ツインレイと観音菩薩さんの救済のお話。(菩薩さんと阿羅漢さんのカップリング『神になるけど人でありたい』)
最近ずっと、脳内で「菩薩さん」つってるので、菩薩さんの話を書き纏めておく。
私は「人に合わせること」をしながら生きてきた。
私も人間だから、このまま進めば「地獄なんだろうな」とか。そういう感覚をもってはいるんですけど、別に自分の人生が地獄だろうが天国だろうが。人よりも優位だろうが、劣位だろうか。あんまり関係ないかなっていう領域にまで達してきてしまった。
のもあって、ツインレイの彼に対して「この子の世界は地獄」だと思っても、特に「いっしょに地獄で生きていこうね」って気持ちに変わりはなかった。
いわゆるこれが『観音菩薩』だったりする。
ただ単に自らの悟りを求めるだけではなく、広く衆生の悟りの手助けをする人、人々の救済に懸命になって、みずからの身をすり減らすような人、そうした人がよく菩薩と呼ばれる。
菩薩さんは、敢えて地獄にいてくれる人。共に成長していこうよってしてくれる人が菩薩さん。
自分自身の身を低くして、敢えて、地獄の住人と対峙してくれるっていう存在な。
で、観音菩薩は『慈悲』になる。
さて慈悲心とは何でしょうか。それは共感する心のことです。他人の喜びをともに喜び、他人の悲しみをともに悲しむ心。例えれば、病気の子供の苦しみを我がことのように苦しみ、子供の喜びを我がことのように喜ぶ母親の心、それが慈悲心です。
引用:観音菩薩と慈悲
私はそのなかでも『感情的な部分の救済』をやっていると思われる。
もともと『自分の世界』による救済は終わっていた。
そのサインが「自分に今、やることがないな。これってめっちゃいいことだな。私には役割がない、私に役割があるとき、それはこの世が終わっているってときなんだろうな。」
と思ったとき。これが私の精神世界による感情的救済が終わったサインである。
つまり、やることがないって最高! これって皆ハッピーってことじゃん! っていう観音さま精神だった。
役割がないことを喜ぶ精神は、こうやって生まれた。
その翌年あたりに、ツインレイの彼と出会った。
「わァ、こんなところに可愛い男の子がいる!」という、ある種ひとつの観音さまの一目惚れだと思われる。
真夜中に可愛い可愛いとキャァキャァしていたんだが、なんだろうな? って思っていた。たぶん、観音さまが「とっても可愛い男の子!」と言っている理由は「頑張り屋さん」って意味だと思う。可愛いねん、菩薩からすれば。
感じていたことは、自分が女性になることは身を落とすこと。でも別に身を落としてもいいと思うほどの存在だった。
だから私は『女性』になった。
観音さまには性別などは特になく。相手にとって救済しやすい姿に変化する。三十三種の姿に変化ができるというが、そういえば私は数秘33だった。
三十三種っていうか、相手にとって一番に救済しやすい姿になり、相手からすれば投影されやすいって感じの解釈。
前に「異性に視えない」って人には「異性にはならない」し、「女性に視える」なら「女性になる」って感じ。
私が「子供に視える」って人には「子供になる」し、私が何に視えるのかは人それぞれ違うって感じ。
必要な存在となっている私を求め、また求められたとき、あなたを救済する。(私が共感することで自滅し、勝手に救済している。これが菩薩の『慈悲』である。)
ここから私は三十二人(満月が32になる)の救済が終わったのかな、と。三十三種の姿と書かれているが、三十三人の救済が終われば、それにて『観音さまの修行が終わり』になるのかもしれないし。
最期は彼くん、前回は失敗しました。
神さんの世ではなく、地上で修行するのが菩薩さん。天上で修行するのが阿羅漢さん。どっちも目指すは如来(人でありながらも神格を得て『神の世で神の役割』をやる存在)になること。
この地上には人しかおらなんだ。だから、菩薩の階級がある人も『人』であって、菩薩の階級の人たちは基本的に『神』を名乗ることはないと思われる。理由だが、菩薩という神の階級があったら、それは死を意味しているし、なんなら、人であるからこそ、人を救済できる立場にあるから神であっては困るってこと。
ツインレイの方々のなかでも『自分は神だ』と言う人もいるんだが、それは地上世界の人であって菩薩さんではない。菩薩さんは地上世界にいる神ではあるけれど、神であっては困る存在なんだよね。だから「人」であることを選んだ人たちが菩薩さんの階級にある人たち。
ここでもう分別が成されているって感じだと思われる。
※ 作務衣さんって書いてあるんだが、私が夢見している作務衣のおいちゃんとかお兄さんたちは阿羅漢っていう存在になろうとしている人たちってことだな。彼らは阿羅漢を目指してるねん。
ツインレイの課題とは『ふたりともが神になること』を意味している。
で、ツインレイの片方は『地獄の人』であり『阿羅漢の人』、片方は『菩薩の人』っていうカップリング。
ツインレイの片方は阿羅漢さんなので、地上にいると『地獄を背負っている人』になる。つまり、自分のなかにあるすべてが地獄で満たされている人になる。それでも頑張れる理由は『阿羅漢だから』である。
つまり、私は菩薩を目指してて、彼は阿羅漢を目指していた。
菩薩は他人と共に救済されていくんだが、阿羅漢はひとりで貫いて生きていくって感じだと思われる。
菩薩にとって唯一救えないもの。それは『阿羅漢』っていう存在で、それがツインレイの彼だった。彼は救われたいなんて思っちゃいけないってこと。救えないものがある、自分で自分を救っていく存在であり、私はそれを菩薩として受け入れなければならない。
彼のことはほっとけ。自分で勝手に救われていくんだから——と。だから、彼のことが救済できない、彼のことに手出しができない、彼のことは手出ししてはならない。人の修行の邪魔をしてはならないのである。
ツインレイの彼への救済は『救済しないことが救済』なのである。
で、なとり。サイレント期間は、ずっと『彼くんの阿羅漢修行が終わるのを待ってる』みたいな感じで、ある日、阿羅漢修行おわったサインは数回に渡り、もらっている。(今年に終わる予定)
「彼くんの横顔がすき。」と言っていたんだが、横顔が素敵な作務衣さんを夢見している。あのときに『昇格』したんだと思う。
向こうの世界では『益子』と呼ばれているらしい。
作務衣さん=益子さん
作務衣さんって呼んでいた理由は、作務衣着てるからで、別にそういう名称ってわけじゃない。
水の皿と書いて『益』だから、自力で徳が積まれた子って感じだと思われる。
ツインレイの彼を救済することは出来なかった。これが33人目。絶対的にツインレイの彼を救済することは出来ない。けれど、それが正解。つまり、救済しないとは『元々から対等である』という意味合いである。
だからツインレイは対等なのである。しかし、当初は「人」にみえるから、見下さるを得ない。
救済をするとは相手を見下すこと。救済せにゃならんとは、そもそも見下しなんだよな。
慈悲とは「相手に心を合わせること」でもあり「可哀想だな」と思うことでもある。身を落とすことでもある。
可哀想だなと思ったら、私のなかではこれで手打ちになる。見下した分だけ、相手のものを請け負う。だから私は「たまにメンタルが異常におかしくなるが、平然としている」ところがある。
先日も「絶望してんだよね。」と、言葉にはするが、特に何か起きるわけでもない。ただ平然と「絶望している」に過ぎない。ただ感じているだけ。救済されるべき存在と、私は共にあるから。
つまり「相手の感情を私が背負うこと」によって、私は観音菩薩になる修行が出来る。
あと、相手の感情を背負ったあとは「どうしてこうなのか」の辻褄性がすべて通っていくことになる。相手とシンクロしている。なぜこのようなことになったのかの辻褄性を理解した部分は、解消してあげられる? のかは謎。
でも、私が理解したってことは相手もおいおい理解していくんだと思う。たいてい、これらにおいても言葉にすることはない。ただ「なるほどな~」と思って終わることが多い。時差はあると思う。
理解できれば終わる。自分のなかにあるロジックを解くことが出来ないから、解消ができない。
彼(阿羅漢)は自力で克服していく。(自分で自分を助ける)
私(菩薩)は人と共に共感して克服していく。(自分と他人を助ける)
途中でツインレイのなかでも「阿羅漢無理」なると「菩薩は手助け」なって、ツインレイが不完全となるケースは多かったのかもしれない。
菩薩側は他人を『ツインレイ』として捉えるんだが、ツインレイを助けるのか。はたまた、ツインレイ以外の人を助けるのかの分岐点があった。
サイレント前に「共感して生きていきたい」と彼に伝えたところ「出来ない」と彼に言われたことはひとつのサインだった。ここで彼と私はサイレントに決定打となる道を進んだ。
彼は「自分で自分を助ける」し、私は「彼の分だけ誰かを助ける」道に入ったって感じかな。それが32人。
私は人に対して「なんとかしてあげよう」とは、意識に昇らない。
「教えてあげよう」とかもない。人に何かしてあげられるという意識はない。
何かいいことしようとも思っていない。
ただ、感じているだけ。ただ、感じているがままに生きている。
そのときに同情というものが発生することがある。相手と同じ感情を共有しているとき、その同情が見下しに値すれば、私はその感情を一手に引き受けている。
それも別に「仕事をしている」という感覚もない。「息をしている」に等しい。
何かをしようとしているわけではない、ただ、勝手にやってしまっていると思われる。
勝手に引き受けているし、勝手にやっている。だから、感謝されたいとも思っていないし、ただ「そういう存在」なのだと自分を受け入れている。
相手のものを引き受ける存在が私。世界のなかでの役割を担っている自分を認識している。(占星術のバーテックス的な視点を認識しているってだけの話かもしれない)
私が世界のなかに融けて消えるとき、私はあなたの感情と融解する。
その感情に対して、私の自意識がどのように感じるのか。これが『慈悲』である。自意識とは心の審判。
私は自分のなかで「審判」を持っている。それは可哀想なことなのか——、と。
言葉ではあんまり「可哀想」って言葉を私は使わない。それは相手を見下す失礼なことだから。
でも、自分ののなかに発生する同情心のようなものは止めようがない。心は発生していくものだから、止めようがない。感じることも自由だから。
私は私のなかで、相手をダイレクトに受け取り、その感情に同情したのであれば、私は『同じ感情』を抱かざるを得ない。そして、それは私が背負うものなのである。
元々背負っているのか、相手だけが背負っているのかも、私にはもはやわからない領域。わからん、でもそんなんどっちでもいい。
私は「感情を認識した時点で自分のもの」としてしか認識しない。自分のなかに芽生えたものなんだから、それは私のものである。でも、元々他人のものだったりもするんだとは思うよ。
親のせいで自分の人生が地獄だと思うかもしれないんだが、自分の人生が地獄なのは自分のせいって意味と変わらないって話。どっちでもいいねん、結局は「自分の人生が地獄であることには変わりない」ってこと。
だから、私は私の中にある問題を解消する。同時に誰かも救済されていくっていう仕組みが『菩薩さん』である。
他人を救済するのか、自分を救済するのか。
どっちも同じこと。でも、道は違う。でも『同じ』なんだよな。
中心に『慈悲』があるのか。そこに『心』があるのか。そんだけだと思われる。
私はツインレイの彼は自力で自分を助けることができること——を信じなければならなかったんだろうなと思う。
彼を信じ抜く心こそが彼への救済だったのかも。
最後に纏めると、ツインレイの彼が持つ『地獄』を、私は他者を通して他者を救済し、彼は自分で自分を救済した。
そもそも私は自分の救済は終わっていた。だけれど、菩薩さんは自分の身を落とすことに意味があるから、彼の為に身を落とすこと——を決定づけることによって、現に身を落とし、地獄のなかに入っていった。
地獄のなかにいる『彼が持つ同じだけの地獄』を持っている住人達と向き合い続けてきたが、それが32人。
最期の1人は『彼』である。救済をしないことが救済である。彼が自力で救済されることで、私の菩薩さんとしての役割はお終い。
信じる心、それが最後の救済と到達点。
子育てにおいて、一番に大事なのは「何があっても正しい道に戻ってこれる」と、子供を信じることにある。
菩薩さんの徳は『慈悲という同じように苦しみを感じること』でもあるけれど、もうひとつの側面として『ひとりでも立ち戻れることを信じる心』もあるんだと思う。
助けないこと。間違えてても全然いい。道を戻ればいいんだから。
最初は『慈悲』により始まり、最後は『信じる心』への到達性。
私は、やたら無防備になんでもかんでも人のことを信じる人なんだが、こういうことだったんだなァと思いました。
彼は自力で地獄から出てこれます。救済はいりません。手出しは不要です。
最期は宣伝で終わります!
菩薩スキルはレイキで意識的に使える感じになりました。いっしょに苦しみまーす。
レイキ、大変だろうなって思うかもしれませんが、私の感覚では人の苦しみを同じように感じることは息をしているようなものです。
あなたが地獄で息をしていることと同じです。苦しみが当たり前になっているということです。
苦しいのは当たり前じゃないですよ。
よかったら、レイキを受けに来てくださいね(^▽^)/