報告|大事な人ほど距離を置かなければならなかった。(絶対的孤独者と相対的孤独者)
『さびしい』という気持ちを受け入れて、そして、絶望を抱えた私。
絶望が抜けた後、いつかまた友達と離れなきゃいけないんだろうなって思っていた気持ちが解消され、
「あ、いっしょにいてもいいんだ。」
に到達した。
大事な人ほど距離を置かなければならなかったし、大事な人ほど「さよなら」をしなければならないと思っていた。
いや、個人的には思ったこともない感情ではありますが・・・・・・。ツインレイの彼がどうしてこんなに距離を置かなければならなかったのかの理由がわかりました。
いつかは離れなければならない。
いつかはさよならを迎えなければならない。
いつか、別れがやってくる。
だから、距離を置かなければならない。
一歩踏み込んでしまえば、自分のなかにあるさびしい経験を再びしなければならなくなる。
これがツインレイの彼の心理でした。
私が思ったこともないことですし、感じたこともないこと。
そういえば、彼は友達との死別なども経験していました。深い関係性になることを控えてもいるようでした。
別れがさびしすぎる。
私は『さびしい』という感情を抑圧して生きてきました。
私は私に「さびしいという感情を、誰かで埋め合わせてはならない」という主義的なものです。
さびしいからといって、誰かを自分の感情の埋め合わせの道具に使ってはならないということ。
だから私は、不安とか寂しいとかの感情的な動機で行動することがありませんでした。
私は「さびしい」という感情を抑圧しきり、捨てたのだと思います。
しかし、捨ててはいるものの、私のなかにさびしいという感情が常に存在していました。
抑圧し、認識しなくなった——というのが正解だなと思います。
私がツインレイの彼に出会う前「さびしい」と思い、泣いたのは、もう抑圧しきれなかった瞬間でした。
そんな私に共鳴した彼は、私と同じ分だけのさびしさを抱えている人だったんだなと思います。
そして、もうひとつの到達点として『絶対的な孤独者』としての存在があるかと思います。
私はとてつもない実存主義者だったものですから、自分の人生の決定権を常に自己に持たせました。すべてにおいての責任を自分で背負うと言うことです。
そして、人に合わせても生きてきました。人に合わせることは、ある種ひとつの流される行為でもあり、結果、どのようなものになったとしても、人に合わせたのは自分なのだから、そのすべてを自己責任としました。
人には2種類の責任があると思います。
ひとつは『自分の人生の責任』です。もうひとつは『人に影響を受けた自分の人生の責任』です。
前者はわかりやすいですが、後者はわかりにくいかもしれません。
親に育てられ、影響を受けた自分の人生。そして、人に合わせていく経緯で『合わせているのは自分』であり『流されている』わけではありません。
ときおり、その先に「よからぬもの」が視えたりもする先見があったとしても、「合わせること」に意味があるとき、私は「じゃあいっしょに地獄に行こう」と思い、合わせていました。
自分が誰かに合わせた責任すらをも、すべてを背負いました。
つまり、この人生においての『決定権をすべて自分に持たせた』ということです。後者においては特に人のせいにすることですら、私は人のせいにすることがありませんでした。
これを『実存主義の自由』とします。
自分の人生を自分で決定していくことが実存ならば、人からの影響ですら私は自分で決定してきたと言葉にしている。
影響を受けるのか、受けないのかを私は自分で決めているのです。
この生き方は、絶対的な孤独者となりました。
自由の裏側には常に孤独が付きまといます。それは自分で自分の人生を決定づけるからこその『自己責任という孤独』です。
自分でしか自分の人生を決定づけることができない、この人生を生きることは孤独です。
私はそうやって絶対的孤独へと到達し、そのときの私には「さびしさ」がこみあげてきました。
さびしくなりました。
抑圧してきた感情もそうですが、もうひとつの側面として、人が人生を歩むうえで「すべてにおいて自分ですべてひとりを決めて生きていく」という孤独です。
その孤独が完成した瞬間が、さびしいと泣いた日です。
それまで孤独感を感じることは度々ありました。ああ、消えいりそうな日だな、と思う日もありました。
それでも、私は孤独を友達だと思っていました。その孤独は『私が私の人生を生きている証拠』でもありました。
ですが、私が私の人生を、自己決定において生き続けていった先にあったものは『究極の寂しさ』でした。
私が「個として生まれてきた存在」であるさびしさです。
私が私の人生を生きているさびしさです。
私が私であるがゆえのさびしさです。
自分で自分の責任を全て背負っているさびしさでもあります。
私は、私であればあるだけ、私が私の人生を歩むための自己決定は常に孤独を極めて生きました。
これは、私の人生を支配することでもありました。だから、私は私を支配しています。私を他者が支配しようとすることをも受け入れている穏やかな支配者です。
私は私の人生を『生きている』実感のある人でもありますが、同時に強烈な孤独を抱えていました。
これが私の『さびしい』におけるお話です。
私は、絶対的孤独への到達性と同時に、ツインレイに出会いました。
さびしかったからです。
彼が抱えているさびしさも同じだけの大きさのものだったのだと思います。
もしかしたら、彼は私が持つ『絶対的な孤独者』としてのさびしさを今、理解したかもしれません。
人はさびしい生き物だと思います。
だから繫栄しようとする。共にあろうとする。
私がツインレイを呼んだのは、さびしかったからです。
そのさびしさに寄り添ってくれる人が欲しかったのかもしれません。
しかし、さびしさを埋めてくれるわけではありません。
私たちは孤独です。独りです。
私たちは、生涯において独りであることには違いなく、しかし、二人になることはできる。
ツインレイは独りを埋め合う関係性ではなく、二人となり、共に人生を歩むパートナーなのだと思います。
独りのさびしさを自分で引き受け、自分で埋めようとするときの私たちは創造的でした。
そして、その創造性は多くの人を吞み込みます。
人には必ずさびしさがあるからです。自分の人生を生きようとすればするだけ、人のなかにはさびしさが生まれ、そのさびしさのために創造をすれば、私たちは必ずシンクロニティ―を起こします。
このとき、私たちは少しだけ宇宙の母体に還り『ワンネス』を感じます。あなたの創造とひとつになれます。安心します。
しかし、私たちは二人です。そして複数人です。多数大勢です。それが現実です。
感情を補うことは出来ませんし、さびしい気持ちを消すことも出来ません。
ここにさびしい気持ちはずっとあります。
ずっとここにあり続けているさびしい気持ちを抱えて生きているのが『人』だと思います。
だから、人はさびしい生き物なのだと思います。
そして、さびしいからこそ、私たちは群れています。
家族を作りましょう。
さびしくならないためではありません。誰かで心の穴を埋めることは出来ません。
さびしさはいつもここにあります。
だけれど、みんながいることを忘れないために、家族をつくります。
共に生きるために、パートナーを欲します。
あなたがあなたの人生を生きるさびしさを恐れずに生きるパートナーを欲します。
私は絶対的な孤独者ですが、彼は相対的な孤独者だったと思います。
私は「私であるがゆえに孤独」ですが、彼は「誰かがいるがゆえに孤独」です。
私は自分軸によるさびしさですが、彼は他人軸によるさびしさでした。
私は他人軸によるさびしさを、サイレント中に学びました。
ずっと「彼がいるから、私はさびしかった」のだと思います。
絶対的な孤独は内側から自己破壊を起こすようなさびしさですが、相対的な孤独は外部から破壊されていくような感覚がします。
私はツインレイにより外部から破壊されてきたのだと思います。ですが、私は、その破壊を迎合した人なのだと思います。
だから、内側からの破壊と、外側からの破壊の両方を経験しているような気がしました。
つまり『全破壊』です。残るものはたったひとつだけの『心』です。