自我愛、自己愛、他者愛の違い
自己と自我の違いです。色々な方々が定義したものでもあるため、それぞれの用語の意味合いが違ってきます。
たいていは心理学で使われている用語としての定義を利用しようかなと思います。
ので、ここでの定義では、自己とは『他人が認識する自分』とし、自我を『自分が認識する自分』としようと思います。
つまり、自己とは客体により認識される自分であり、自我とは主観により認識される自我とします。
たとえば、自己愛性人格障害なんかは『自己愛』ってされているんですが、ここでは『自己』なんですね。
つまり、客体による(客観的に視える自分)を愛している人格を有している——ということ。
客観的に他人と自分を比較して、それによって『自分の立ち位置』を認識し、その認識された優位性のある自分のみ許し、受け入れる人格とも言える。ゆえに、自己愛性人格障害っていうのは優劣意識が強く、自分が優位ある自分のみ、愛せないという状態となってる。
そして、それ以外の客観的にみて、劣等している自分を愛することができないのが自己愛性人格障害ってこと。だから、劣等していると思った瞬間に瞬発的に相手をマウントする。
自己愛性人格障害の方が見ている世界は、常に自分が持つ客観的な世界観ってことな。その世界観から見ての優劣判断をしていることが大まかには問題となる。
で、その客観的な判断基準に振り回され続けているのが自己愛性の問題となる。
さて、これが自己愛であり、つまり、これが自分自身の精神構造のなかに生じるものが世界に通じる時『他者愛』となる。
自分自身の精神構造内にある『客観的に自分をみている自分』 と、他者からの『客観的視点』というものが同一視されたとき、私たちは『恥』という意識が生まれたりする。
人からどのように見られているのかが怖いなど、そういった意識は、自分を客観的にみている自己と、まったく別の個体である他者が自分をみている意識が同一であると認識された時に生じる。
大事なのは「自分のなかにある客観性」と「他人が見ている視点」は別のものであるという意識がここに存在しているのかどうか——でもある。
自分のなかにある客観と、他人が見ている視点が『同じものだと認識する』ことが『自意識過剰』ってことに繋がっていく。
他人にみられている感覚がする。これが自意識の芽生えであり、そこから他人をしっかりと認識し、自他分離的な存在として認識することが出来たとき、私たちは『他者の視点と自分の視点は違う』ということを理解する。
発達の段階で、私たちは親との対話は他人との対話で、この自他認識の違いを自覚していくことになるが、実際、この自他認識の違いを発達させることが出来ないと『自意識過剰の人』となる。
人にみられていると感じている、人にみられていることに過剰に反応する、人にみられているからより良い自分になっていかなければならない。
最終的に「自分は優位なる特別な存在でなければ愛されない」という意識にまで自己が到達したとき、これが他者への迷惑行為にまで発展することがある。
この『他者への迷惑行為』にまで発展したとき『障害者』となる。なぜならば、社会性を失ってしまうから。
社会性を失うからこそ、ここで『障害』という言葉が使用されることになる。同じように、他者からの目線に怯え続けていくのも、不安障害にはなると思う。ここで社会性を失うから。
つまり健全な人間関係を構築できませんよ、社会的には普通に人と関わるのがなかなか難しいですよ、排除されやすいですよ、って人たちが『障害』という枠に収まる。理由は援助や他者の介助や理解が必要だから。
自己愛と他者愛とは同一のものだと認識しているのが『自己愛性人格』としたとき、それは健全ではない。
このとき、他人からの評価が低いと認識する。同時に、それは同一のものとされる自己評価が低いということ。
その評価基準に囚われているために、主観性が失われており、自我が存在していない。自我が存在していないからこそ、自己愛性人格とは『優劣にこだわる』ようになる。
その優劣意識にそって他人との関係性を構築するとき、他人は自分を劣等として認識している——として理解する。
なぜならば、自己評価が他者評価だから。
自分は嫌われているという自己評価は、他人は自分を嫌っている他者評価として認識する。
しかし、当人には『主観的な自我視点』が発達していないために「相手を劣等者にすること」により、自分を保とうとする。
ゆえに、他者を貶める行為などが行われていく。しかし、他者を貶める行為をし続ければし続けれるだけ『嫌な自分に成っていく』という負のループに陥り、なんならそれが再び自己評価の低さにつながっていく。
では、ここで、どのようにこの問題を解決していくのか——である。
それは『自我意識を発達させること』である。
自我とは『主観的な自我』である。
自己愛性人格にとって『主観的な自我発達を強く促せる精神構造』をしている。
つまり「自分を好きになること」が得意になれる。ゆえに、この自己愛性人格とはナルシストと呼ばれている由来になる。
個人的には三島由紀夫とかいいデータだとは思うが、あれは『成功例』だと思われる。残念ながら、最後に彼は自衛隊基地で切腹自殺をするっていう何とも言えない結果となったんだが。
これはもう多くの世界的な心理学者が分析していて、私も多く色々な文献読んできたけれども、そのなかでなかなかこりゃすげえ話だなと思ったのが、三島は「自分の死さえも自分で決めたいと思った。」という話。
つまり、自分の死に方さえ、自分で決めたという。これが究極のナルシシズムなのだと思われる。
自分で自分のことを決めたい。だから自分の死に方や死にざまさえ決めたかった。だから、自衛隊基地で演説後に割腹自殺はかる。それが自分の『生き方を貫くこと』だったから。
ある種、すごい人生だなとは思うんだが、それはそれでかっこいい人生だったんじゃないのって個人的には思っている。
だが、ここでもうひとつの視点を言いたい。
社会的にめっちゃ迷惑な人ってこと。
自衛隊基地で割腹自殺って。なんなら、自衛隊基地のとある一室を占拠して自死した。このとき、演説もしているが、ほかにも多くの人に迷惑をかけたことは否めない。めっちゃ迷惑な人だと思われる。
彼はね。すばらしい作品を残した。それは自己愛性人格による『よりよい自分を目指したこと』にあるかもしれないね。だけれど、それが世に認められた先にあったものは、当人の精神的な問題である。
しかし、自己愛性人格がなければ、彼は金閣寺を書いたのか。長すぎた春を書いたのか。書かんかっただろうなと思うし、書けなかったんだろうなと思う。
彼が行ったのは、自分自身のなかにあるものをすべて作品に昇華したことだった。その昇華は素晴らしいものだったと社会的に評価された。
自己愛ってなんだい? って私は考えたいんだ。
自己愛って、それは他人との関係性という社会的な視点にまで広げたとき、自己愛は他者愛と同じことになる。
私はずっとツインレイの彼に愛されていると思っていたし、なんなら、それが「当たり前」だと思っていた。
バカだなとは思うが、自分のなかにある客観的にみた自分を私は私で愛していたからだ。
私は私で、なりたい私になろうと努力をした。努力した自分が愛されないわけがない。私は客観的に「愛されることが決まっている」のである。これが私の自己愛である。
自意識過剰な自分であり、自己愛者な自分である。そして、それと同一のものを持っている人に出会った。
それが『ツインレイ』。彼は他者愛として私の持つ自己愛と同一のものを向けてくれた。だから、私が私を自己愛するほどに彼は私を愛したことだろう。
では、自我愛って何なのか。
それは、自分が自分であることを愛しているかい? って話なんだ。
自分が自分であり、その自分を好きになれた? ってこと。
私は結構自分が好きなんだ。一生懸命に私は生きている。人の為に尽くし、人の為に頑張って生きている。人の為に葛藤し、人の為に頭を悩ませ、そうやって生きる自分の生きざまが私は好きだった。
私は「自分を好きになろうとした」んだ。だから、ものすごい量の葛藤が生まれてもいる。
私は自分を好きになるために、行動を起こし続け、考え続けてきたとも言える。
これの究極的なカタチが『自我愛』として成立すること。
自分が自分であることに誇りがあること。自分が自分であるために、私たちは努力をし続けれなければならない。その努力をしている自分を好きになっていく。
だって「自分のために頑張っている自分を、どうして嫌いになれる?」ってこと。それが私の場合、人の為に尽くせるような自分に成ろうとした、優しい人になろうとしたビジョンにある。理想的な自分に成ろうとする努力。
その努力をし続けた結果、私は私を好きになる。これを『自我愛』と呼ぶとする。
ツインレイの経験のなかで『他人からの評価』が気になっている発信者とか、めちゃくちゃいたと思う。
だから、その部分で攻撃を受けないようにって防御線をはる人たちもいた。
私自身は、他人からの評価がどうでもよかったとも言える。
どうしてなのか——といえば、私は『自我愛』があるから。
私は私になろうとして、私は私なりの努力をしてきた。そこで『他人からの評価』がどのようなものだとしても、私は私なりの努力をしていることを一番に私が認めている。それだけの行動をしている、思考を巡らせている、思想を練りだしている。
その結果、私は「自我愛」が発達する。
つまり、ツインレイの期間で努力しかしてこなかった私は「やっぱり、なとちゃはなとちゃが大好き!」っていうカタチに着地しただけ。何も結果はでなかったよ、ツインレイの再会だってしていないし、全くもって結果を出さなかった。
でも、私は自己信頼と自己愛を高めるという結果が得られた。
ツインレイの再会をしている人たちよりも、自分は社会的に劣等している。だって結果を出していないから。失敗作やねん。
でも、私はそんな自分でも、努力をした自分を認めているから、全くもって彼らから劣等しているとは自分を感じないし、なんなら、どうでもいい。私は私が好きだから。私が自分を好き出ることと、社会的に認められることは全く別問題なんだよな。
私はそこを切り離して認識している。
だが、この部分が切り離すことが出来ないと、自意識過剰のトラップにハマる。
他者からの視点がめっちゃ気になる。自分の悪口を言われているんじゃないかとか、再会できない自分は——とか、そんな風に社会的な基準に満たしていない自分に劣等を覚えることになる。
つまりこれが『自意識過剰』であり、この自意識過剰が転ずるところ、他者批判に走る。そしてマウントをとる。
自我愛と、自己愛と、それから他者から提供される他者愛。
この三つはイコールで結ばれていきます。
自我愛は、努力をした結果、努力している自分を好きになること。
自己愛は、努力をした結果、客観的にも愛されてしかるべきと思う自意識過剰性。
他者愛とは、努力をした結果、他人にも愛されているということ。
この三つは同じこと。
根源には、どれだけ努力したのか——です。どれだけ、自分を好きになるために努力をしたのか。その結果、好きになろうとした努力が実り、他人にも愛されるようになった——ということ。
ですが、人は努力による結果が得られるわけではない。失敗をする。最初から成功する人もいるかもしれないけれど、たいていは失敗する。
なぜならば、バカだからです。人間はバカなんですよ。
バカなので、最初から結果はでないし、なんなら死ぬまで結果はでないかもしれない。
それでも、人間はマジモンのバカだから、何度だって努力をし続ける。それが『神聖なるバカ』と呼ばれている領域の人たちだと思われる。これを『天才』とか『才能』とも呼ばれているものだと思われる。
バカを受け入れたバカは、神聖なるバカにまで到達する。神聖なるバカは「バカであることを受け入れているがゆえに、最も最高なるバカ」になることができる。
それが失敗をし続けることなんだ。成功なんてこの世にはないことを理解し、その成功にすら執着をみせず、バカでい続けることを望むのが神聖なるバカであり、人間の本性だと私は思っている。
人間の本性は、失敗を繰り返しながらも、何度も努力をし、最終的には成功をおさめたとしても、その成功にすら頓着せずに次に進もうとすること。
これが人の本質であり、神が愛する、愛すべきバカなのだと思う。
つまり、他者愛は「努力した結果、人に愛されていること」を意味しているのと同じように、神の愛を享受することは「努力をし続けた結果、神に愛されていること」を意味している。これが『輪廻』なのかもしれない。
私は、これらにおいて『結果は出なくていい』と持っている。
もちろん、結果が出ることが『社会性』に通じることだから、とても重要だと思われる。
たとえば、ツインレイのトラップにはまって、そこからツインレイの再会がもし結果だとしても、私は再会をしなくても、そこで何かしらの努力をしていたのであれば、私はその努力を認めたいと思っている。
もちろん、そこに社会性はないし、それは失敗なんだ。
でも、努力したんだよね? じゃあ、努力した結果を受け取って終わりにしようって私は言いたい。
苦しいのであれば、いつだって離脱していい。無理もする必要性はない。等身大の努力をすればいい。
自分が自分なりに、自分を好きになるために努力をし続けたのであれば、それがもし、途中でうまくいかなかったとしても、その努力はなかったことにはならない。
だから、その努力を受け取って次に進めばいいと思う。
私はその『抜け出すこと』を手伝いたいと思っている。この領域に留まるのではなく、努力を受け取って、さァ、次に行きましょうってこと。
人間ね、時間は有限なんだよ。前に進んでいいと思う。いつまでもツインレイに囚われ続けなくていい。その先に進んで、次の出会いを受け入れ、そこで幸せな結婚をしてもいいと思う。
努力をした結果、ツインレイのことで頑張れた自分を好きになってほしい。その努力をした分だけ、あなたは自分を誇っていい。自分は愛されるべき人間なのだと自意識過剰になっていい。
だけれど、努力をひとつもしていないのに愛されるわけがないことも、ここはひとつの事実だと思う。
そして、その結果は、必ず『他者愛』という他人からの愛に具現化される。
それは、自己愛とは自意識過剰ではなく、客観的に愛されるだけの納得するべき努力をし続けたものを受け取ったとき、自己愛が形成され、その自己愛により『他者愛』という存在が成立していくから。
結果は出ないかもしれないよ。ツインレイと結ばれることだけが結果ではないってことなんだ。
ツインレイの再会だけが結果ではないし、ツインレイに愛されることだけが他者愛ではない。
ツインレイだけが他者愛を持っているわけではないよ。
だから、その『他者』の概念をいかに育て上げることができるのかが、ツインレイのミソだと思う。
その他者の概念に、ツインレイが当てはまらないこともあるし、その次に出会う人のほうが自己愛に見合う他者愛が存在しているかもしれない。
それは「自分が自分でどれだけ納得できるまで努力をしたのか」だ。これはもう本当に「自分で納得できる」感覚でしかない。
そして、自分なりに努力をしたのであれば、それでいいじゃないか。
それ以上に結果が欲しいと思うこと。それが『エゴ』と呼ばれているもの。
自分の努力以上による結果が欲しいことがエゴであり、捨てるべき欲求、私利私欲。
そして、それが手に入らないとき、隣の芝生は青く見えるようなもんなんだ。そして、人の努力を全てなかったことにして自分を安心させようとする。
もし、そこに「ほしいもの」があるのであれば、そのために努力をしなければならない。
もし、欲しい愛があるのであれば、それに見合うだけの自分に成らなければならない。
自分が欲しいものがあるのであれば、それに見合うだけの自分になるだけの行動と努力をしなければならない。
つまりな、ツインレイの肩書きが欲しいのであれば、ツインレイになることが見合うだけの自分になっていかなければならない。それがなんなのか、私はよくわからねえが、それが欲しいのであれば、そのために「ツインレイらしくなること」が望まれる。
なんでもいいんだよ、なりたい自分になっていくこと。それに見合うものが手に入るだけの自分に成っていく。
それが「愛」なんだと思う。
色々と『自我愛』『自己愛』『他者愛』ってあるけれど、私たちのなかで統一されている『愛』とは、そこに欲しいと思う欲求となる精神性がある。
いわゆるエスみたいなもの。それが欲しいと思う心があり、その心を受け取った私たちは、その心のために努力をし続けていく。
その努力こそが、自分で自分を愛すること——。
努力をしていない人に、この愛は実らないのだと思う。だって、心を受け取り、その心のために努力をしたわけではないから、その心に見合うだけの人生を送ることができないということ。
心とは、根底にある欲求なのかもしれない。
もし、それが『ツインレイという魂の双子』という概念にあるのであれば、その魂の双子の相手と結ばれるだけの努力をするだけの人間性を現世で構築しておくことがツインレイの再会を呼び起こす。
そして、努力をした人にしか手に入らないものなんだと思います。