち込んだ存在は「ひとりで生きていく覚悟を決め抜いた存在」となり、そのとき、神の前に立つことができるってこと。(たぶん、神からの自立だと思われる。)

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キルケゴールの課題『主体性と不安や恐怖』

キルケゴールにより提唱された実存主義は『主体性』の成長過程のようなものかと思う。

自分が自分らしく、自分自身が持つ主導権を持ち、そのときの私たちは、真理を追究する哲学者にある。そして自分自身が持つ『欲求の価値観』と『道徳の価値観』についてを改めて構築しなおしていくことにより、私たちはより『自分らしくなる』ということだ。

つまり、今までの欲求の価値観と道徳の価値観とは「人に与えられた価値観」に過ぎず、主体性があったわけではないのだということだ。人に与えられた価値観のなかで生きている限り、主体性は失われたままにある。

しかし、主体性を育てるためには、この『欲求』『欲求を満たすことによる虚無感』『道徳』『道徳による理想の崩壊』の過程を経ていかなければならないということだ。

 

さて、この主体性の裏側には常に「不安」や「恐怖」が眠っている。

私たちが私たち自身が本当にやりたいと思っていることの裏側には常に不安や恐怖が存在している。そして主体性を不安や恐怖に奪われたとき、私たちは単独者と呼ばれる存在からかけ離れていくことになる。

キルケゴールは、不安についてこのように説いている。

不安は神の前に罪を犯す人間の自由の可能性に対する眩量である

引用:キルケゴールの実存主義|いずれも絶望なのである – Hitopedia

なるほど、よくわからない。(哲学者ってなんでかよくわからないことよく言うんだよ、その言葉の背景が必要不可欠な言葉が多いから流行らないのかもしれない。)

不安とは、主体性を持ち、独立的な存在(依存していない存在)となっているとき、なにか主体性を持って行動しようとしたときに発生する『立ち眩み』みたいなものだと言っている。

もっとわかりやすく説明すると、やりたいことをやりたいって思うときに、ふと「でも成功できるのかな・・・」とか「でも、ちゃんとできないかもしれない・・・」とか。色々な不安が湧き上がってくることが多いかと思う。このことを眩暈と言っている。

そしてやりたいことがあるのにやらないことが依存に繋がっているのだと言う。で、これが「神を目前に罪を犯している」ということなのかな、自立してないよってことだな。

逆算的に考えてみれば、不安を感じたならばそれが本当にやりたいことだよってことでもあると思う。

だけど、不安に流されて本当にやりたいことをやらないのが『人の罪』なのかもしれない。(単純に「やりたいこと」を言い訳ならべてやらないでいるのはかっこ悪いかもしれない・・・・。)

単独者とは、この不安や恐怖を乗り越えているともいえるんだろう。