神人が生まれるまでの経緯と神の刻印と獣の数字の意味の導き出しまで(ロボット人間・獣・超人)
シュタイナー理論のなかに『物質界』についてを、
- 鉱物界
- 植物界
- 動物界
- 人間界
として、表現している。
さて、このシュタイナーさんですが、ヒットラーとは対極的な立ち位置にもあった。ヒットラーはシュタイナーの天才的な直感や知性についてはメラメラの嫉妬を燃やし(本当に嫉妬で殺意を抱くルシフェルのようだ)、シュタイナーさんは毒を盛られてから二年ほどでお亡くなりになった。
私自身もシュタイナーの人智学を設立したところから、ものすごい天才性を感じられる。そもそも『学問そのもの』を、この1900年代のなかで設立したのである。これは新しい分野そのものを開拓したということ。
これは天才じゃなくて誰がやるんだ? シュタイナーの本も、未だに私も読解不明の箇所も多いが、とりあえず、ここで私が理解した中での『物質界』というものと紐づけて理解が出来る思想が成立したので、シュタイナー愛という冷めやらぬ興奮を抑えながらシュタイナーさんに力を借りながら説明をしたいと思う。
私が話したいのは『物質界』というわけではない。私自身が理解できる『私のなかに存在する精神性』についてである。
基盤としたいのは、神人がいかなるして成立するのか——についてである。その経緯を理解するとき、私はシュタイナーの物質界を理解したのである。
私が今追いかけているのは『神人』の真相にある。さて、この経緯のなかで私たちのなかにある『動物性』『植物性』『人間性』の意識を見つけることができた。
しかし、もうひとつの意識が存在していることに気づき、それは『何か』と考えたところ「鉱物界」との返答がきた。そしてこれは『物質界』についての話か! とようやく理解をしたのである。とりあえず、私のなかにいる無意識の私よ、センキュー。これで私はこの記事を書きあげることができるだろう。
ここから、なぜヒットラーとシュタイナーのふたりが対立していたのか(ヒットラー側の嫉妬が理由ではあるが——)も理解ができる。このふたりの話は「ひとつ」に繋げることができる為、そして反対側からのエネルギーたちによりひとつの思想を練り上げていたのだと——。
この記事は、シュタイナー理論をがっつりやってから書いているわけではないので、シュタイナーからは思想が「ズレ」ては尚、私自身の視野においての理解であるため、シュタイナーさんのほうが理解しやすいのであれば、そっちを参考にされたし。
マジでシュタイナーさんには腹から燃えるような感謝しか湧き上がってこない。
人が持つ精神のなかに存在する物質界
私は、私のなかに『物質界』を見つけることが出来た。
それぞれ、動物性の意識、植物性の意識、人間性の意識。そして鉱物性の意識である。
私たちの意識は、軸にある『人間の意識』でもあり、これは私たちが『成立する』ときに生まれた構造であり、私たちの意識は鉱物の意識を基盤として上に、植物の意識、動物の意識、人間の意識として成立している感覚がわかる。
しかし、本来の私たちの感覚としては真逆である。
このような感覚を持っているため、私たちの動物的な意識、植物的な意識、鉱物的な意識は『深いところ』にあると思っていい。もっとも深いところにあるのが、鉱物的な意識である。
神人の思想と物質界の思想を繋げる
ここから、神人の思想と物質界の思想を結び合わせてから、それぞれの階層についてを書いていってみようと思う。
神人の思想にでてくる存在は『神人』『超人』『獣』『ロボット人間』である。
超人・獣・ロボット人間 | 神人 |
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物質界 | 神人思想 |
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人間界 | 超人 |
動物界 | 獣 |
植物界 | ロボット人間 |
鉱物界 | (神人) |
1989年以後の獣が生まれるまで
私たちの知覚的な感覚は1989年以後において『人間の意識』『動物(獣)』という感覚を理解するようになった。
このふたつだけである。超人でもない、ロボット人間でもない「人の意識」と「動物の意識」である。
戦争により、私たちの感覚は自分の中にある動物性の意識を目覚めさせたとも言える。そして、飽和した平和な世界観は『獣』を生み出していく。
私たちは戦争により「人間の意識」よりも「動物的な本能」を優先し、その優先により『動物界』の感覚のほうが強くなってしまうのである。そこに自分の未来を考える力はいらないし、食うか食われるかの世界観である。
このとき、私たちは『人間』であるか。または『獣』であるかのどちらかを選ぶのである。獣側は「人を人として育てること」を忘れてしまう。忘れてしまったがゆえに、私たちは人間でいられないのである。これが大人になることのない未成年軍団となる。
日本はその動物性を目覚めさせてしまったともいえる。人間であることの尊厳を失ったとも言えるし、人間とは何か——を理解しないってことでもある。
とりあえず、自分に「人たらしめるものとは?」と問いかけたとき、その回答はサクッとでてくるだろうか。
私は前頭葉って答える。これは「理性」「抑制」を意味している。だから私は自分に理性的であれ、抑制的であれと戒める。それが『私が人であるために必要なこと』だからである。
しかし、人が人であるために必要なことを学ばない人たちも増えた。それがヒットラーからすれば、やはり家畜産業的な育ちになり、家畜として育てられたがゆえに「人という生き方」を理解せず生きてしまうことは欲求に溺れることも意味するだろう。
「ありのままの自分になりたい」というが、それ以前の「人でありたい」ということすら忘れているのである。だからこそ「獣でありたい」に据えられてしまう。
このとき、私たちは『人である自我により獣の意識を支配する』側と、『人である自我を失い、獣そのものになる存在』へと振り分けられているのである。
飽和した世界のなかで私たちの人である尊厳が獣に飲み込まれたのか。はたまた、人である尊厳を守り通せたのか。
2039年のロボット人間が生まれるまで
そしてきたる2039年には、最大なる二極化にまで至る経緯である。
1989年以後 | 2039年以後 |
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1989年のとき、私たちは『人であり動物性の意識を内包している』存在と、『動物性の意識のまま生きている』存在の2種類に分類され、そこから再び『植物性の意識』が生まれ始める。
この植物性の意識が「ロボット人間」に当たる存在である。
たまに私は植物は徳が高い生き物だ。だって踏みつけられても、何をしたところで文句も言わない。ただそこに「ある」ことができている。これ以上に上等な徳がある存在はない——とか話しているが、それこそがロボット人間である。
獣の段階では「反発」もある。嫌なことをされたら感情的な反発を持つ。しかし、植物の段階にも差し掛かれば、反発さえない。踏みつけられた葦は強い。強いが、そこに意志などひとつもない状態にある。
私たちは、この段階に差し掛かるまでの間に「与えられるものを受け取るだけ」でもある。与えられたものを与えられ、それを受け取るだけであり、何が受け取れていないのか、自分には何が必要なのかを考えもしない。
それが植物である。
そして、それがコピー用紙の人たちである。
与えられた学問をこなし、与えらてた答えを導き出すように生かされる。そのなかで『学問の意味』は理解しない。どうして勉強しなければならないのかなんて疑問もないし、単純に与えられた学問をこなす。そういえば、バカの壁を書いた養老先生も同じようなことを書いていたような気もするな。
自分が「何をするべきなのか」を考えない。コピー用紙に書かれている内容を読み、暗唱する。知識に対して疑問もわかないし、学問の先にある学問へ到達しない。
それは人間の意識である自我がないためである。私たちは生きている限り、生きる知恵を求めようとする。その智恵と知識の違いを理解しない。知恵は息をしているが、知識は死んでいる。この違いを理解しない。それが『超人』と『ロボット人間』の差にある。
2039年の超人が生まれるまで
超人とは、上記の通りのロボット人間のなかに生まれる「異種」とも言えるんだろう。ずっと考えている人たちであり、ずっと悩み続けている苦悩する存在である。
ロボット人間たちと超人たちの違いは、当初は明らかになることはない。残念ながら、当初は『人の意識』としての分類がなされているため、その分類を理解することがないし、また当時の段階では分類さえ為されていないのである。
しかし、本質的な部分では芽生え始めているようにも思う。
ロボット人間のなかに適応することができない超人たちは、多くの抑圧を受けるだろう。集団というロボット性のなかに存在する『超人の意識』は人の意識により芽生える。そしてそのために抑圧はよい具合に当人へと強いストレスという脳への刺激を生み出すだろう。
そして、その刺激は強すぎるがあまりに精神をも病むことになる(肝臓がもはや毒素の処理が追い付かなくなるがゆえに、肉体が毒素への適応性も生まれるからこそ、適応能力が備わるようになる)。そして、その精神を病み続けているがゆえに社会生活をすることができない状態になる。
超人とはロボット人間が手放していく人間の意志をより一層強く持つような存在となるのである。
そして、それは獣による家畜産業のなかからしか生まれない。
私たちは、家畜による育ち方のなかで『超人へと育つ個体』と『ロボット人間(植物)へと退化する個体』へと振り分けられているともいえる。
また、超人たちは『植物の意識』を内包している。これは私たち自身のなかに存在する「自分を支配する」という感覚にある。
植物人間たちは自分で自分を管理することも理解しない。自分に意思がないためにある。
たとえば与えられた情報も自分でどのように処理をするのかを決める。そのまま受け入れるのか、そのまま捨てるのかの決定権が自分にある。
意志を持ち、意思を理解し、超人たちは人生を生きるのである。
超人たちは「自分をどのように動かすのか」「自分をどこに植えるのか」「自分はどのように育てるのか」を考えている。もはや私たちは私たちの親になるのである。
超人の面白さは、植物の意識や獣の意識を支配することができる感覚を持っていることにある。
2039年の鉱物人間(究極のロボット人間)が生まれるまで
超人へと育つ個体の中でも、とりわけて群を抜く存在が生まれる。それが『神人』である。
神人の存在は『創造』を持っている。この世界を支配する存在だとヒットラーは言葉にしている。
神人は『鉱物』の意識にまで到達する。そこには『意志』などない。
意志などない、意思もない、意味もない、理解もない、『中身が何もない』存在がロボット人間の究極地にあり、それは『神人』が生まれた段階で完成する。
神人が生まれるとき、同時に「無たる鉱物人間」も生まれるのである。ロボットどころじゃない、ここには『何もない』のである。そこには心もないし、意味もないし、意思もない。
その存在には、既に『人』ではない。人ではないから、そこには中身が何一つない。自分で考えることができないし、考えていると言っても、それは考えていないに等しい状態にある。いわゆる、人に言われて自分は何かを行動することはあるが、自分でなにかの行動を決めることができない。
指示待ち人間と日本ではよく言われているが、その究極の果てには「すべてが他人で創り上げられる存在」がいるのである。
それは創造である。鉱物とまでになり果てる存在は「自らをすべて放棄し、自らを他者に丸投げした創造者」になるのである。いわば、他者のために創造を続け、他者のために生きている。その存在そのものが『他者』により生み出され、その他者のために創造を捧げていくのである。
しかし、当事者は「自分の為」と思っているところが面白いミソではないかと思う。それこそが『無たる鉱物人間』にあたる存在にあり、自分の為だと思わされた内容を「自分の為」だと思っているが、それは「人の為」なのである。
もはや意味がわからなくなってくる。しかし、鉱物の存在は常に他者の為にある。なんなら神人のために存在しているとも言えるんだろう。そしてその人に「すべてを捧げた存在」が鉱物人間である。
中には心もない、命もない。そしてそれは「存在」ですらなくなる瞬間も、神人によりけりにてあるんだろう。
2039年の神人が出来上がるまで
神人は、超人の中から生まれる。そのとき、神人は多くの願いを背負っている。
かくいう彼らは「人の上に立つために生まれてきた」のであり、「そのために発生した因子」でもある。
その存在は、常に創造を行う。そしてその創造は常に「誰かの為」でもあり「自分の為」にも繋がっているが、鉱物人間とは真逆の世界観を持っている。
超人 | 神人 |
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神人はポールシフトを終えている。
これこそが反対側の世界の構築にある。私たちは『支配』をするようにして「動物」「植物」「鉱物」の意識が存在している。
私たちは、それらの意識をコントールすることで自己支配を起こし続けていくようになる。
超人は、この支配が出来ることにある。いわば動物の意識、植物の意識、鉱物の意識による支配は、私たちの世界を自分の思い通りの世界に構築していくことになる。
これが『支配』である。そして、これが『超人のベクトル』にある。
しかし、神人は自分の世界へポールシフトを起こし、意識が反転する。反転した暁に私たちのなかには「創造」が生まれるのである。
超人の段階では、自分のことを支配し、コントロールすることしか出来ない。しかし、神人の段階では創造することができる。大きな違いである。
支配とは存在しているものをなんとか自分の思い通りに動かすことにある。しかし、創造とは存在していないものを創造するようになる。これが『世界の創造』に繋がっていく。
鉱物の意識をも支配することになった状態とは『瞑想を支配すること』でもある。
神人による世界のポールシフト
神人は自分の世界によるポールシフトを終えると、従来の世界に存在していた人たちとは関わらなくなるだろう。
このポールシフトでは、神人たちによる『従来の世界』と『新しい世界』の分離にあり、旧来の世界に存在していた人たちとはさよならをする。
またポールシフトが起きた段階で、すべての人と断絶し、ひとりで新しい世界を構築することになる。
しかし、このポールシフトは従来の世界による鏡のような世界観を持っている。ゆえに、人の本質が駄々洩れているものを見続けていくことになる。人の本質足るものをひとつずつ見ながら「ほしいものだけ」の取捨選択も必要となってくる。
そのとき、私たちは「ありのまま」になろうとする。そして世界を整えていくのである。これが私たちが持つ創造の能力である。
そして、ポールシフトが終わった後に、旧来の世界にいた人たちを新しい世界へ呼び出すためには「一度死んでもらう必要性」もあり、その死たるものが「脳」に刻まれている存在ことがこちらへやってくることになる。
私たちは脳に「再生」が本当の意味で刻まれている人たちだけを選び、また、「死」が刻まれている人たちを選ぶことはできない。どう頑張ろうにも、ポールシフトを超えることができない。
獣の刻印について
それはヨハネの黙示録に書かれている獣の印のようである。
また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。 ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。
それは『額』とされているが、私からすれば『思考』のように思う。
右の手については知らん、握手すればわかるよってやつかな? 握手しねえけど。
この内容のなかに「物を買うことも売ることも出来ない」とあるが、普通に『意志がない』んだから、自分が欲しいものを買うことも出来ないし、自分が売りたいものを売ることも出来ないのは当たり前だと思われる。
『ここに智恵が必要である』としている。思慮と知恵。それは『心を持て』。心を持って知識を理解せよ、そのときこの獣の数字は解かれるだろうとしている。心が無ければとけないのだとしたならば、これは『心ない数字』なんだろうな。
心無い数字=獣の刻印=獣の名=その名の数字のこと
『再生のない死』のことかなとは思ったが・・・・・、つまり『無』。
今思ったことをさらさら書いてみるが、これに言葉を持たせることはできない。それがいかなるものかをずっと上記の通り書き続けてきたのである。そしてそれを解くこともできる。
だけど、これは数字そのものが『意味』を持たされているものだから、666は666でしかない。その言葉にほかの言葉を適合させることはできない。これが創造の原理だしな。ほかの言葉を適合させることも出来ない、この世の666は666でしかない。
つまり、この問いに『意味はない』ってことになる。
666は666でしかなくて、そこに他の言葉を適合させることはできない。
で、なぜ666だったのかっていうと「適当」だと思われる。神さまジョークじゃないの、これ。
人って勝手に意味を見つけるけど、それは人間独特の知能である。心だけで捉えるとき、そこに『意味』はないし『何もない』し『意図』もない。なんもないところに「何か」がある人がいる、それが心ある人。
智恵とは『人の知能』を手放したときに得られる『知能と心の併せ持つ恵み』を意味する。
なんで、なとりは「なとり」なの?
なんで、なとりの『な』は『な』って書くの?
なんで『な』の一角目は横なの?
知らんがなってなる感じ。
で、それに『意味はない』。で、この獣の存在には『意味はない』んだと思われる。
神が暇すぎて、量産してみた子がいっぱいおるけど、それ『人の形しているだけだよ』って話。
で、それは『獣』のベクトルの存在だけど、中身は「人ではない」んだよね。人として創ったのは144000人だけしィ。
で、そんなん神が企画してやってみてん。獣のベクトルの存在と、人のベクトルの存在を全部いっしょくたの器に入れてみて、ぐちゃぐちゃにしてみてん。やってみたかってん! やりたかったからやってみてん! 暇やねん!
だからやってみたら人が迫害されてヤバかったヨ! でも、最後の最後には「人を保護」するようにちゃんと働くように仕組みになっているから安心してちょんまげ☆
人のなかにも神にまでなれる子がでてくるねん、それが誰なのかは神も知らんケド、そういう仕組みやねん。その子が神に繋がって導いてくれるヨ! だからこの世はいつまでも安全やねん。
とりあえず、ツッコミどころ満載の結果が666から導き出されたな。
読解の感覚なんだが、こういうモノを理解するとき、『頭で理解』したものを一つ視点を引いていくことで『心に落ちとして理解する』ことができるっぽい。コツかもしれないので書き留めておく。
獣とは何か——、だが。
私は「愛するもの」としている。(自分がどう対応するのかのみ、相手がなんなのかはさして問題はない。)
排除するとか、そういう感覚はあんまりなくて。そこに「何もない」けど、それこそ私が投影された存在でしかないんだってこと。
だからこそ、その存在を愛すること。
中身は何もない『無』だけれども、そこに『存在』していること。その存在そのものを愛することは神を愛することに通じているはずだよ。
だから愛せよ。動物的だろうが、獣なんだろうが、そこには何にも意味がない存在を愛せよ。
私たちにも意味がないし、神がやっていることにも対して意味はない。その意味がないことを愛することは、とてつもなく重要なのだと思っている。
意味がない、だからこそ私たちは愛するんだよ。意味がないから心を生み出すことができる。何もないところからしか心は生まれない。
神の刻印と神人のこと
そして、神の刻印を打たれた人たちはこのように書かれている。
「いったい何人の人に、神の刻印がつけられたのでしょうか」と尋ねると、「十四万四千人」という答えが返ってきました。その人々は、イスラエルの全十二部族から選ばれていました。
(中略)
「あの人たちは激しい迫害をくぐり抜け、小羊の血で、その衣を洗って白くした人たちです。
だから、こうして神の王座の前にいて、昼も夜も、神殿で奉仕しているのです。そして、王座に座っておられる方によって、安全にかくまわれています。
彼らはもう二度と飢えることも、渇くこともありません。灼熱の太陽からも守られています。
それは、王座の正面に立たれる小羊が、羊飼いとして彼らを養い、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また神は、彼らの目からあふれる涙を、すっかりぬぐい取ってくださるのです。」
神に選ばれた人々としての『神の刻印』。それらは144,000人とのことである。
その経緯は、
- 迫害を受け、潜り抜けること
- 小羊の血で、その衣を洗って白くした人たち
とされている。彼らは多くの抑圧を受けることになる、それは超人とロボット人間による分別のように思う。
そして、次には子羊の血で衣を洗って白くするとされているが、子羊の血とは「イエス・キリストによる血」のことで、それにより身を纏う衣をまとうことになる。
神の犠牲により生み出された『衣(神の器のことかと思われる)』により、彼らは神のもとでかくまわれることになる。そのとき、彼らの心は満たされる。二度と愛に飢えることない。
・・・・なるほど、理解した。
この『神の刻印』を受けるのは超人である。そして、この子羊そのものが『神人』であり、同じく羊飼いが『神人』である。
子羊の血とは、神人による血をわけてもらったことによる恩恵のことだ。それは心を別けてもらうこと。
その超人たちがこの世界を統べるようになる。その人たちは心が満たされる人生を送るようになり、心が飢えるようなことはなくなる。これは人生で飢えることがないということだ。
そして、その子羊たちを先導する『羊飼い』が存在するわけだ。心を別けた存在の『源』である。その源となる存在は「命を得る方法」を教えてくれる。そして、泣かせてくれる。辛かった経験を、すっかりと涙で流すことができるのである。