二極化世界になる理由

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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この世界そのものは、二極化世界となっていく。それは多くの人たちが周知の事実として受け入れていることかと思います。

では、どうして二極化世界になっていくのかという問いかけに対し、私は『そういうメカニズム構造になっている』と結論をだしています。

二極化世界になるまで、私たちは中心地から分布図のように外側へ向かっていくような状態でした。

そしていきつくところにまで行き着いたとき、ポジティブツインレイ、そしてネガティブツインレイを生み出し、その後、ツインレイたちは二極化世界の地盤となっていきます。

二極化世界の基盤となるネガティブ世界とポジティブ世界をツインレイたちが築いていく仕組みについてはツインレイのサイレント期間でネガティブ世界を大革命する使命の記事で説明をしています。

二極化世界の仕組みは、ツインレイたちが望んだからというようなことでもなく、なるべくしてなるというような構造をしています。

ましてや、神がそのように決断をしたから——というわけでもなく、神さんたちが作り上げた(世界の創造になってくるので9次元以上の神さんたちにあたる)世界がそのようなメカニズムをとっているんですね。

最終的には二極化世界になるということです。

そして、その後も再び数千年先で変化をするような仕組みとなっています。

 

旧世界の仕組みでは、ひとりがあがればひとりが落ちていくというような交代制でした。

たとえば、ひとりが徳を積み上げればひとりが徳を落としていく——というような構造です。そして、最終的に積み上げ切った人がポジティブツインレイであり、徳を落としきった人がネガティブツインレイということです。

ひとり徳を積めば、ひとりは徳を落とすという構造であり、この世の徳は一定数の数字以上に保有されることのない上昇性のない完了的な世界でした。

いわば、誰かが上がれば勝手に誰かが落ちるような構造をとっているのが旧世界の構造なんです。

もちろん現象的には誰かが徳を積む、誰かが徳を落とすというものを持たせることにはなりますが、それでも徳を落とすという立場の悪いような状態にドンドンおいやられていくような形にも着地する可能性があります。

これは『仕組み』であり、強制的なところもありました。

とても理不尽的なところもあり、上がった側はいいにしても落ちた側にしては救いようがないような形に着地していくことになる。

これを『横社会的な世界の構造』と考えられます。

人間社会は縦社会だと思われたかもしれませんが、魂社会では横社会的な世界像をしており、魂はすべて平等的な扱いを受けているがゆえ——。また、ひとつが上がればひとつが落ちるような形をとるようになっていました。

鏡の法則性とはここに属し、ツインレイたちはあがってきた人たちがなっていくものとなります。

 

縦社会的な世界構造とは、魂社会を主体として考えられているために、魂のレベルによって見合う形で学習ができるような形になっています。

魂が未熟であれば、未熟な魂は成熟なる魂のなかで寛容されるような形の社会となっていました。

魂は許され続けるがゆえに学習することもなく、ドンドンとネガティブな方向性へ魂が成長していくこととなりました。周囲の成熟な魂たちは、未熟な魂たちを未熟にさせ続けることにより徳を積むような形をとっていました。

これでは『成長が見込めない』というような世界構造となっていました。

それは未熟であればあるだけ成長することができない世界の構造となっているのが従来の世界の構造でした。

成熟な魂であったとしても、自分が徳をつめればそれでよいというような視点を持つようになり、人の不徳を促すように徳を積むようにもなりました。

もし、それが徳というのであれば、たしかにこの世の構造を理解しているのだからこその判断でしょうから徳となりましょうが、実際のところ、それは『人を下に落として自分が上がっていく』という視点を人間的な視点ではなく魂的な視点で行なってきただけでした。

本質的にはそうたいして変わらない結果をもたらすような結果となりました。

実際の徳とは何か? についてを魂的な部分でも考えていかねばならないというのが、『徳のある人たち』にも考えさせられる機会をもたらすことにもなります。

 

人間的な得と、魂的な徳、もうひとつ段階上に存在している神的な心を持っていくことが必要となってきますが、それは『徳を積む』ことでもなくなり、『得る』ことでもなくなっていきます。

徳は積むものではなく、心そのものである。その視点を持つようになっていく必要性があります。

 

これから、二極化世界が成立していきます。

そのとき、ポジティブ世界とネガティブ世界を分離していくこととなりますが、最初は皆、ネガティブ世界におり、ツインレイという機会を得てポジティブ世界へ進むのかの審判をくだされることになります。

人間的な得をもっているのか、魂的な徳をもっている人たちは旧世界へ残るかもしれませんが、神的な心をもつことができる人たちはポジティブ世界へと進むことになります。

 

二極化世界へなっていく理由は、徳を積む人たちが増え、魂的な得を徳として捉えている人たちが多くなってきていることも、仕組みに組み込まれた原因だと思います。

徳を積むことが重要であると言われてきた時代ですが、その時代はすでに終え、徳を積み終えた——徳を積む修行を終えた人たちが、今度は心を持って共存することができる世界を望んでいます。

徳を積むとは魂的な視点ですが、魂的な視点を持って実行することができる人たちが増えてきたからこそ、もうひとつ上の段階の世界をつくりださなければならない状態になっているのも事実なんですね。

 

今度は魂的な縦社会を主体とした世界となりますので、徳を積む意識があることは当たり前の思想として持っていますし、そもそも徳を積もうと思って行動するのではなく、徳を積む行動や意識が根付いている人たち——。そして、心を大事にしているがゆえに、それは自分自身が徳をつむために行動をするのではなく、人の為に心を砕いていくことが出来るようになっていく人たちが育つ時代ともなりました。

けっきょく、徳を積む行為そのものも、得になってしまっていた状態だということです。

 

二極化世界では、自分と同じような人たちと共にいることにより、心を主体として育てることが出来ます。

ネガティブ世界の人たちも、自分と同じような人たちに囲まれていることにより、人の感情を知り、人の想いについてを学ぶ機会をもらうことができるようになります。

ポジティブ世界の人たちも、自分と同じような人たちに囲まれることにより、人の心を知り、共感をしていくことを学ぶことができます。

 

世界は常に『成長』を求められており、私たちはその成長していく一貫のなかに存在しているプログラムの駒のひとつにすぎないことを、忘れてはならないような気がします。

成長をやめてしまった人たちがネガティブ世界に滞り、ポジティブ世界には心を成長させようとしている人たちがいます。

今度ばかりは成長できる人は上にあがっていくことができますが、成長することのない人は下に落ちていくことになる構造です。

上へ、上へとのぼっていくのか、下へ下へと落ちていくのかは同じことですが、その場へ滞り続けることはなにひとつ変化を迎えることのなかった人たちとし、精神的な変化のない人たちは中心の渦から異空間へとばされていくようなものかと思います。