ツインレイと寒い冬の季節による松竹梅の徳について(サイレント期間の徳)

2024-02-21

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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私自身がツインソウル、ツインフレーム(地上のツインレイ)、ツインレイ(楽園のツインレイ)として定義してきた内容が、そのまま松竹梅に関係する徳なのではないか——という視点を持っての話になる。

ツインレイは、人生の冬なのかもしれない。

私たちは運気のなかで四季を繰り返している。そのなかでも冬の季節では耐え忍び、また再びやってくる春を待ち望むような私たちの姿はツインレイそのもののようにも感じられる。

春にはツインレイの再会がやってくる。サイレント期間を冬とし、また、冬の期間には松竹梅以外にも、冬だからこそ得られる徳を手に入れようとしている段階なのかもしれない。

また、冬の季節に咲く花は多岐に及び、そのなかでもツインレイたちが得られる徳とは逆境のなかでも強かに生きることができる力そのもののように感じられる。

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松竹梅の徳とは

松竹梅とは、日本人が生み出した言葉にある。松も竹も梅も、どれも冬の寒さに耐えることからめでたいものとしている。

松は、冬の寒さのなかでも緑を保つ。
竹は、冬の季節のなかでもグングンと伸びる。
松は、冬の寒い中でも花を咲かせる。

それぞれの気質を持っても、寒い冬を乗り越えることができる力強さを表しているのが『松竹梅』と言える。

松竹梅といえばうなぎ屋でのランク付けとして使われているが「待つ(松)だけ(竹)うめ(梅)え」ってことで、この三つが揃うと『うなぎが食える』のかもしれない。。。土用の丑の日か——。

徳とは何か


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これは私自身が「そういうことなのかな~」と思って理解していることである。

花鳥木(かちょうもく)は神であると私は教えられているのだが、それぞれには『徳』が存在しているように感じられている。もちろん、上記の通り、松竹梅にもそれぞれ徳が存在し、その徳の種類については神話や花言葉などを調べたりすることで理解できるように感じられている。

また、この徳そのものは「神さんにより与えられた経験により、経験を経験としたものから花鳥木の徳をもらえる」ことになっているのではないか——と思っている。しかし、この経験自体を『人のせい』にしたりすると、自分の経験が成されないことから徳がいただけないことになる。

ツインレイ自身も、ツインレイの経験を成すことにより『徳をなす』ということだ。

多くの種類のようにツインレイが存在しているように思うんだが、多くの神話の体系を持ち、その体系から得られる徳が存在していると考えている。また、それは神により与えられた経験として考えている。

ちなみにこれを多くの人が『試練』と呼んでいるように思われる。が、試練ではないと思う。『経験』だと思われる。試練を乗り越えるというのは人の目線のように感じられる。神は特に人を試したりなどはしていないと感じている。

神がしているのは『人に経験をさせている』のであり、人からすればそれが試練のように感じられているのだと思われる。(経験する側が『しんどい』とか思えば、それは試練になってしまうだけ。)

だから、ツインレイのことに関しても『試練を乗り越える』ということもない。(ただ、昇格試験はあるよ。試験と試練は違う。)

また、このツインレイとして感じられる存在は、神により与えられた経験を成そうとするとき『ツインレイの相手』だと感じているように感じられる。

理由だが、神による縁結びの効力が働くため、ツインレイという運命のようなものを感じやすいのではないか——ということだ。

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ツインレイの松の徳『選ばれること』

ツインレイのなかでも、私自身が最初に『ツインソウル』としている課題が松の徳ではないか——と考えている。

松の木は、神聖な木として考えられ続けているゆえ『神が松の木に天から降りる』ことから『待つ』ことを『松』と呼んでいるようだ。

いわゆる、このツインソウルの松の徳の段階で『神が降りるかどうか』の試験が成されているようにも感じられる。

 

この松の経験は、ギリシャ神話に起因しているのではないかと考えている。

時の神・クロノスの妻にしてゼウスの母であるレアは、あるとき羊飼いに恋をしたが、彼には恋人がいたので相手にされなかった。
女神である彼女は、いっときの嫉妬で羊飼いを松の木に変えてしまったが、その後、罪悪感ゆえか、彼のことが忘れられなかったためか、
羊飼いが姿を変えた松の木の下で嘆き悲しんでいた。
これに同情した息子のゼウスは、母親を慰めるために松の木を常緑樹に変えた、という。

引用:Java で学ぶグラフィックス入門(11): 再帰的メソッド & フラクタル

好きな人ができた。だけど、好きな人には好きな人がいた。振り向いてもらえなくて嫉妬した。嫉妬ゆえに好きな人を松の木に変えた。
罪悪感、または彼のことが忘れられなくなって嘆き悲しんだ。

引用:神さまへの徳の献上について

『相手が自分を選ばない』がテーマにある。

相手が自分を選ばないとき、どのような選択を私たちがするのか。これが『経験』でもあり『神の問いかけ』でもある。

ギリシア神話の人は「嫉妬して相手を待つに変えて、罪悪感と忘れられない悲しみにより嘆き悲しむ」となった。

ちなみに私は「(相手が既婚者だと知らずに)なんてことをしてしまったのだと罪悪感を抱え、自分が許せなくて嘆き悲しみ、忘れられなくて寝込んだ」となった。

最後に『彼のことが忘れられなくて嘆き悲しむ』にまで到達したら、この経験は終わりになる。さて、振り返ってみて「自分はどのような経験へと神話を組み替えたんだろう」ってことが大事である。

「相手が自分を選ばないとき」という問いかけに対して、多くの人が色々な回答を出すかと思うが、それが『個性』にあたるものである。私たちのオリジナルの心である。

私の場合『自分が許せない』とか『自分がしてしまったことに罪悪感を感じる』とか。この辺が明確に『個性』として存在しているが、実際のところ、これは本当の心ではない。このときに浮き彫りになる『許せない感情』『罪悪感』は、本来の心ではない為、この辺を解消していくテーマとして浮き彫りにさせることができる。

神さんから与えられた経験のなかで『心理』が働くと、そこには私たちが持つ『思い込み』が浮き彫りになるということだ。思い込みの心理を浮き彫り化させることで解消させる。

私の場合、「自分を許せない」という自罰意識と「罪悪感」という自分がしてしまった失敗に対しての自罰意識にある。

これがツインソウルの段階で解消されているので、なとりは『失敗に対してとやかくなんもない人格』なのである。面白いことに、私は人の失敗に対してそんなに問い詰めませんし、特に失敗も笑って終わるタイプ。自分が失敗しても他人が失敗しても怒ったりとかもないし、他罰も自罰もない。

私の場合『嫉妬』が浮き彫りにならなかったのもあって、私は嫉妬のテーマはずっと抱えることになる。ここで強い嫉妬を覚えた人は『嫉妬の解消』がなされていく。

 

松の経験『相手が自分を選ばない』

松の試験合格『嘆き悲しむ』

松の解消『なぜ嘆き悲しんだのか』

 

相手が自分を選ばないとき、なぜ嘆き悲しんだのかの理由を解消することになる。これが『松』の課題。これ以降、嘆き悲しむことがなくなる。(マジで目減りする)

相手が自分を選ばない理由がなくなるので『常に選んでもらえる』ようになる。仕事とかでも面接で選んでもらいやすくなる。恋愛とかでも選んでもらいやすくなる。

代わりに、この人とは結ばれないよ。だって、松の木という徳に変えてしまったから。

ツインレイの竹の徳『信頼されること』

ツインソウルの課題が終わると、次は地上のツインレイ(ツインフレーム)の課題がやってくる。こちらが『竹』である。

竹と言えば、竹取物語で、これまたなかなか次の話に繋がっているのではないか——とも感じられている。そもそも『竹』が成立しなければ竹取物語も成立しないということである。

竹取物語のなかにでてくるかぐや姫。彼女は罪により地上へいらっしゃった月のお姫さまなわけなんだが、竹のなかから生まれ、輝かしいほどの存在でもあり、多くの人を魅了するほどにもなるほどの輝かしさを持つ。ただまァ、かぐや姫は結婚したくないっていう理由で色々な理由をつけて男性からの婚姻を断り続けることにもなる。

さて、このかぐや姫を成立させるのが『竹の徳』だと思われる。

 

地上のツインレイの課題のなかでは、百年の恋がテーマなのかなと思っている。竹は百年ほどで花を咲かせ、すべての竹を枯らす。いわゆる、この竹の花が咲かせることにより一気に枯れることから『不吉』とか『地震の前兆』とも呼ばれている。

地震が来たら竹藪のなかへ行けと言ったもんだが、その理由は地割れしないから。竹は根をよく張り、地震による地割れを防ぐ。ゆえに、地震による被害が軽減されるため、竹の花が咲くことにより、竹が枯れるために『地震の前兆』として形を変えたのかなと考えている。

竹が枯れると地震による被害が拡大するから。

地上のツインレイも同じようなことで、地上のツインレイの課題は『竹の花を咲かせること』なのではないか——と考えている。(彼にはよく『百年の恋も冷めそうだよ』と言っていたのと1月2日にわかれたが、この日は竹の誕生花の日のようだ。)

つまり、竹の花が咲くとは百年の恋が終わることであり、今までの人生が一度終わることを意味している。

地上のツインレイの恋愛は大きな破壊を伴い、自分の人生観が狂いながらも『自分の人生の土台を一から構築する』ような段階へ差し掛かるとき、竹の花が咲くのである。また、竹の花が咲くとき、地上のツインレイとは『結ばれる』、そして『離別する』のである。結ばれることは離別することに繋がっているということ。

この構造はウロボロスの他者破壊構造によく似ているようにも思う。

 

さて、この竹の課題だが『竹を割ること』に意味があるように感じている。

地上のツインレイを相手にすっきりさっぱりとして関わること。いわゆる『自分を断ち切ること』が必要だと言うことだ。

竹を割ったような性格を、裏表がない素直な性格であり裏で悪いことをしないために、人から信頼を得るようになるということでもある。

竹の経験『どうしても続いてしまう』

竹の試験合格『竹を割る』

竹の解消『なぜ竹を割ったのか』

竹の経験では「節がない状態が続く」ようになる。

地上のツインレイの経験のなかでランナー&チェイサーの経験が強く語られ、そのなかでも回避依存と共依存の関係性は明確に『節がない』状態となる。

節がない状態となった地上のツインレイの関係性は常にズルズルしやすい関係性であるが為に、思い切って断ち切る必要性がある。その思い切りを竹を割るように行わなければならない。

さて、その竹を割る理由がなんなのか——である。私の場合「好きだから」である。何度であっても、どうしても『好き』なのである。再び会えばまた好きになるだろう。だからこそ、関係性は断つべきである。そのように考えたのである。

つまり、私が『竹を割った理由は『好意』という感情』にあり、私自身はこれから『好き』という感情がわからなくなり『愛』という道へと進むことになるのである。

 

ほかにも、地上のツインレイの課題のなかで「ずるずるしてしまう相手を断つ理由」は色々いるのだと思われる。そのズルズルしてしまう理由を断ち切ることにより、自分のなかに存在している裏表という人格がなくなっていく。

ゆえに信頼を得られるような人格へと成長していくことになるのである。

 

竹を割ることにより『かぐや姫の誕生』である。このときからかぐや姫はあなたのなかで育ち始める。ツインレイ男性の場合は、竹ではなく『桃』かもしれないね。

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ツインレイの梅の徳『ありのままの自分』

梅とは、寒さの中でも咲く花のことを意味している。いかなる逆行にも耐え忍びながらも咲く花にある。

花言葉を「上品」「高潔」「忍耐」「忠実」とし、海外では「約束を守る」「忠実」「美と長寿」としている。

単純明快に説明をすると『ヤマトナデシコ』のことだと思っている。

日本で吉兆とされている花が『梅』ゆえに、日本人としてのツインレイは『梅』なのだと思われる。

海外だとまた違った花が当てがわれているのではないかと考えている。

桜梅桃李(おうばいとうり)とは、桜、梅、桃、李(すもも)のこと。転じて、それぞれが独自の花を咲かせること。引用:桜梅桃李 – Wikipedia

私たちが『ありのままの自分』に戻る経緯が梅の課題であり、ツインレイのふたりがうまくいかない理由も、ありのままの自分ではないことに原因がある。

冬の季節に、強い寒さに当てられるなか、ありのままの自分で居続ければ居続けるだけ、私たちは痛い思いをする。

闇の刺客もそうだが、私たちはありのままであればあるだけ無防備にもなっているのである。

 

また、松竹梅のなかでも、梅だけは実りが生まれるため、最終的な結実が生まれるのは梅のみとして考えている。

果実とは『種子』でもあり、子孫繁栄に繋がる大人の概念のもとにある。

ステージとして、梅は『花を咲かせる』の次に『果実をつくる』経緯があり、寒い冬に花をさかせる梅の花が咲いたあとに大人になったが故に『実り』がある。

ありのままの自分として咲いたあと、私たちは実りがある結果を得ることができるということだ。

私たちが何に耐え凌いだのかによりけり。