キリストの意識への到達とツインレイの関係性(神人の概念の成立の経緯の話とか)

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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混沌とは創造の源である。

混沌への意識への到達により、私は混沌としている。

混沌の世界では、区別がつかない。多くのことがぐちゃぐちゃに交じり合っているとき、私たちはカオスと呼ぶ。たとえば、多くの意見が飛び交っている姿に一貫性がないことが「カオス」なわけである。ぐちゃぐちゃだよって意味。それが私たちの宇宙の根源である。

引用:ツインレイが触れる混沌と秩序による現実創造について(創造主になろうよ企画①)

このとき、私は自分を許すことができた。ふたつに別れてしまった紐をふたたび一つに結びつけることが出来た。

ふたつに別れてしまった原因は『道徳』や『倫理』にある。私たちは、この世界を平和に導くため、指針を生み出した。

この指針は私たちの心を縛り、私たちの心を支配した。これが『超自我』的な役割を担い、私たちはこの抑圧により成長してきた。

この経験は、まず「ひとつの道」を進んでみなければ、その先になにがあるのかがわからないことにある。

私たちは、ひとつの道しか進むことができない個体である。ふたつの道を進むには、まだ未熟すぎるのである。だからこそ、私たちはある一極の存在となり、そして、もうひとつの一極の存在を生み出しながら、そのふたつを統合させ『ひとつ』を生み出すことになる。

その統合の為には、依存による共依存と回避依存の関係性により結びつくことで果たされる。それを課題の一致と呼んでいる。

そのなかで『ツインレイ』。これは『男』という一極と『女』という一極により生み出される私たちの道の交差点である。

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一極と一極が分離し統合する混沌

私たちは、ひとつの一極の道を突き進み、またもうひとつの一極の道を突き進むときに生まれる偏った存在である。

偏りはどこかで調節し、その調整は世界が行っている。そのバランスを精神で行っているものの、私たちは意識が一極へ偏るような仕組みとなっている。

私たちはひとつの極へ流れるように歩き、またその一極を意思を持って歩き始める時、私たちのなかには「存在」が生まれ始まる。

その決断や決意。その生き方そのものが私たちの存在を生み出し、また、その存在は今も自分人生を生きている。

 

しかし、私たちの存在を脅かす存在がやってくる瞬間がやってくる。それがもう一極の道を歩いている存在である。

その存在は自分の存在を脅かし、また自分の存在を消し去るんじゃないかと思われるような否定的な感覚を覚えることになる。

それは『否定』と『肯定』による対立にあり、必ず私たちは自分が正しいという感覚のもとに生きているがゆえ「相手を否定する」「自分を肯定する」ような仕組みのもと、対立を起こすのである。

この対立は幾度となく行われ、この対立により私たちの精神は傷つき続けてきた。

なぜならば、そこに『一極という偏り』が存在しているからである。偏りは自分に偏っているときに起きる。自分が可愛ければ可愛いほどに傷つき、傷ついていることで人を傷つける負のスパイラルへと陥ることになるだろう。

 

そして、その一極と、もうひとつの一極が統合されるとき、私たちは混沌とする。

混沌とした私たちは、そのふたつを結びつけることができる。

自己破壊ではなく、統合という言葉に——

私はウロボロスを『破壊』として考えた。

『他者破壊によるウロボロス』と『自己破壊によるウロボロス』が存在しているとして考えている。

他者破壊によるウロボロス 自己破壊によるウロボロス
図の説明:他者破壊によるウロボロス
図の説明:他者破壊によるウロボロス
図の説明:自己破壊によるウロボロス
図の説明:自己破壊によるウロボロス
地上のツインレイ 楽園のツインレイ
他者概念の破壊 自己概念の破壊

引用:ウロボロスと四神の関係性(玄武と麒麟)—錬金術⑦大いなる作業

しかし、破壊は同時に統合の役割を果たしているのではないだろうか。

私たちは、自分のなかに『自分』という概念が成立すればするほど『破壊』をももたらしてくるが、そこには一極と一極の繋がりを見つけることができる。

破壊の先にしかない統合が存在しているのである。

 

ツインレイは先ず破壊する必要性があり、破壊したからこその統合の形が存在していると言うことだ。

破壊とは完成である。

タロットカードの世界のようなものである。世界は完成されたとき、同時に破壊という保存と、イチからの再構築を望まれる。新しいスタートを意味するのが世界のカードなのである。

私たちは、古い世界観が成立したとき、破壊が生じる。その破壊を受け入れたとき、そのふたつが統合され、ひとつのウロボロスを生み出すのではないだろうか。

 

そして、そのときの私たちは混沌としているのである。

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キリストの意識への到達とは

私はこの『キリストの意識』というものを索引しているわけではないから、なんとも言葉にしがたいものでもある。

まず「キリストさんが誰なのか」から話をしなければならなくもなる。

しかし、此度、なんとなくようやく『キリストの意識』というものが何なのかを理解したような気がするのである。

それは、キリストさんがこの地上で混沌を受け取ったときの感覚なのではないか——ということである。

 

キリストを私は罪悪感の神として定義している。

キリストさんってなんの神さんなんだろ? って思ったら、この方『罪悪感』の神さんなんだなと思った。

何かしら悪いことをしてしまったときにお救いくださる神さんなのだな、と。

無罪の人を十字架に貼り付け、最後の最後に死んだ後にも脇腹を刺すような愚行をするような人たちが抱えている罪悪感をも受け入れるよってことなんだとは思う。

キリストさんの系譜の魂は『罪悪感』が人生テーマになるかもしれない。キリストのポストに座る人も『罪悪感』がテーマになってくるから、罪悪感を抱えまくったり、罪悪感を押し付けられまくったりとかの『悪』による学習がありそうだなと思った。

そういった罪の意識を抱えて生きていくってかなりしんどいモンなんだが、その罪の意識を背負い、その罪こそが己である境地に至るんかもしれない。

「私はあなたを許します」という意識は「私は私を許します」にも通じている。このI amの部分が『イエス・キリスト』だと思われる。

引用:聖守護天使で構成されているツインレイについて

正直なところ、悪いことをしてしまったことなんてたくさんある。

ぶっちゃけ、大人になると振り返って「失敗した」と思ってしまうこともある。黒歴史みたいなものである。

そのとき、私たちは「次はもう失敗しないようにする」わけである。そして、失敗に怯え、なにも出来なくなってしまった人たちもいる。その人たちは人に隠れ、自分の意見も持たず、人に隠れて存在しているけれども、人へ罪悪感を与えることには長けているように思う。

さて、そんな『失敗』だけれど、キリストさんはそれに対して『許しているよ』って意識なのだと思われる。

私たちが出来ることはふたつだけ。

  • 人の失敗を許すこと
  • 自分の失敗を許すこと

だけど、私たちは常に罪悪感にまとわりつかれる。だからこそ『次は失敗しない』わけで『人の失敗を責める』のである。

この罪悪感は、私たちにとって成長をも与えてくれる。しかし、その成長の裏には絶対的に『悪』がついてまわり、私たちは自分を『善』へと導こうとする人生がある。

これがまた二極へ分離する人生の在り方である。

このふたつに分離した人生の行く先には、またそのふたつが繋がる瞬間があると言うことだ。

ふたつが繋がる瞬間が生まれたとき、私たちはウロボロスのように統合するのである。それは私たちの『はじまりをみつけること』である。

闇の刺客等言葉にすることもあるが、私たちは私たちの起源を見つける。

どうして罪悪感を抱いたの、どうして今の自分になったの?

原因は必ず『悪』という闇にある。その失敗がどうしても許せなかった。自分の失敗が許せなくて人の失敗を責め、人の失敗が許せなくて自分を責めた経験は『闇』という悪を生み出し、自分を善として成立させていく。

それが私たちの『はじまり』である。

つまり、私たちははじまりは闇の中にいたんだよってことなんだ。

私たちは闇の中にいて、闇のような自分がいて。そんな自分が大嫌いで好きな自分になろうと一生懸命走っていくと、最後に「はじまりの自分」をみつけ、「はじまりの自分を好きになっている」だなんて現象も起こりえる。

最後の最後にやってくるのは『他者』としてのはじまりの自分である。

そして、それを見て私たちは「好きにはなれない」のである。だけど、それがいつかの自分であることを受け入れ、そして私たちは自分のなかにある罪悪感の投影を回収していかなければならない。

キリストの意識という赦し

キリストの意識は、混沌としている。

あなたとわたしはひとつである。そして愛という結びつきを持っている。

私は、あなたと私の違いを理解しているけれど、どうしても切り離して考えることができない。

誰しもがいつかの私である。だからこそ私は誰かの失敗を許し受け入れてきた。忘れてしまったいつかの自分への免罪符のようなものである。

しかし、本当は他人じゃない、自分を許してあげる必要性があったのである。

そこへ到達するまで、私は他人を許し続け、最後の最後に『他人から自分』を理解し、自分を許すことへと到達する。

 

キリストの意識のなかで『他人と自分』が繋がっている混沌とした感覚があること。

それは「誰かを許し」「自分を許す」こと繋がっているのである。

もし、ここが紐づかれたとき私たちはキリストの意識かもしれない。繋がるはずのないものが繋がるとき私たちは混沌としている。そして多くの愛を知るのである。

 

そして「誰かを知ること」を自分を投影してではなく、真実なる他者をみつけるとき。その人が持つ使命を理解し、その人の人生を感じたとき、私たちは本当の意味で『人を赦すこと』もできるし、『自分を赦すこと』もできる。

そのためには、先ずは「自分の人生を生きること」である。目の前にある、自分の人生を受け取り、常に『生きる』ことが重要なのである。

その先に『他者』が存在し、その他者との切磋琢磨のなかに生じる悪でさえも、最後の最後には赦されていることに気づいていくとき、私たちはキリストの意味を知るのである。

常に赦されている。誰かが自分を赦されなくても赦されている。自分が自分で赦せなくても赦されている。

私たちは常に世界に赦され、その世界に歓迎され、その世界のなかで多くの愛を享受していることを理解する。

 

あなたもきっと赦されている。だけど「赦されている」だなんて感覚がないから、誰かが許せないし自分のことも許せない。そして、許せていないことにも気づけないのである。

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イエス・キリストというお人形と『神人』の概念

ちなみに私がこの意識を理解したときだが。

自分の黒歴史に気づき、自分が今までめちゃくちゃ恥ずかしいことをやってきたって悶絶したときのことだ。

そんなんでも許されていた。皆赦してくれていた。愛してくれていた。それが「なんの意識なのか」は知らないんだけども、きっと、私のなかに存在している『アニムスが発生する前にお人形だった存在』が、ずっと受け止めてくれていたのだと思われる。

私たちのなかにはずっと『お人形』がいるのである。それがキリストである。

私のなかに存在している創造は、先ずは私のなかに孤独ゆえにうまれたお人形がうまれた。それは、私の中から生まれ「まずは象る」だけである。そこにいる、それだけの存在である。

引用:ツインレイ男性を精神のなかに創造するアニムス思想(孤独から生まれるツインレイについて)

私のなかに存在している『キリスト』がいて、それはずっと私のなかで『アニムス』という『他者』という概念にある。

そして、それはずっと『お人形』である。このお人形は自我がないし、なんならただの奴隷みたいなものである。殴っても何してもナンにも言わないし、文句さえいわない。

そんな存在。それが『キリスト』。

 

そして、キリストさんが張りつけられた時代に、多くの人の『他者という概念』が死んだということである。つまり他者とは投影でしか理解できないし、投影同一視として見つめる存在となった。

私たちにとって、世界のすべてに存在している他者が神様なのである。

私たちがいかなる黒歴史を繰り広げようとも、ずっとキリストという神さんがすべての他者犠牲による問題を背負ってくれている存在がいる。

それは「私たち」が背負わなくていいようにと一時的に背負ってくれている神さまである。

優しいよね、この世界。私たちがどうして他者という概念を持っているのか。それは他者が存在しており、その他者には何も感じる心がないという概念のなかにいるから「何をしても許されている世界」なのだということ。

すべての人がロンギヌス(死体のキリストを槍で刺した人)なんだってことだよ。

だからずっと許されているんだよ、私たちのなかに存在している『キリスト』を犠牲にし続けている私たちは、ずっと許されている。

 

そろそろ「キリストさんを解放してやってくれない?」って時代がやってきた。時代の切り替わりの水瓶座時代のことなのかもしれない。

アダムの創造とイエス・キリスト

アダムの創造の経緯で私は「お人形を創造する」としている。

しかし、従来ずっと「お人形はそこにいた」ということである。お人形はずっとそこにいて、そのお人形は『イエス・キリスト』である。ずっとそこにいてくれた私たちの悪事による犠牲となってくれている神である。

アダムの創造の段階で、私たちはようやく「お人形」を理解する。そして、他者という概念を構築していく。

この経緯のなかで私たちは『イエス・キリストを救世主にしてしまった』という事実を理解していかなければならない。

他者という概念であるツインレイは救世主じゃない。

よく「救世主が現れる」等の話があるよ。降臨するとか、なんとか。だけど、ずっとここにいてくれたのである。それが真実である。

 

ツインレイは救世主じゃない。ツインレイはキリストじゃない。ツインレイは自分の人生の犠牲者じゃない。

神は救世主じゃない。神はキリストじゃない。神は自分の人生の犠牲者じゃない。あれ、おかしいな、キリスト教を全否定するつもりなのか、ニーチェばりに「神は死んだ」みたいなもんか、どうか許してくれ。言葉のあやを。

神は犠牲の為に存在しているわけではない。

私は自分のなかに存在している『他者』という概念を犠牲にしたいわけじゃない。ずっとそう。私は、私のなかに存在している『イエス・キリスト』に、自分の不安を押し付けたくない、自分の恐怖、自分の悲しみのすべてを押し付けたくなかったのである。

私は神を愛したかったのである。

ツインレイを愛するように、私は神を愛していたんだなと思う。

私は人を愛したかったんだな。私は人という存在を愛するなかでも、犠牲となっていた神を愛していたんだな。

キリストが息を吹き返すには『死体蹴り』をしないこと。(悪を再び掘り起こして糾弾しないこと、愚痴などを含め)

そして『キリストを磔から降ろす』こと。(ラベリングしたりも含め相手を自分に縛り付けず、自由を与えること)

私のなかでツインレイの彼くんは「神さま」だったんだな。どうか、生きていてほしいと思う。どうか、幸せであってほしい。

 

そして、今の私は『自分がキリスト』になるのである。

宗教的実存は、自分がキリストである自覚を持つことなのかもしれない。

私は私でありながらも他者である。私はあなたの傷を同じように感じる覚悟を持って生きている。

一人分程度は優しくなれるよ。だから、私は自分を赦し続けながら同じだけ人を赦し続ける。


キリストさんとは人でありながらも、神になった人——ね。宗教のなかでも珍しい歴史なのよな。

在人神とは別なのだよ。死後にしっかりと神に昇格し、神の座席まで生み出したすんげえ人。(宗教学上、めちゃくちゃレア人材だと思われる)

この時代に必要な神として「人に寄り添う」ことを目的とし、そして、人に寄り添い多くの人の信仰を生み出し、信仰のなかで「多くの人を罪悪感から守っている」っていう神さんだな。

それがアダムとイブの子孫になるカインとアベルによる人類初めての殺人の話に繋がってくるんだろう。原因は『嫉妬』ね。

たぶん、今まではキリストさんが十二分に担当している区分なんだろうが、これからの区分は『神と人の共存領域』なのであり、神人現れるってやつになっていると思われる。

ヒットラーだったか忘れたが(当時から数えて)百年後当たりに生まれると予言された『神人』の概念、これのことだと思われる。

キリストの意識と人の意識の統合された存在のことなんだろうな。つまり、自他の統合された存在であり、神の意識があることは、他者の概念がある人のこと。

 

この辺もまた書けたらいいね。