ツインレイとニーチェの超人時代に進むことについて。

2023-09-12

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ニーチェは、超人を『人を超克した存在』として書いている。

そんな存在がニーチェの時代から二百年後には誕生し始める——ということだ。

その兆しが、もうここに少しずつ始まってきているのではないかと思っている。

ツインレイ自身が望まれている内容が『親の支配を抜けること』『他者の支配を抜けること』『自分で自分を管理すること』というような。それこそが、ニーチェの唱える超人説なのかなとも思う。

私は「ツインレイが幻想に囚われている」と書いている。これはツインレイに限らない。ツインレイ以外の人たちでも幻想に囚われている状態である。

そのなかでも、もっとも酷い幻想に囚われているのが『ツインレイ』なのである。そのために、親の因果の内容が過酷内容ともなっている。私はその背景を歴史に問う。(酷いからこそ、反転を起こす。)

私たちは、多くの経験を積み重ねてきた。その経験のなかで『支配と従属』という支配と奴隷による関係性を長く続けてきている。

この関係性は弱肉強食であり、強きものが生き、弱きものが死ぬ。そのような関係性である。

とある実験が行われたこと。それはスタンフォード監獄実験である。

新聞広告などで集めた普通の大学生などの70人から選ばれた心身ともに健康な21人の被験者の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるということが証明された、とジンバルドーは主張した。引用:スタンフォード監獄実験 – Wikipedia

つまり、弱いものが『弱い立場に存在しているから弱い』のであり、強いものが『強い立場に存在しているから強い』のである。

これは『役割に呑まれていく』という人間が持つ特性のように思う。

私たちは、何かしらの役割を演じている。それもその役割は『自分が知っている限りの役割』である。それ以外の役割を演じることは出来ない。

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私たちは、生まれてこのかた『自分』を演じてきている。それは、子供時代から育つ過程で『親に望まれた自分』を演じ、その自分を構築している。

そして、自分自身が親と言う立場に立ったとき、親である存在を模す。自分にとって最も身近な『親』になる。

私たちはそうやって『役割』を持ち、その役割を実行しているに過ぎない。それはだれしも同じである。

しかし、その関係性も役割も、実際のところ『自分が望んでいないもの』である場合も多いわけである。

この状態から脱していくことが、支配から抜け出すことであり、私たちが『人間を超克すること』にも繋がっているように感じられる。

 

同じように、ツインレイ達にも言えることがある。

私たちは『ツインレイになろうとしている』ところが少々あるのである。

ツインレイだからこうでなければならない——といった、身近なツインレイたちがネットに存在している存在を模そうとする。

そのなかでも、私自身に対しても『ツインレイとはこの人のことだ』と思う人もいるんだろう。

しかし、残念ながら、私はツインレイとして模範的な存在ではないのだということはここに表明しておきたいと思う。それにしたって、ツインレイとしては不真面目な存在である。

ツインレイとは『ツインレイであることを脱ぎ捨てること』も勿論重要なのである。

そして、最終的に残るものは『自分と言う存在』だけでもあるが、その自分と言う存在そのものも空の理論からすれば打ち消され、そこには誰も存在していないのである。

『自分と言う存在はどこにもない』というのに、存在のない存在を信じたいが為に、私たちは『役割』や『関係性』に依存し、自分と言う存在を正当化していくことになる。

だからこそツインレイは『ツインレイという幻想を捨てること』『自分という幻想を捨てること』のふたつを必要とする。役割を全て捨てることを必要ともする。

そもそも、何も存在していないのに、そこに存在しているように感じられるが為に、私たちは『存在を欲する』のである。これもまた、段階のひとつであり、その段階を超えていくと『存在がない』という状態に至る。

しかし、私たちは『存在がない』という感覚を覚えているとき『存在が生まれる』のである。

私たちが受け入れなければならないのは『ないものをないと知覚すること』である。そのとき、私たちは『ないからこその『ある』を発見すること』へ至っていく。

 

汝自身であれ。汝がいま行い、考え、欲しているもの、それはすべて汝ではない。…汝の真の本質は汝のうちに深く隠されているのではなく、汝の上に(uber dir)、すくなくとも普通自分の自我と考えているものの上に、測りがたく高いところにあるのだ

引用:超人(なんだ、このサイト。CGIでサイト構築している。www)

私が思うに、ツインレイの期間で『自分が、今、行い、考え、欲しているものは自分ではない』ということに気づいていく期間でもあるように感じられる。

その感覚を始めとして、すべてにおいてが『記憶による反芻』に過ぎず、その記憶が『自分としてのビジョン』を構築しているのだということ。

 

ツインレイにとっての覚醒のために必要な段階として『自分が記憶に支配されている』ということに気づくことからなのではないか——と思う。

その記憶に操作されている限り、私たちは『誰かを模している』に過ぎない。いわば、これがコピーである偽物である。

この概念自体が『本物』と『偽物』という存在を生み出す。

この人は本物のツインレイだ、この人は偽物のツインレイだ。そこに存在があれば本物と感じ、コピー(ただ模しているだけ)だと感じれば贋作だと感じる。

そして、記憶の支配を抜けていくことにより、私たちはようやく『自我』とも感じられるような『感受性』を受け取ることができるようになる。

このとき、私たちは本物へと着地するようになっていくが、それさえも私は幻想のように感じられる。(私はツインレイとして本物でもないし、偽物でもないという視点だ。しかし、だれかが私を模していく限りは私は本物となる。)

私たちが『私たちである』と思っているものは『私たちではない』。しかし、それが人間なのである。

この『自分ではない自分』をすべて取り除いていくと、私たちには何もないことが分かる。私たちは自分たちの存在を『トレースしていたにすぎない』のである。

トレースした自己がすべて他者に預けられた記憶による定着に過ぎないことだと理解したとき、私たちは本当の『存在しない』という世界へ触れていくことになる。

あるのは、ただ『感じるだけ』というエンパスの世界でもある。そして、そこに存在がないために『傷つく』こともない。傷つくのは、そこに『自分が模した記憶という自分』が存在しているからである。

これが過去に縛られている人たちの特徴性でもある。

そして、人に望まれた自分の姿になろうとするのも、もうひとつの側面性であり、望まれた自分という『記憶』に固執してしまうことも、私たちは私たちの道を進んでいるわけではない。

これが未来に縛られている人たちの特徴性である。

どちらも『過去と未来という記憶に縛られている』状態である。

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ツインレイたちは、カップリングとして過去に縛られている側と未来に縛られている側に分離している。

片方が過去に縛られている場合は、片方が未来に縛られている状態ともなっている。

先ずは過去を清算し、次に未来を清算していくことになる。

私たちは、ツインレイ達と協力し『今』という立場にまで戻るために、自分のなかにある記憶と戦うことになる。その記憶が多く浮き彫りになるのがサイレント期間であり、その記憶が『闇』である。

私たちは、その闇と向き合い、その後、いかに生きるかを決めていく。このまま、記憶に縛られたままになるのか、それとも、記憶を拭い去り、今と言う場所でツインレイと待ち合わせをするのか——。

過去から来たツインレイは、未来に縛られたツインレイの相手と結ばれるのか。
未来から来たツインレイは、過去に縛られたツインレイの相手と結ばれるのか。

記憶に縛られることを選べないツインレイたちは、サイレント期間に何度も別れを経験する。それは誰かを模し、記憶とさよならをするためだ。

 

私たちは、サイレント期間に『過去の自分』とも出会い、『未来の自分』とも出会う。どちらも、過去や未来に縛られている存在である。

その存在たちとさよならを述べるべく、サイレント期間では迎い入れる必要性がある。

闇とは自己のなかに生じる『先入観』ともいえる、記憶である。私たちの敵はいつだって自分のなかに存在している記憶にある。

 

ツインレイたちが、ひとつひとつ家族による支配を抜けていくことにより、その子供たちは支配を受けない存在として生まれてくる。

その循環のなかで、ツインレイたちは超人をむかえる準備を始めている。

今のツインレイたちが挫折し、子供を作り、少々の支配を入れてしまうこともある。が、次にその子供たちが超人の子供たちを作るべく、支配を抜けていこうとする。

 

私たちが終わらせていくことは『支配』と『奴隷』でもあり、また『加害者』と『被害者』の関係性である。

先ずは奴隷であり、自己犠牲であり、被害者である側から終わらせていく。支配と加害者はそのあとに終わっていく。

理由は、支配をする、加害者である彼らの傷を奴隷側、被害者側が背負っているためである。それを終わりにしていくことにより、支配側や加害者側へ傷が戻っていくという構造をとっている。

そして、ふたつの相関性を落ち着かせていくカタチになるが、加害者・支配側は人へ傷を押し付けるほどには『傷ついている』のである。

現実的に傷を背負っているのは、奴隷・被害者側だが、精神的に傷を背負っているのは、支配・加害者側である。

この傷による闇の循環の大元の歴史をこれから反転させていくときが来たのだと思われる。

それが終わった『家庭』のなかへ、超人たちが生まれてくる。まだ始まりに過ぎぬ、これからのことである。