ツインレイの共存的関係性によるツインレイの再会の現実の導き出しについて。
前に『ツインレイは罪の押し付け合いができる』と書いたことがある。
罪の押し付けをしたとき、ツインレイの関係性は排他的関係性となる。しかし、自己責任とした場合、ツインレイの関係性は共存的関係性となる。そのメカニズムについての説明である。
ツインレイ女性(自己)にとってツインレイ男性は社会である。ツインレイ男性(自己)にとってツインレイ女性は社会である。
これが最終的なツインレイの循環図となる。
循環図からツインレイの相手は『社会』であるということがわかる。しかし、この図からは『ツインレイ女性』を社会とし、そして個でもあり、またふたり以外からもはみ出すように『社会』が形成されている。
このとおり、ツインレイのふたりは違いを『社会』として認識しているため、その社会から受け取るものをすべて受け取ることが出来ているのかという問題がある。
いわば、ツインレイの相手とは『人生の形成の要』のようなものである。
ツインレイの相手を受け入れるとは、自分の人生をいかに自己責任をとって生きてきたのかということだ。
ツインレイの自己責任による『共存的関係性』
ツインレイ男性は『環境の自己責任』、いわば、自分の人生の責任を全てとることにより、自己のなかに『男性と女性の共存』を生み出すことができる。ツインレイ女性も然り。
この相関性が生まれることにより、ツインレイたちは『自分の人生はすべて自分の責任である』という自覚を持つ。
その自覚は『ツインレイの相手の責任をとる』ことにも繋がっている。なぜならば、自分の人生=ツインレイの相手だからである。
このとき、ツインレイの男女は共存する。自身のなかで男性性と女性性の共存が生まれるわけだ。
これが正常なるツインレイの関係性である。
現実と精神が繋がることになる。そして、ツインレイのふたりが再会することにより、ひとつの円が生じることになる。
ツインレイの男女が再会する現実世界の出現
ツインレイは『精神』と『自分の人生・環境』の両方を受け入れる必要性がある。そして、その前に『本能』というターンもある。
ツインソウルの段階で『本能』を試される。人としての人生を生きるために、本能に忠実にならないのか——だ。そして、本能的に動いてしまった自分の責任をとることができるのか。
次に、ツインフレームの段階で『精神』を試される。自分の性別による精神を受け入れることができるのか。自身の性質とは何か? である。その性質を受け入れる必要性がある。その性質による自分の責任をとることができるのか。
最後にやってくるのが『ツインレイ』である。
ツインレイは、自分の人生のすべてを責任をとるのか、と聞かれている。また、過去の人生のすべてを責任取ってきたのかでもある。
この段階で、ツインレイの男女は『相手は責任を取ってきたのか』とツインレイの誓約をすることになる。そして、ツインレイが他責とした『本能』『精神』『人生(環境)』のどこかで分離がうまれたとき、その部分で葛藤を生み出すことになる。
この人生がいかなるもので、どのような不条理であろうが、それはすべて自分の責任である。この自己責任があるとき、ツインレイの相手による性質を受け入れることになる。
つまり、ツインレイの相手が自分の人生の責任を持っている存在ゆえ、ツインレイの相手から責任を譲り受けるのである。
そして、自分の人生の責任をとる人から『現実』を生み出すことになる。
現実とは何か。ツインレイの相手と自分により構築される世界である。
私たちが今まで『現実』として捉えていたものは本来の現実ではないってこと。
それがなんなのかを私はまだ机上の空論でしか語れない。
だけど、ツインレイと出会うまで私たちは『自分の人生』しか見ることが出来ないような視野の狭さがあるけど、現実にまで至れば、ツインレイの相手の人生まで見ることができる。
自分の人生を通してツインレイの相手をみるような偏った思想を持つことになる。私たちは他者に対して『盛大なる誤解』をし続けているということだ。もちろん、ツインレイの相手にまで誤解をしているだろう。
しかし、ツインレイの再会をむかえる段階で見える現実の世界とは、ツインレイの相手を自分の人生を通してみる世界ではなく、ツインレイの相手からみえた人生をみることもできる。
これが共存である。相手へ最大なる尊重をするために、私たちはツインレイの相手の人生を知りたいと思っている。しかし人には『人』としての限界がある。自己視点を超えることができない。
相手の視点にたってモノを発言しているようで、私たちは自分の視点に立つことしかできない。そして、ツインレイの相手の『本当のところ』が一番視えないのである。その心を知ることがツインレイの男女にとっては一番ほしいものだったんじゃないだろうか。
ツインレイの男女は大きなすれ違いをしている。自分の視点に縛られているがゆえに盛大なる勘違いを起こしている。
そのすれ違いが解消されるのは、ツインレイの『現実』が構築されることにより、ツインレイの相手の視点を学ぶことにある。
私たちはそのためにサイレント期間で『ツインレイの相手を体現』する。
また、排他的関係性の方々と本音で語り合うと、お互いに勘違いをし続けることになる奇妙な状態となる。
自己責任と他者責任による関係性は今まで他責の人が自責の人に責任を押し付けるようなカタチで関係性が構築されていたが、これからは自責の人は他責の人から責任を押し付けられなくなる。
自分の責任を『なにか』押し付けた瞬間、自責の人は無自覚ブーメラン状態になるようだ。
自責の人って否定を肯定する(否定している内容を同調して否定する)んだが、その肯定が他責の人には否定に捉えられる。認識が反転していく。
っていうのは、自己否定を他責にしているから、その対象を否定することを肯定したら自分自身が否定されているも同然ということ。
そんな排他的関係性を構築することになるツインレイを以下の通り、説明書きをしておこうと思う。
ツインレイの他人責任による『排他的関係性』
反対に、ツインレイである環境や社会、他者に対して、自分の人生の責任を押し付けるようなこともある。
そうした場合、ツインレイの相手に対して『責任を押し付ける』というような状態になる。
このとき、ツインレイの男女は排他的関係性となる。ツインレイの相手の責任を自分はとらないというカタチになる。
他人のせいにし続けている、社会のせいにし続けている限り、それはツインレイの相手が悪いといっているも同然である。
排他的関係性を構築する為、ツインレイの男女は輪が分離する。
片方は現実による男性性と女性性を担当し現実による葛藤を持ち、片方は精神による男性性と女性性を担当し、精神による葛藤を持つことになる。
『自分で自分の人生の責任を持てない』側と『自分で自分の精神の責任を持てない』側となる。
人生の責任を持てない側は『人生の責任をとる人生』へと入り、自分の精神を持てない側は『精神の責任をとる人生』へと入る。
最終的に、すべての責任をとる覚悟を決めた人からツインレイの再会へ進むんじゃないかなとは思っている。代わりに人に押し付けたものをすべて『自分で背負いなおす作業』が必要ではないかと思う。
だけど、私はこれも自由なんじゃないかとは思っている。やりたきゃやればいいし、やりたくないならやらなきゃいい。だけどもう『人のせいにした人生を送るには苦痛すぎる人生』に入り始める感じ。