報告|ツインレイの再会のステージが終わりっぽい話。

2024-02-25

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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「もう時間は戻らない」。

この事実が悲しくて泣き続けていたが、最終的には『再会を望んでいる自分』を手放していく経緯だった。

再会できることに期待をすると再会が出来なくなる。理由は『再会しない世界線』に乗っかるからである。

その先にあるのは絶望で、期待した希望ある道は妄想である。

図の説明:再会が出来る期待により再会できなくなり絶望する

希望(妄想)により絶望が生まれ、私たちはその道を行く。つまり私たちは私たちのなかに『妄想という未来』を生み出すために『再会できない現実』を生きているようなカタチになっている。

これが現実と精神のギャップみたいなカタチになっていて、現実を見つめる行為を行ってみると絶望の立ち位置で「ツインレイとして時間が戻ることはないし、現実的に再開をすることはできない事実を受け入れる」という最終地点に立つことになった。

これが善悪二元論の思想の最終地点による『希望』と『絶望』である。

図の説明:現実を見ると絶望状態であることを受け入れる

で、この希望と絶望を成立させると、精神側で『絶望を受け入れる』状態になると、再会できていない事実を受け入れている状態になるため、希望と絶望が統合され『現実と精神の一致』が起きる。

いわゆる、これで「なとりは再会できていない事実を受け入れた」し、再会できなかったことに悲しんだ。

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これは私の場合だが、私はツインレイの彼との第二サイレント期間の開始の時点で明確に別れを受け入れている。受け入れているからこそ『期待(未来への希望)』がうまれた。

この希望は私が持つ「別れに向き合えないでいる心」にあった。

時間軸で言えば『今、別れた事実』については悲しみに暮れ向き合うことが出来ていた。しかし、『未来、いっしょにいない事実』については悲しむことが出来なかった。

今の別れは受け入れられる。だけど、未来という概念での別れは受け入れられていなかったということである。

 

さて、これにてどうやら『ツインレイの再会のステージは終わり』のようで、私のなかにいる私が「キャアキャア」としている。テンション高めなんだが、私はとてつもなく眠いわ、風邪からの立ち直りに足掻いている感じ。

ツインレイの再会って現実で再会できたら完了なんじゃないのって思っていた。

でも現実は違うようで、ツインレイの再会は『再会できない事実を受け入れられたら』により終わるようである。この事実を受け入れることで、私自身はツインレイのステージから解放されていくって感じ。

私は今、ツインレイの再会ができない絶望を受け入れている。トリガーは『もう戻れない』という言葉。よく泣いた、思考のない涙だった。こんなところに私が持っていた受け止められていない悲しみがあるとは思わなかった。

戻れると思っていた。それが『再会』なのである。しかし、もう戻れないほどに時間が過ぎてしまった事実。

悲しみは深いが現実を見よとし、現実を見たとき、私はいつもスッキリとしたすがすがしさを感じられる。

ツインレイの再会へのこだわりが融け、私は今、ツインレイという概念から抜け出せてたのである。

だからもう私はツインレイの再会のステージではないってことだ。

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そして、このもう戻れないふたりの関係性を受け入れたとき。

私は彼が私以外のだれかを好きになったとしても受け入れられるようにもなった。

「好きな人が好きな人を好きになりたい。」

二十代前半の私が愛した作品のひとつ。市川拓司の恋愛写眞の主人公、静流の言葉。恋をするまでずっと子供の姿の彼女。

そんな女性になりたいと思っていたけれども、ようやく私も好きな人の好きな人を好きになれそうです。

愛おしいと思える世界がそこに広がっている、それは私が好きになった人たちの世界。そしてそれは若いときの私には絶望のようなものだったと思う。

それは私がドンずまりに行き着き、悲しみに暮れ、それでも尚、生きようとしたからなんだと思う。

ずっと自分の不安や恐怖に逆らうようにして生きてきた。正直、辛い。自分を大事にすることも出来ない日々だったけれど、そのおかげで私は「なりたい私」になれた。

 

そしてこの意識は『母』なのだと思う。そして彼は『父』なのだと思う。

彼は父性を、私は母性を。大人になるってこういうことなのかもしれない。

愛おしい我が子を手放すことは、その子の未来と世界を守ることに繋がっている。

愛しているって奥が深い。ずっと若いころからの探求が『愛』にあったけれども、愛とは無という世界のなかにしか存在せず、無を体現したとき、私たちは愛を享受される。

愛とは空のなかにしか存在できない。だから私は私を手放していく必要性があった。

無価値なる私だからこそ、私のなかに愛が満たされたのだと思う。そして私が愛そのものであるとき、私は空である。

そのときの私は何も感じない、何も思わない。昔は愛すれば愛するほど胸が痛み、辛かった。ツインレイの別れが悲しみと共にあり、その悲しみを喜べないことも、そして受け入れられなかったことも丸ごとひっくるめて辛くて堪らなかった。

彼がこれから新しい出会いを見つけていくことが許せなかったのである。

だけど、今は誰かを愛するとき、私は何も感じないんだと思う。代わりに、心のなかにぼんやりと温かい『なにか』を実感する。それを『愛おしい』と言葉にするよ。そして涙が出るんだと思う。

それを『悲しい』とは感じない、愛おしいから涙がでるのね。

 

ツインレイの別れは悲しみじゃない、愛しているから別れたのである。あのときの私の心は、やっぱり純粋なる私の愛だったことをここに証明する。

彼が、私以上に大事な人を見つけられますように。大事にしたいと思える人を大事に出来ますように。