女性にとっての自由と束縛
つまり服従って意味な。ひっくり返ってお腹をみせることだよ。
たぶん、どんどん動物化していくんじゃないかと思っている。
どんどん本能的になって、どんどんメス化していく。
男性はそこまでグズグズに女性をしていく必要性がある。
だから女性は子供を産む。それは女性が生物と化すから、女性は子供を産むことができる。
女性が理性を手放せないでいるとき、それは心を男の人に許せないからなんだと思う。
そして、その理性を手放しきったとき、私たちはただのメスになる。
メスになるってかなりの覚悟がいることなんだと思う。相手がどれだけの理性があり、どれだけの存在なのか。
けっきょく、女性は子供を産むために、必要とするものは理性ではなく、理性を手放していく強さなのかなと。
そして、誰の為だったら、この世で生きる為に必須となる理性を手放していってもいいのか——、みたいな。
何も考えなくていい環境に置いてもらえるのか。
何も考えたくないんだよ、動物だから。我慢なんてしたくない。
私たちはメスとなっていくことによって、どんどん自由になるんじゃないかと思っている。
男性による束縛に合うことにより、どんどんと自由になっていく。
たぶん、女性の在り方って「メス」なんだと思う。だけれど、メスじゃこの世は生きていけない。だから理性を手に入れていくけれど、この人だと思うとき私たちは身体を明け渡しては理性を失う。
かわりに男性はオスになってはならないんだと思う。理性を失ってはならない。
この社会で生きていくのに、理性を失ってはならないのかな、と。
男性は不自由な社会のなかで、支配領域を広めていくけれど、そのなかで女性をまずは支配してみる必要性がある。
いかなる女性を絆すのかによって、男性の力量ははかられているような気もする。
けっきょく、強い女性を絆す男性は、強い男性とみなされるから。
だから、女性は理性を強め、誰の為に開放するのかを見定めなければならない気がする。
不自由のなかにしかない自由がある。束縛のなかにしか自由は存在していない。
女性は束縛されるとき自由になる。それは結婚だったり、妊娠だったりもするし、子育てだったりもする。
自分以外のなにかに束縛されるとき女性は自由となり、そして男性に支配権を明け渡すとき、自由だ。
だから子供を産む。子供を産むって動物的な行動なんだと思う。
そして、メスになるとき、私たちには支配が必要だ。男性による支配があるから社会から逸脱しないでいられる。
でも、そもそも自由な人を自由にさせることは出来ないよね。首輪のついていない動物は手懐けられない。
男性も、この社会のルールのなかに束縛されている女性を支配し、束縛し、囲いこむことで自由が得られるんじゃないかな。
そして、女性の支配権を奪って逃走する人もいるし逃げ出す人もいる。責任がとれない男性たちもいる。
これを「オス」と私は感じている。男性ではないね、オス。
そして、そういう男性に支配権を奪われてはならないんだよ。
私は今とても自由で、そしてとてつもなく不自由だ。
不自由だ。
「なとちゃ、自由なんていらない。束縛が欲しい。」
つまりメスとしての自由が欲しい。男性の言う自由はいらない。