ツインレイによる光と闇の自己分離と闇の吸収の必要性
ツインレイのふたりは出会いの時点で、片方が統合意識への到達性と、片方が分離意識への到達性を持っているとして考える。
ツインレイの片方は無条件の愛により『等身大の自分を愛している』状態にあり、ツインレイの片方は条件付きの愛により『善い部分の自分だけを愛している』状態にある。
どっちがいいというわけではないのだが、条件付きの愛は自己分離を起こし、無条件の愛は自己統合を導く。
私の場合、私の方が統合意識であり、彼の方が分離意識となっている。
魂の母体となるのが私であり、彼の方が分離して生まれた——として考えると、統合意識側が母体であり、分離意識側が子側として考えることができる。
ツインレイのステージ的な統合と分離の過程
ステージ展開的に、先ずはツインレイが『統合意識の存在』と『分離意識の存在』として出会っている。
そして、ふたりはサイレントにはいるまで、統合意識側のツインレイは分離意識側のツインレイへ『すべてをまるごと愛している』とする。そして、分離意識はサイレントの始まりの時点で『自分の闇の精神を自覚する』として考える。
統合意識側のツインレイは分離意識側から『善い部分だけ愛している』とされるので、自己分離を起こすことになる。
『光』と『闇』が生じ、闇の部分を愛してもらうことはできない。ゆえに、闇の部分を統合意識側のツインレイは捨てることになる。それは分離意識側が受け入れることができない部分を切り捨てる状態である。
私のツインレイの場合の闇の意識は『めんどくさい寂しがり屋』なわけで『さびしい』という感情を自己分離させ、闇として分離させる。つまり、さびしいことは悪である——として定義してしまう。
ゆえに、サイレント期間では「さびしい」などの感覚を持つことがほとんどない。
自己統合による2種類の違い
統合意識側のツインレイは『光と闇の統合』により、自己統合を果たしていく。つまり、闇との対峙が必須となる。闇のなかにある本質を見つけることにより、自分自身のなかに『忘れてしまった闇の意識(ツインレイに悪として定義されたもの)』を取り戻すことが出来るようになる。
「彼くんはこれいらない。なとちゃ、これポイする。」「ぽい。」
と、捨てた感情がいくつかある(本当に「ぽい(*´ー`*)ノ ⌒ ゚ ポィッ」と表現している)ので、捨てた感情を自己統合していく必要性がある。
分離意識側のツインレイは、光と闇をそもそも持っている。持っているがゆえに、分離している闇をツインレイ女性に見られまいとするが、分離している部分さえも露見してしまう。その闇をひとつずつ分離意識側のツインレイは最後まで愛されることにより『自己統合』を果たしていくことになる。
これはツインレイ男性が『条件付きの愛』を持っており、ツインレイ女性が『無条件の愛』を持っている状態であることが多いのかな? とは思われる。
分離意識側のサイレント期間中について
分離意識側のツインレイは、統合意識側のツインレイに『分離させた』だけであり、迷惑行為をしている感じにしか見えない。つまり、分離意識側が分離していた分だけ、統合意識側は分離している状態へと陥ることになる。
統合意識側のツインレイは、闇の分離を起こしているために闇の刺客がやってきては『相手は自分なのである』という、相手の中にある自分を認識しては自己受容していかなければならない。(これが個人的には地獄だった。)
そもそも統合意識側は自己分離している『分離している自分』をそもそも自覚が取れないでいるから、自己分離なのである。その認識が出来ないでいる自分を認識する為に闇の刺客がやってくる。そして、分離している自分を体現してくるのである。
つまり『自分のなかにある闇を他者が体現しているが、それは己自身である』という投影世界に突入していくので、幻想世界へと入っている必要性がある。(この原理に気づいていかないと、ループのトラップにハマりやすい。人を変え、品を変えてのエンドレスモード)
そして、己自身のなかにあるものをことごとく他者のなかに見つけていく経緯をしていくわけなんだが、同時に、自己分離側のツインレイが何をしているのか——である。
このとき『闇を受容』をしているのも同じことなのではないか——と思われる。
たとえば、分離意識側が「すべてを愛されている」ことは、自己統合へ繋がっているのではなく『大前提』なのかもしれない。
これから、自己統合を済ませていくために必要な大前提の愛情を受け取っている。そして、自己の葛藤を起こし、自分自身のなかにある闇を受け取っていく作業を自己分離側はやっている可能性がある。
統合意識側のツインレイは、自己分離の自覚がない状態だから闇の刺客を必要とするが、分離意識側のツインレイは、自己分離の自覚があり、自覚されている自身のなかにある闇と向き合っていると言える。
統合意識側には『他者という現実サイド』により生じ、分離意識側には『自己という精神サイド』により、闇と向き合うということだ。
図的に説明するとこんな感じだろうか。
統合意識側のツインレイからすれば、他者が持っているものがツインレイの相手が持っている闇そのものに感じられる。
そして、ツインレイの相手が持っている闇と向き合うことが出来たとき、他者という概念による闇が解消されていく——という連動性を考えることができる。
つまり、自己分離側ツインレイでは『自分の心の闇と頑張って向き合っているんだが、全然向き合えていない』状態とも言える。
そして、向き合えていなければ向き合えていないほど、統合意識側のツインレイの闇が勢いを増させることになる。(他人からの迷惑を被る状態になる)
自己分離側からすれば他者とは——
自己分離しているツインレイからすれば、自己分離時代では『他人の闇に向き合えない』という状態が続いていく。ゆえに、そこにある闇に目を向けることができない。同じように、自分自身の闇にも向き合うことができない。
だけれど、人にとって重要なのは『闇の部分』でもある。けっきょく、闇の部分が人の本質みたいなものだと思うから。その人の本質を受け入れることが出来ないからこそ、表面的な付き合いしか出来ない状態が続く。
しかし、自分自身の闇と向き合い続けていくことにより、他人の闇をも受け入れることが出来るようになる。
何度も繰り返される『闇の刺客』
何度も繰り返される闇の刺客だが、これは自己分離側のツインレイが、自己分離している根源的な心理に触れることが出来るようになるまで何度も繰り返される。
根っこにあるものは何か——である。その根っこにあるものは、私の場合は「さびしい」であり、このさびしさに触れていくことで、私自身は『闇の刺客とさよなら』をしている。その後、自分自身のなかに「さびしい」がこみあげてきて「彼くんが未来にいないことに絶望する」みたいな感覚に陥っている。
つまり、これは元々、ツインレイの彼が持っていた心理であり、その心理に彼が向き合えないでいるから、私もさびしくなるんだが、さびしいを彼が受け取ってはくれないから、私も「ぽい」することになって、そのまま、闇の刺客化するという状態になる。
さびしいのにさびしさへ向き合うことができない彼といっしょにいることは、私はさびしい感覚を捨てなければならない。これがサイレント期間の始まりであり、それは問題である——として、これは失敗となる。
ゆえに、サイレント期間は「彼くんのさびしいを取り戻せ企画」が催されることになる。
光だけの世界って在りえるのかい?
光だけになったら、自分自身のなかに『闇』が生じ、また現実に『闇』が生じるようになる。
この闇は、私たちは光だけになったから生じたものである。つまり、自分自身のなかに『闇があること』を認めていく必要性がある。そして、そして、他人のなかに『闇があること』を認めていく必要性がある。
この世界には、見向きもしたくないような、自己都合の悪い感情がある。その感情を『自分のもの』と『他人のもの』の両方を認めていく必要性があったように思う。
私の場合、蛇の中にある根源的な『さびしい』を見つけた。その後から「彼くんがいないことに絶望」を繰り返している。さびしいのである。
他者のなかにあるものは自己のなかにあるものである。
つまり、他者のなかにあるさびしさを見つけたとき、私は自分のなかにあるさびしさを見つけることになった。
この原理は、彼が生み出した「さびしい」により「闇と言う蛇」が発生し、そのさびしさを「私」が受け取る——という経緯でもある。
さびしさの譲渡である。
しかし、元々、このさびしさを発生させたのは私ではないか——とも思っている。
彼に出会う前に、強烈にさびしくなって泣いたあと、結婚相手を探そうと思ったのだ。
この自己分離とは『私の精神』であり、自己統合とは『私の現実』である。
私は、さびしさを受け取ってもらえない状況から、精神内でさびしさを自己分離させた。だから、いっしょにいる必要性がなくなってしまった。だから、ふたりはサイレント期間に入った。というか、離別した。
私は、自分自身のなかに『自己統合の意識(無条件の愛という精神)』と『自己分離の意識(条件付きの愛という現実)』のふたつを手に入れたのだと思う。
無条件の愛と、条件付きの愛のふたつを結び付けているものが『サイレント期間に繋がる闇(蛇)』だったと思うが、実際は『龍』でいいんだと思う。
今度は自分のなかにさびしさを統合させて出会うことが出来たならば。
これが再びの縁結びだと思う。