私が一番に認める(認識する)ことが出来なかったもの『ツインレイ』

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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どうしてか、自分のなかで「ツインレイであること」を認めることが出来なかった。そして、ツインレイとは何なのか——についてを理解することも出来ていなかったし、その定義がそもそも出来ないことから、ひとつ放棄してしまった思考。

今回、私のなかに存在している霊体。この霊体をたぶん、世の中の人は『魂』と呼んでいると思うんだが、この魂を自覚したとき、どうにも目を背けたいものがそこにあった。

それが「ツインレイ」である。

一日、ぶらぶらと散歩したりして、なんとか書くか——と決め込んだ。

今もまだツインレイが存在しているとか、自分がどうなのかとか、そういうもやもやが自分のなかにくすぶっているんだけれど、たぶん、これが私が理解している範囲の、そして、私が納得しうる、私の体感のもとに導き出されたこと。

この答えをどうしてか受け止められなかったのは、霊体を自覚しきれなかったことがあげられる。

今は、この霊体を自覚したがゆえに、理解ができる次第。

過去にも、細々と私の視たものについても書いてきたんだが、今回は、すべての糸を通して書いてみよう。

 

ツインレイ。これが魂の双子と言われている。確かに双子ではあるのだが、元々はひとつの魂であること。

これは確かに双子であると言える。元々はひとつであったとも、確かにそうである。

しかし、これが『魂』と呼ぶには少々『核』のようなものがない。だから私は、魂ではなく、霊体と呼んでしまいがちだ。

 

私は、元々タカミムスビのお父ちゃんのなかにいた。これはひとつの魂として、浄化される過程において、神さんのなかに宿らせてもらう過程。私も度々生霊とかもらうと私のなかに匿って浄化してしまうのと同じことかなと思う。

お父ちゃんの中で浄化されるなか、お父ちゃんが何をしているのかを中から視ていたし、お父ちゃんがどのような感覚を味わっているのかをも私は同じように感じていた。

お父ちゃんは丸い映像がみえるスクリーンからこちらの世界を覗いてみているときがしばしばある。そして、お父ちゃんはこの地球の人たちと同じように感じている。そして、どんな精神でさえもを受け入れている。

それが憎しみだろうが、それが人が忌むような心であろうが、どんな精神であろうが、お父ちゃんは同じように感じていた。

 

私は、お父ちゃんの口から外に出され、その際に、ふたつの霊体に分離させられた。その過程は、子宮のなかで一卵性双生児として生まれる双子である。へその緒で繋がっている。

私たちの意識は交互に交代しながら「大好き」って気持ちと「大事にする」という気持ちのふたつに分離した。

ひとつは大事にするって思う方を大好きって思ってて、ひとつは大好きって思う方を大事にするって思ってる。これぞ、相思相愛である。そして、交互に交代したことから、大事にする方は、その前に大好きって気持ちを覚えている。

でも、大好きって思う意識は、小さな、まだ未熟児だった。

大事にする方は、普通に育ったんだが、大好きの方は、未熟児でまだ目もあかないままだったし、それでも、その未熟児の魂を私は大事にすると決意して抱っこしていた。

つまりなんだが、私の魂は、こうやって分離していたし。それは霊体としての双子と呼べるものなんだと思う。

そして、この分離した霊体の双子として、でも、一方は未熟児のまま、地球に落とされた。私は向こうの世界でお父ちゃんのもとにいたんじゃないかなと思っている。

地球に落とされたのが、つまり、私のツインレイである彼である。彼は未熟児で、まだ目も開かないまま、へその緒を断ち切られ『地球に捨てられた』わけである。

だから、彼は先にへその緒が切れているからお兄ちゃんなんだけれど、私よりも未熟児な霊体。だから、私は「お姉ちゃんフフン」ってちょっと偉そうにしていることがしばしばある。でも、本当はお兄ちゃんに甘えたい、それが私の霊体。

 

私はこのツインレイとして生まれた経緯の記憶を取り戻している。

そして、いくつか分かることもある。

ツインレイはすべての人に存在している。これについてはイエスともいえるし、ノーとも言える。

ツインレイはすべての人に存在しえる可能性を秘めている。このように言葉にするのが明確かと感じる。

というのも、ツインレイとして分離する前に「ひとつの個体が二極に分離する必要性」がある。二極にふたつの意識をひとつのなかに存在させるとき、私たちはツインレイとして分離させることができる霊体となる。

これは誰しもに可能性があることだし、誰しにもなせることである。しかし、誰しもに現在、発生しているとは限らないことから『可能性を秘めている』という言葉が一番に明確だと感じられる。

 

魂の双子であるツインレイに出会うと生じることは、たったひとつのこと。分離不安と分離の苦しみを再び体感することにあるが、これは結合双生児が分離した際、分離不安により、突如、猛烈な恐怖を感じることとよく似ているような気がしている。

これはもうすべて私自身が体験したことから書いていく。だから個人的な見解にある。

魂の双子というものに出会うと『自分だ』ということを理解も出来るし、相手を『自分のことのように扱う』こともあるし、なんなら、自己投影ではなく、自我投影を起こしてしまう現象を起こす。

つまり、自分と同じように思っているのが当たり前だし、自分と同じ存在だし、自分がそこにいるという体感をする。

自己投影とは、自分自身を他者に投影するが、それは『他者』という認識があるんだが、ツインレイの場合は「自分がいる」という体感がある。

自分がふたりいる感覚がある、これがツインレイ。

しかし、これだけで「ツインレイだ」とは言い切れない。なぜならば、ツインレイかどうかについての確証は自らが実感し、経験し、それが自分の妄想ではない証明をせねばならない。

この『自分』を目の前にして、私たちは、どのように接するのか。それが私の場合、上記の通り「大事にする」という気持ちのままである。私は霊体として彼を大事にすると決めている。それは、私の霊体からすれば、たったひとりの家族であり、たったひとりの唯一の存在に他ならない。

そして、その存在を失った苦しみも存在しているし、もう二度と失いたくないという気持ちもここには存在しているんだと思う。

再び出会えた双子の感動というか。そういうものを体感したような気がする。

とはいえども、霊体だからこそ『同一化』を起こしたかなと思う。100%の共依存状態になると、私たちは『結合』という状態になる。

多くの人たちがツインレイは最終的に依存を抜けば、統合すると言う話をしているが、私は、共依存状態が結合(統合)として定義するのが正確ではないか——と思う。

なぜならば、確かに私は、共依存状態になったとき、彼と結合するビジョンを見ていたし、何よりも、私自身が彼とひとつになることを望んでいたからだ。

 

しかし、ひとつの大きな壁が立ちはだかる。

それは、私たちはもう既に別々の存在であることである。

既に私たちは、別の存在であり、別々の個体であり、ともにひとつに戻ることなどできない状態になっていたこと。

それは、私たちが『個』であり、また、彼は私ではないことを理解してしまったとも言える。

一度分離したものは再び結合することは出来たとしても、融解することはない。統合することは出来ない。

私たちの精神もまた、自己として定義して分離したものは、結合を果たすことがあっても、統合されることはない。

元々、ツインレイの統合理論には、問題発起してきた方だとは思うんだが、実際、この統合を果たすことができないことを明確に理解してしまったのが私である。

そして、彼が私ではないこと、私と彼はひとつに戻ることが出来ないこと。この理解を霊体自体が、もしくは私自身が理解せねばならないことだった。

 

双子であるからこそ、私たちは、互いに分離した別の個体であることを理解せねばならなかった。

だから、私は彼と自分は別の個体であることを明確に理解しながら、彼と私とのつながりを断った。

彼と私は霊体としての家族ではあるけれど、双子ではあるけれど、統合することも、結合することも、そんなことは許されず、私たちは別々の人生を歩み、別々の人格であり、別々の存在であることを認めていかなければならなかった。

この過程を踏むのに、先ずは私たちは『100%の共依存状態』を生み出し、これを、結合(もしくは統合)とし、この状態から分離させて自立する経緯を経て『魂としての個』を明確にさせる必要性があった。

 

認識としては、魂の双子だからといっていっしょにいなければならない理由はない。魂の双子だからと言って結婚しなければならないわけではない。しかし、家族であることには違いなし。

こんな感じだろうか。

でも、依存があるとき、いっしょにいなければならない。いっしょにいるのが当たり前。そんな感覚が付きまとうのだ。

 

最終的に、私自身が行き着いているところは、愛している事には違いない。ただそれだけである。

魂の双子であること。それを認めるまでに数年の月日が必要とされたが、最終的な結論として、家族として。双子として。彼を愛していることには違いない。

どんな状態であろうが、私は彼を愛している事には違いないし、私と彼が結婚しなくたって愛している事には違いない。

ただ、ここに霊体の双子として存在し、彼のことがこれから先も大事であることは変わらない。

 

この経緯でもし、何か『学び』というものがあるのだとしたならば、

ただ愛している気持ちがここに存在していることである。

ただ、ここに『大事にする』って気持ちが存在していて、その気持ちが『ある』ってこと。

それを認めるだけでよかったし、それが私の霊体なのだということ。

それが「彼だけ」に向かっていたとき、それは依存になったし、その後、執着にもなった。

だけれど、依存と執着が立ち消えて自立しきったとき・・・・。つまり、今だけれど。

今は、ここに『大事にする』って気持ちが存在していることに意味がある。

それは彼だけに向けられるものではなくて、私にも向けられているし、いろんな人にも向けられていると思う。

いろんなことにも、いろんなものにも『大事にする』って意識がむけられていて、その大事にするって気持ちをすべて『彼』にだけ向けているときには問題が生じやすかった感じだろうか。

それが霊体としての未熟であり、霊体が双子であることへの依存があったのかな? と思う。

 

つまり、霊体が『双子であること(双子に対して)に執着してしまう』こともあるってこと。

それは『自分の人生についてどのように感じているのか』ってことなのかな? と思っている。

この人生に対して『自分』が育っている人たちは、双子に対して、双子である対象者に対して依存する必要性もなければ、執着する必要性もないのである。

そして、ツインレイとして発生して間もない個体は、自分が育たない。なぜならば、霊体そのものが『個であること』を許さないから。霊体は双子であることを望んでいるから。

 

私はツインレイに課せられている課題は『自立』だと思う。

それは、霊体が持つ『双子の共依存』からの脱却が求められていると思う。

霊体の双子の共依存から抜け出したとき、私たちは、人としても自立を果たしている。

 

総括して、私は、ツインレイは出会うと共依存状態になって結合する。でも、その後、分離して自立に向かうのが霊体の成長だと思われる。

私の場合、彼くんの霊体が未熟児だったのもあって、なとちゃが守るんだ! って思ってたし、とっても可愛いって思ってて、こう・・・・・双子の相手に対して、とても愛着がある霊体だったのだと思われる。

まァ、家族思いの霊体なんだと思いまする。

でも、彼くんに私は必要がないし、私の手助けはいらない。霊体としてもそれを理解しなくちゃいけなかった。

愛していたって言葉にするには、とても未熟な愛だったと思うよ。それでも、私の霊体が心底愛していたのは、本当にツインレイだと思う。

でも、ちょっと違ったね? 愛し方を間違えたね。それもまたひとつの事実。

 

そして、私自身が一番に認められなかったものが「ツインレイ」であること。

霊体ではなく、意識側の私がツインレイを認めることが出来なかった。

それは、私が『霊体』を認識していなかったからだと思う。

 

ただ、ありがたいことに『結合』を起こすことが出来たからには、彼と私がひとつだったときの記憶を取り戻し、分離したときの記憶も取り戻せている。

他にも色々と、全盛期(一個のときの記憶)も取り戻している。

それでも、結合を断ち切るのは、私と彼は別々の個体であることを認める必要性があるからである。

霊体の双子だからと言って、いつもいっしょにいる理由はないし、結婚しなければならない理由もない。

ただ、出会えてよかった。

私の半身である霊体を持つ人に出会えてよかった。

私の霊体の家族に出会えてよかった。

私と彼の縁は、たしかに、私の霊体と彼の霊体が双子であるからこそ、結ばれたものだった。

ツインレイ、それは私と彼の縁だし、私が一番に認めなければならないものだし、私が一番に認めることができない、認識しきれないものだった。

そして、一番に認めたいものだったし、一番に認識したいものだった。

でも、それができない。

このもどかしい時間を「サイレント期間」と呼ぶ。