神さまへの徳の献上について

2024-02-19

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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過去に何度か神話による体験についてを書いてきた。

私たちの精神構造は、そのまま『神話』により構成されているとし、そして、その神話のなかにある経験を同じように経験することが多々ある。

神話のなかでは比喩として表現されている部分も多いが、ギリシア神話には愚かな話もなかなか多いように思う。

私たちだったら絶対的にやらないようなことなども描かれているし、誰かを殺すこともサクッと行ったりもする。

また、これは私たちの精神構造内に存在している『分離』とも言える。

つまり、ギリシア神話は私たちの精神構造内で起きている最悪なケースの人形劇をあるがままに表現してくれているということだ。

あるがままの最悪な人形劇とは、私たちが誰かをサクッと殺してしまうことなども、私たちが私たちのなかに存在している人を排除したりする意識でもあり、自己のなかに存在している抑圧している意識ともいえる。

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さて、この精神構造のなかで『神話をそのまま体現しない』だなんてこともある。ポジティブな方へ自分のなかに存在している神話を組み替えたり、私たちが私たち自身の精神構造内を『自分で組み替えていく』だなんてこともできる。

今回は、一例として、松の木の話が適任なので、こちらを採用しようと思う。

時の神・クロノスの妻にしてゼウスの母であるレアは、あるとき羊飼いに恋をしたが、彼には恋人がいたので相手にされなかった。
女神である彼女は、いっときの嫉妬で羊飼いを松の木に変えてしまったが、その後、罪悪感ゆえか、彼のことが忘れられなかったためか、
羊飼いが姿を変えた松の木の下で嘆き悲しんでいた。
これに同情した息子のゼウスは、母親を慰めるために松の木を常緑樹に変えた、という。

引用:Java で学ぶグラフィックス入門(11): 再帰的メソッド & フラクタル

この神話のストーリーは、このようになっている。

好きな人ができた。だけど、好きな人には好きな人がいた。振り向いてもらえなくて嫉妬した。嫉妬ゆえに好きな人を松の木に変えた。
罪悪感、または彼のことが忘れられなくなって嘆き悲しんだ。

 

単純にいうとこんな感じである。

好きな人に好きな人がいた(結婚相手がいた)。嫉妬を松に変えた。したら罪悪感と悲しみが強く生まれた。

これが神さんにより提供される『経験』である。(これは私のツインソウルの経験でもあるな、罪悪感で絶食してたし、意味が分からんほどに嘆き悲しんでいたわ、そういえば。)

私たち人間はここでは終わらない。この経験は次に「罪悪感」と「嘆き悲しむ」という心を組み替えていくことができる。経験を経験とすることにより私たちは『オリジナルの心』を生み出していく。

オリジナルとは、自らが自らの手により生み出した心のことである。

それが『自分が持つ嫉妬の心に負けないこと』でもあるし、『相手を松に変えてしまった罪悪感』でもあるし、『とてつもなく辛いことが起きたときに再び復活する方法』でもあるし。

神さんは経験をくれる。だけど、その経験を活かすか殺すかは人次第と思う。

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題名の『徳の献上』だが、この神さんに与えられた経験から「いかなる答えを導き出したのか」が経験になる。単純に、この経験から心で何を学んだのかである。それが「嘆き悲しむ」とか「罪悪感」。

たとえば、このとき、人のせいにしていると経験を経験として成立させることができない。悲しむ理由は相手のせいだ、とか。罪悪感を人に押し付ける、とか。そうやってると自分の経験を経験にすることができない。

人のせいにしない人生がなぜ重要なのかというと、経験を経験にしていくためには人のせいにしない必要性があるから。(人のせいにするとは、自分の経験を相手に渡すってこと。)

また経験による答えを導き出したとき、その答えが「自分がどう生きるのか」の回答であるとき。また、それが知性ではなく、心の強さであるとき、その回答が心の徳となる。

徳ってなんじゃっていうと『心』のことでもあるんだが、何度も何度も練り上げていくことによって錬金されていく(強くなり輝いていく)ことにより、鍛え上げられた心が徳と呼ばれているものである。

徳が高いとは経験を経験とした数が多いということ。感じたり思ったりしたり、傷ついたり悲しかったりしたことも全部ひっくるめて背負い、その心を自分の糧にしてきた人たち。それは人のせいにしないことにある。

 

で。

この経験を一区切りで終わらせてから神さんにあいさつしにいくと神さんが「なんかくれる」から、それをもらいにいくといい。

神さんへの供物として一番に喜ばれるものが徳の献上なんだ。

私の感覚だと、経験した内容の中にある『悲しみ』による経験とかは、ほとんど再び経験しないようにしてくれたりは大前提でもあるんだけれども、それ以上に「ご褒美」があるんだ。人それぞれ違うと思うんだが、そのご褒美をもらいにいくといいと思っている。

上記のギリシア神話での経験の徳は『松』だと思われる。

花言葉が分かりやすい。「不老長寿」かな。心が若々しくいられる徳ってやつかな。w

たぶん、この経験をしたときの年齢から、歳をとらなくなるともいえる。見かけが若々しく維持される。同年代の人よりも一見若いと思われる。

花鳥木は神さんだから、これらにはそれぞれ徳があるんだ。どの徳がもらえるのかは人それぞれの経験により違う。

 

私は最近ヒヤシンスの徳もらったやつは、買ってきた赤いヒヤシンスの球根からピンクのヒヤシンスが育っている。

赤いヒヤシンスはヒュアキントスの経験から『嫉妬』なわけなんだが、ピンクになると『しとやかなかわいらしさ』になっている。(ヒヤシンスの徳は嫉妬からの解放なのだと思われる~)

嫉妬しない人はおしとやかなのかもしれない。

ほかにもいくつも徳いただいているけれども、ひとつずつ解明していくには神話を分解したりする必要性がある。