アダルトチルドレンが大人になると『大人よりも大人』になる件について

| Ⓒ なとり

sponsor link

ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

kindleの読み放題Kindle Unlimited30日間の無料体験』では、ほかの三冊も同時に読み放題


アダルトチルドレンとして語るとき、やっぱり『毒親』について語られている件が多いように思うんだが、私は親を『毒』と呼ぶのはいかがなものかと私自身の道徳性が訴えてくる。

とりあえず、毒親に育てられることによるデメリットが、親に支配されることにより『アダルトチルドレン』という構造になってしまうことにあるとは思うんだが、アダルトチルドレンにはアダルトチルドレンにとっての課題が存在している。

それは自己超克と共に、親を超克していくことではないだろうか。

私たちは、親から共感してもらうことにより自分の存在意義が生まれているようにも感じられる。

自分が自分であることを許されるような感覚でもあり、自分が感じていることのすべてを『肯定されている』と感じられることが社会生活を送るにあたっての大事な足掛かりとなる。

 

さて、このアダルトチルドレンという言葉は、最近生まれた言葉である。それまでのアダルトチルドレンが存在してたのかもしれないけれども、最近生まれたこの言葉。

どうしてこのアダルトチルドレンが社会現象として起きるようになったのか——である。

まずはここが重要な部分ではないかと思っている。

sponsor link

アダルトチルドレンの防衛機制について

今、戦争がない。日本において侵略される不安を抱えている人はほぼいない。たぶん、単純に平和ボケでもあるわけなんだが。これから、政治戦略のなかに戦争のセの字がでてくることは稀となってきた時代となった。

これは、私たち自身が身を守るべきものが『肉体的な死』ではなくなったことを意味している。

戦時中の私たちは「肉体の死」が隣り合わせにあり、肉体の死から自分を守ることが重要にあったため、飢餓から身を守り、槍から身を守り、隣人からの襲撃に備えなければならなかった。

しかし、今は肉体的な死が隣り合わせではなくなった。つまり、私たちは死の概念の意味合いがかわってきている。

死の意味は『精神的な死』となり、防衛機制能力は『肉体』から『精神』へと切り替わってきているのである。

いわゆる、今「毒親」というワードも出てきているし、自分の親が自分を子供のままにしたという話でもあるわけなんだが、毒親にもレベルがあって『肉体的に死を思わせる』のと『精神的に死を思わせる』毒親が存在している状態にある。

今回、ツインレイと出会ったりなんだりしている人たちは「精神的に死をおびやかされたきた人たち」なのだと思われる。

つまり死による支配は肉体ではなく、精神への支配なのである。親からの支配は肉体ではなく精神にもなったということだ。

 

単純に説明すれば、時代が変わったよ。時代が変われば『防衛しなければならないもの』の対象が変わる。対象が変われば、人間の課題も大きく変わるって話である。

アダルトチルドレンは「新しい時代の精神的な死」への課題を抱えていると言える。

アダルトチルドレンの親もアダルトチルドレン


有料版の記事
ツインレイステージまとめを読む

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


このように語られているように思うが、前の世代においては『大人』だった人たちが、新しい世代においては『子供』へとなっているってことなんだ。時代の切り替え時期ともいえる。

図の説明:肉体を守る親は精神を守る親になれているとは限らない
図の説明:肉体を守る親は精神を守る親になれているとは限らない

たとえばなんだが、肉体と精神でいえば私たちは種の保存のために『肉体』を優先的に考える。つまり「殺さないように育てること」が一番に大事なのであり、精神ではなく肉体を優先的にして育てるようになる。

このとき精神による問題は「着眼されない」わけである。

これがアダルトチルドレンの親が「アダルトチルドレンを生み出す」構造になっているように思う。

そもそも精神を育てるようにして心を育ててもらってきたわけでもないし、身体の傷のほうを重要視して生きてきた人たちが精神の傷を重要視することはできないわけである。

つまりアダルトチルドレンの親はアダルトチルドレンなのである。とはいえども、アダルトチルドレンの親は『前世代においては大人』とも言える。子供をしっかりと肉体的には守っているから。だけど、世は平和であり、子供たちが肉体的に破壊されるよな事態にはならないため、子供たちの不安は『肉体的な死』ではなく『精神的な死』への方へ感じる時代となったということ。

 

だから、アダルトチルドレンの親は確かにアダルトチルドレンではあるんだけれども、子供の感覚がどのようなものかを認識せずに子供を育て続けた結果、アダルトチルドレンが成立するようになる。

何が言いたいのかっていうと、アダルトチルドレンの親が毒親と言葉にできるが、そもそも時代を間違えた育て方をしたら子供が全然育たなかったって話なのかなと今更ながら振り返っている私がいる。

 

戦してんのに精神的なものに重きを置いて子供を教育してたら、お国を守れないっしょ。

だからそういう子供が育つと国が守られるってことだから従来はこれでよかったけど、これからは違う。別の国とも共存したり、繋がったりして『違う異質的なものが繋がる世界』へと切り替わっていくのに、違う異質的なもののなかにも共通点を見つけていって繋がっていかなきゃいけない。

肌の色が違うとかね、そういう『目に見える部分』によって戦が起こってもきていた。だけどこれからはそういう差別的なものを取り除いていく必要性があり、じゃあ、どこに共通点を見つけ、どこでつながりを持つべきかと考えれば、それは人類共通の『精神』にあるんだ。

人類みんな成長しつつあるんだよ。過去の過ちを何度も繰り返しながら、そのなかで折り合いをつけていくって時期に差し掛かっている。

だから親と子の時代が違う。単純に今時代の切り替えの時期に生まれたことが運が悪かったみたいなだけで、特に現象においておかしな点はない。そしてアダルトチルドレンたちって肉体じゃない、精神を重要視することを目的として生まれてきている(時代の流れに乗っかっている)。

アダルトチルドレンは新しい時代の礎になるために生まれてきてもいる。古い時代と新しい時代の切り替えを行う人たちってことだな。

もしかしたら、ヒットラーとかルドルフ・シュタイナーとかは、この時代の切り替えそのものを理解していた可能性がある。

日本では、戦後に作家さんが「これからの日本はもうだめだ」つって自害した人がめちゃくちゃ多いんだが、新しい時代を予見しながらも受け入れられなかった知性の高い人たちもいたってことだな。三島由紀夫(金閣寺とか書いた人だな)もそのひとりなんじゃないかと思う。

sponsor link

アダルトチルドレンが『大人よりも大人になる』とは

アダルトチルドレンは『精神的な親がない』状態となっている。ので、アダルトチルドレンは自分で自分の精神を育てていかなければならない。

それは旧来の世代を支えていた『肉体的な親』が理解できない『精神的な親』を乗り越えていくことでもある。

肉体的な親はアダルトチルドレンを理解できない。これは「精神的なことに重きをおかない気質」として育てられているからこそ、理解が出来ないのである。

で、私たちはこの「私たちを理解できない親を乗り越えること」が重要視される。

つまり、私たちは親に一生かけても理解されることがないのが大前提にある。それでも尚「受け入れてもらえない自分を肯定できるのか」という自己肯定感も必要になってくる。

私たちは根源的に『欲求』がある。そのうちのひとつが『承認欲求』だ。

アダルトチルドレンの多くが「親に認められたい」という欲求を抱えて生きている。しかも「精神的に親に認められたい」と、精神的なことに重きを置いた経験がない存在に対して認めてほしいと思っている。

 

さびしいと思った。だから親に「さびしい」と言ってみたが、親にはさびしいという感覚を重要視していないために「だからどうした。」と言われた。

 

ってことが起こりえる。常にこれが続く。つまり、アダルトチルドレンが親に求めている「さびしい気持ちの共感」は得られないことになる。

しかし、別のケースでは受け入れられることがある。

 

ケガをした。痛いと思った。だから親に「痛い」といった。そうしたら親は「あら、これはとても痛いね、大丈夫? 早く消毒をしようね。」と言われた。

 

いわゆる『認められたこと』が『精神』だとわからないんだけれども『肉体』だとわかるのである。肉体的なものに付随された感情は理解できるが、みえていないものに付随された感情は理解ができない。

で、アダルトチルドレンは常に前者を求めているように感じられる。親には共感できない共感を求めている感じ。

共感されないから、その部分が『大人』になれずに子供のままくすぶってしまい、さびしさを解消しようと依存症になったりする。だけど、ケガしても自分で病院にいって処置してもらう(自立)ことはできる。

こんなことが起きているんじゃないかと思ったのである。

 

根源的には『共感性』なのだが、共感のレベルみたいなものが違いが生じているように思う。

そして、みえないものや空間的だったり、親へ優しさなどをアダルトチルドレンは持ってはいるが、親はそれを自覚しない。自覚しないから共感することはできない。

そもそもそのサイクルそのものを理解することも出来ない。理解できないものを理解しろと言っても時間の無駄である。

私はこの記事を書いている理由はひとつにある。

「親に共感してもらおうとしても、親そのものに『共感』という概念が存在していないんだな。」ということを理解したから、親に共感してもらうんじゃなくて、自分で自分に共感し、自分のなかに親を生み出していかなければ、私が私が持たないってことである。

 

アダルトチルドレンが依存しているのは『親への共感を求めている』ことに繋がっているように思う。この親への共感を諦めたとき、私たちは「自立」へと向かっていく。

なんなら私たちこそが親へ共感していかなければならないのである。

もし、私たちのなかに「親も傷ついているんだな」とか「親も不安なんだな」とか感じられるようになったら、精神的自立ができてきた証にある。

私たちが知っている大人よりも『大人』になれたのである。

親を『親』ではなく「ひとりの存在」として自覚できたとき、私たちは精神的自立を果たしたことに繋がっていく。

私たちは親に与えられるはずもないものを永遠に求め続けているからアダルトチルドレンなのである。それが『依存』にある。