ツインレイの母性と父性によるタイムラインと子供

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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いくつか考えてみたので、タイムライン的な感じに起こしてみる。

図の説明:ツインレイの出会いから終わりまで

女性は男性の前にて「発生」するものなのかと思っている。

たとえば、女性は出会いの時点て「妻」となるが、男性は妻の前でようやく夫へとなっていく。つまり、女性が妻として成立していない時、男性は夫にならず子供のままである。

そして、夫が完成するとき、女性が母性を持ち、母となっているときがある。つまり、夫が当初、子供であるとき、適応し、そこに母が発生するのである。

図の説明:適応することにより、夫と母の構造が生まれる

男性は子供であり、女性は妻という存在で出会っているという状態となっているとき、出会いの時点で、次に「夫」と「母」というカタチへ適応する。

つまり、当初の妻が望んだ形へ男性が適応していくことで夫が形成される。当初の子供である男性が望んだ形へ女性が適応していくことで母性が完成される。

これが男の子を産む親のカタチかなと思っている。そうすると、男性によく似た男の子のお母さんに実によく適応することができる母が出来上がる。そして、妻によく適応する夫が成立する。

しかし、このふたりが対峙しるとき、夫と母では概念が違う。いわば、母は夫を「子供」と認識し、夫は母を「妻」と認識する。このとき、ふたつは決別する。

夫はすでに子供ではないし、妻はすでに母である。違うものを違うと認識することが出来ずに、母は夫を支配しようとし、夫は妻を支配しようとする。このふたつが対立するとき、お互いに意見の違いが生じ、それぞれ対立を起こす。

この相関性が成立するときのツインレイたちはサイレントに入る前に大きな対立を起こし、ふたりは決別する。お互いの適応能力の高さと、また認識の相違が生じるようなものかなと思っている。

そして、今度は再び適応しようとする。サイレント期間で、それぞれが再び適応していく。

図の説明:2回目の適応のサイレント期間

次は、最後に離別したときの母に適応するために、男性は父へとなっていく。

夫へと適応していく母は「子」を求めるようなる。いわば、ここで「子供産んでもいいかな」と感じるようになる。

この「子供産んでもいいかな」と思ったとき、男性が父という核を得たような感じ。

 

これで私が当初、年下の男の子に出会い、その男の子に適応するように妻と言うカタチで夫をたて、そして、母になっていく経緯で、彼のお母さんとなるのである。

彼のお母さんになるが、女性は別に夫の母になりたいわけではない。ので、夫から一歩引くようになる。

図の説明:どんどん自分の役割を増やしていく

いわゆる女性は、どんどん自分の役割を分岐させていくのだと思われる。そして、その役割の中で「母」の概念が成立するとき、夫から一歩引き、自分を抑制することで「夫を立てる」ことを学び、それが妻の概念と母の概念の両立を図らせる。

そして、このとき、母である気質が育っている為、男性が持っていた「子供」の気質を受け取っていく。それを自分のなかで成立させておくことは、妻が我が子を夫によく似た子供として受け入れることができる。

最終的に、夫だった存在は父へと成長し、その成長した姿により「子供」が生まれることになるが、そのとき、男性に子供の面影はないだろう。さびしいかな、彼のなかに子供の面影はなくなるんだろうなと思う。

その子供だったときの心を私たちは産み落とすのかもしれない。それは彼の傷だし、それは彼の優しさなんだと思う。男性が女性を母にするには、子供の面影を差し出すことで母にしていくのだと思う。

次に、その受け取った心は流されていく。母によりその心は癒されていく。

そして、夫から父へとなっていく経緯は、ひとりで立ちゆかねばならない社会がある。その社会のなかで生まれる心もまた癒されていかなければならないゆえ、その心も再び母側が受け取る可能性がある。

図の説明:二度の男性への癒しが必要

同時に女性は癒されていく。人を癒す心は自分の心をも癒すから。

まず、子供時代の男性の心いやすのは、夫という概念が男性のなかに成立したときになる。そして、そのとき「子供のだった時の心」を女性へ預けていなくなる。その過程のなかで、女性のなかには子供時代の彼が存在し、彼の母となり、彼の心を癒すことになる。

この癒しの過程で「男性を忘れられない」という経緯が存在する。男性を忘れられないことにより、その心を実感し、癒し続けることで最終的に子供が純粋化され、男性のもとへ心が一度戻されていく。

男性の優しいお母さんが大好きな時代がある。そのお母さんが大好きなときの心をしっかりと癒着させ、癒していくことでツインレイ男性へ「傷ついてしまった優しい心」が取り戻されていく。

そして、彼らは今度、社会で夫という立場でありながらも、社会的な存在となっていくことで再びずたぼろに傷ついていくことになる。これは社会というものへの適応を求められる経緯などにより、彼らが持つ創造性は捨て去られることになる。

これは、彼らが社会から受ける抑圧が強く、その抑圧に耐えて忍ぶ代わりに彼らは「創造性を否定されていく」ことも多い。これがまた傷つくのかなと思っている。その心も癒しのひとつとして存在し、彼らが「父」へとたどり着くとき、彼らは自らの創造性により否定された心を癒していく必要性があるのだと思われる。

そして「豊かな心」が取り戻されていく。

つまり、一人目はあなたの心を癒す優しい子。二人目はあなたの存在を愛してくれる創造の子。そして、三人目は「あなた」である。

今度は、存在を愛する創造の子を産むからさ、
愛されたいと願っている女の性を愛してよ。

一人目は、あなたの傷を癒してくれる優しい子。

二人目は、あなたの存在を愛してくれる創造の子。

だから今度は愛してよ。

最後に、あなたの心を産み落とすために。

引用:報告|ツインレイが魂を産むとき

たぶん、ツインレイ男性は優しくて創造性が高い存在なんだと思う。そして、その男性たちの心が傷ついてしまっている。

それは「女性が女性の役割を実行していないこと」が由来しているような気もした。

男性を子供から夫にして、自らは夫の母でありながらも妻である役割を二つ持つこと。そして、父となっていく夫を目の前にし、私たちは三つ目の役割を見つけていく。

それは純粋な生まれたての男性の心を産み落としていくこと。

女性は、妻となり、母となり、そして、再び純粋な心を取り戻すために、男性の心を丸ごと受け取り、その心から逃げ出さず純化し、あなたのために生きることを自分が純粋な心を取り戻していく経緯となる。

そして、男性は、女性への適応により発展し、そして女性へすべての心を差し出していくことが必要なのかな、と。

最後には「自分で自分の心の責任をとれる」ようになる。これが私たちの大人なのかもしれない。

 

最後の最後には、赤子の心が戻るのかなと思っている。原点となる心。

二人ともが赤子の心を取り戻し、ツインレイ男性は「本当の意味での自信」を純粋に取り戻すのかなと思っている。

それは創造の子を産んだ後なんだと思う。その創造性は、このブログで私が散々書き続けた「これ」である。

私はずっと彼の銀の龍を預かっていた。それが彼の創造性であり、彼がもつ特性なのだと思う。しかし、この龍も能力を発揮できなくなっていたのかな? とも感じた。

 

そして、私が思うに。

私は彼といっしょに生んできたんだと思う。

一人目の優しい子は、彼と私の心により生まれた。

二人目の創造の子は、彼と私の心により生まれた。

最後に「あなたの心」も、けっきょくは、彼と私の心により生まれる。

この過程で、私たちは「ひとつの心」を生み出そうとしていたような気がする。

それを私は「豊かな心」としたんだけれど、私はこの根っこの心を「与える心」ではないかと思った。

彼の心の始まりは「与える心」であって、ずっと「受け取る心」となっていたんだが、社会で働くために必要な心は与える心であって。そして、私は「受け取る心」なんだと思う。

彼が傷つき続けてきた心が受け取る心であり、いかなるものを受け取ってきたんだと思う。

私は逆。私はいかなるときも、このすべてを与えてきた人である。与える心のカタチ。

このふたつは真逆のものだと思う。そして一方通行性となっている。

ゆえに、当初、私は彼に与えることで傷つき、彼は私に与えられることで傷つけていたのかなと思う。

だけど、根っこの部分での心の形は真逆であり、その真逆の形に戻るためにはお互いがお互いの心を癒す必要性があったような気がする。

だから、私は「受け取る心」が女性が持つべき心とし、男性は「与える心」として持つべき心として定義するよ。

女の子は「してもらうことに感謝する心」が必要で、男の子は「してあげることで尊敬される人」になっていかなければならない。

つまり、女の子は感謝の心が大事で、男の子は尊敬されていく経緯が必要なのだと思う。

私と彼は人格が反転していたような気がする。

私の心のなかで「ありがとう」って何度も囁いていた心は、彼の心なんだなって思った。

彼が持つ心と、私が持つ心が結合された。

私が持つ存在と、彼が持つ存在が結合された。

そして、最後は「あなた」と「わたし」というひとつが生まれる。

それが我が子だと思う。真逆の性質を持って生まれ、真逆の性質を生きては反転した世界で生きることは苦しいことだったが、その真逆により、男女が反転した。男女が反転したからこそ、ひとつに結合することができる。

私たちは私たちでしかないけれど、私たちは最後に「ひとつ」を産む。

私と彼の心と、私と彼の存在と、そのすべてを併せ持った存在。

 

もし子供が生まれるのであれば、私は彼にそっくりの男の子が生まれるんじゃないかと思っていたんだが、なるほど、私にもよく似るのだな。

 

私たちが出来るのは結合まで。けっきょく、私たちは統合は出来ない。やっぱり、私たちは別々の存在で、ひとりという独立した存在と心として自立するときに結合が生まれる。

その結合から、私はあなたと私が循環を起こす。この循環はあっても、私たちは「ひとつ」にはならない。やっぱり「ふたつ」なのだ。立場を弁えよといわれんばかりに、私たちはふたつなのである。

このふたつである状態でありながらも、純化させていくことにより、立場を反転させたりすることができるようになる。循環である。

だけど、子は違う。ふたつをひとつに統合し「ひとつ」をうみだし、生まれてくる神秘である。

あなたとわたしがひとつになる。これが子である。

そして、その子は絶対的に「ひとつ」であり、あなたであり、わたしである。

 

彼が彼になった。そして私が私になった。ただそれだけのことなんだろうな。そのためには男女のどちらかがかけることもなく、循環させることで私たちは私たちになれるんだろう。

子は、あなたとわたしである。

だから私は、私を育てられなければならないし、あなたを育てられなければならない。それを併せ持つ子が生まれるからである。

相手をよく知ることはとても大切なこと。私は私を育て、そしてあなたを育てていくことが子育てなのである。

だからこそ、相手とよく話をしなければならないのだと思う。そして、話ができる相手と結婚していくことはとても重要なんだろう。

 

毎度、言葉にならないなにかがこみあげてくることがある。

そして「ありがとう」と言葉がこみあげてくる。

これは彼の心なんだな。・・・・・これは、彼なんだな。こんなところにいたんだなァ。

優しい子。

そして存在を愛してくれる創造の子は、私のことなのかな。

私の創造はあなたに自信を与えられているかな?

もしかして、私の創造が切り替わったのは、彼が私を愛してくれたからなのかな。

今、私は存在をちゃんと愛せているのかな。

 

彼は優しい子で、私は創造の子。三人目は「あなた」。あなた——。

やっぱり三人目がいる・・・・・・。新しい何かの子が生まれてくる。