みんな愛だった。
こんな結論がでるとは思わなかった。
見えている世界が切り替わった。
みんな愛だった。
みんな、ブログを読みに来てくれていて、それが愛として受け取れた。
頭ではわかっていた。でも、心では受け取れていなかった。
ありがとう┏〇゛
色々な関わりがある。
でも、信じるならば、そのなかには愛があった。
ちゃんと循環している愛があった。
あたい、愛されてた。みんなに、社会に。
あたい、信じていた。みんなを。社会を。
ようやく心で愛を受け取れた。
みんな、見守っててくれた。
凄く満たされている( ˇωˇ )
すべてが愛なんだ( ˇωˇ )
あなたも、わたしも。
すべてが愛なんだ( ˇωˇ )・・・・・・
すぴりちゅあるばんざい\(°∀°)/
出会いは愛。結果、どのようになろうが、愛なんだな。
そこにある心の交流。
でも、私たちは一方通行しかわからないから、真逆のことなんて理解ができない。
そこは「信じる」部分でしかない。
信じているからこそ、生まれるものなんだろうな。愛の循環は。
愛を受け取るためには、ただただ信じるしかない。信じられないものを信じるしかない。
でも妄想は信じたらいけない。
相手の愛を信じるからこそ、愛が受け取れるというか。愛を信じてなければ愛は受け取れない。
あるって思わないと、そこに愛があったとしてもなかったものになる。
愛は信じてようやく成立している。
相手の弱さを信じれば、返ってくるものは強さなんだな、と思った。優劣によってかえってくる。これがしっぺ返し。
愛はない。この世に愛は無い。信じなければない。
だけれど、人と人とが信じあえたとき、そこに愛が発生する。
ないものが生まれ始める。それは信じたからだ。
でも、妄想の愛と、真実の愛は別だよなって思った。
同じに見えるんだよな。
妄想は信じられない弱さにより生まれ、真実は信じられる強さにより生まれる。
真実の愛は、そこにある愛を信じ抜く強さのなかにある。
愛に気づくには『信じること』が必要。
でも、気づかなくても、いつもそこには愛がある。だから信じられなくても、そこに愛がある。
だけどさ、信じられない人といっしょにいても、苦しいだけだよ。
苦しくても信じたいのは、愛を信じているからだけど、精神に偏りすぎて現実が疎かになって、ボッコボコになるのは違うよね。
健全なる愛とは、精神的にも肉体的にも『満たされている』ことだと思う。
精神が100%になると、たしかにすべてが愛なんだよな。人間である肉体を放棄すればね。
でも我ら、肉体持った人間だから、現実的部分も満たされていくことも大事なんだよ。
すべてが愛だよ。すぴりちゅあるだよ。
でも、現実が伴わないものは、それはただの暴力みたいなものになってしまうよ。これが因縁みたいなもの。
つまり、現実性が伴わないことが『愛とはならない』んだと思う。
だから、愛は現実的であるべきだと思う。
すべてが愛ではない。私たちは人間だからこそ、現実性が伴われているものだけ受け取っていく強さを。
真実の愛。
それは金と婚姻届である。
でも、ちょっと待って。
100%の精神的な愛の世界を経験しておいでよ、信じ合えている世界を知っておいでよ。
きっと真実の愛の見え方が変わってくるから。