報告|ツインレイへ満足している内容が増えていく。
ツインレイのこと以外でも、私は今、随分と幸せなんだな~ってことに気づき続けています。
ひとつひとつを受け取ることががむしゃらに生き続けることによって、なかなか難しかったのだなということです。
実は、昨日、ふと婚活アプリを入れました。なんとなくの気分です。
そして、数か月前にも婚活アプリをいれていましたが、そちらは登録後、削除していました。
このときは『絶望』しました。婚活アプリをいれて絶望するってなんだかおかしいのですが、婚活をする市場では私の年齢は売れないということを読み、ショックでした。
「なんたること!」という絶望をして、消しました。
それから数か月経って、ふたたび登録しました。とくに他意はありませんでしたが、出会い系ってやつでしょうか。
そして数人と話したところ「あなたが望むような人はここにはいない」と教えてもらったのと、たまたま話したひとりとちょっとだけ話し『満足』しました。
今回は婚活アプリに満足をし、アプリを消しました。
なにが起きているんだろうかと考えましたが、きっと絶望すると、希望が絶たれるのだと思います。
希望が絶たれるとは『その先の道を閉ざす』ということです。
私たちは希望を持って生きているわけなんですが、希望を外に見つけている限り、絶望するのだと思います。
それは神に与えられるもの、未来など、自分以外の部分に光としての希望が存在し、私たち自身を存在とすれば、存在に対して『影』が生まれる。
私たちはこの影を『絶望』と感じ、受け取ることで自分自身のなかに『光』を取り込んでいくことになる。
いわば、存在自体が輝くためには『希望』と『絶望』の両方を自分が抱えることにより、存在として発光し、影を生み出さなくてもよい。光もいらぬ。
つまり、光と言う希望の良いものが存在すれば、闇と言う絶望の悪いものが存在している。
最終的には、どちらも回収することが出来れば『存在として輝く・満足を知る』ことができる。
満足していれば、希望もないし絶望もないのである。
私はこの仕組みを婚活アプリでやったのかな? と思います。それは私が結婚したいから、いい人と出会いたいからなのだと思います。
婚活アプリという『未来を手に入れようとする希望』があって、その側面に存在する『絶望』をも、手に入れると、実際は『満足』してしまうみたい。
つまり、私は婚活アプリそのものに『満足』を覚えました。出会いそのものに満足し、納得し、受け入れました。
すると「消した」のです。いらないかな? と思いました。
希望という世界線を、絶望で潰し、そして『今』にシフトをすると『満足』するのです。
私は、自分のなかに存在するべき望みを外部に見つけていたからこそ、絶望していたのだと思います。
つまり、外に満ち足りていないから探しに出かけていたわけなんですが、ずっと満ち足りていたのです。私はずっと満足していたのですが「欲しい」と外部に希望を見つけますが、外部に希望があれば、背面に絶望があるのです。
そして、私たちは、希望が小さくなればなるほど、絶望するのです。影はずっとそこにある。闇はずっとそこにある。
どうして婚活アプリを使ったのか。それは私が『年齢』ということを気にかけていたから。
だから、私の絶望は『年齢』によって呼び起こされる。
ですが、この絶望を乗り越えたとき、私たちは、もう一度チャレンジしてみるのかもしれません。
すると気づくのです。
ずっと満たされていた事実に気づき、その事実を受け取るとき、私たちは『満足』します。
青い鳥のようです。
ずっとそばにいました。しかし、気づかないのです。本当に欲しいものが手に入っていることに気づかず、私たちは夢の中へ向かいます。
しかし、私たちはずっと手に入れているものを欲しがっているのです。
もし、希望が叶い、手に入れたものがあったとしましょう。きっと背中には絶望が存在している。
ツインレイはずっと心の中にいる。胸の中にいる。外ではない、創造でもない、妄想でもない。
私たちは満たされている、長くずっと心の中にいるのに、外へ探し求めている限り、私たちは『ツインレイ』へとたどり着かないのだなと思いました。
だから、希望を捨てなければならず、絶望しなければならない。
ツインレイへ希望することを捨て、そして希望がかなわないことに絶望する。
私たちはそうやって『世界線を回収』し、自分自身の心のなかに存在している『光』に気づいていく。
私たちはずっと輝こうとしていた。だけど、輝くことができない。それは自分が「満たされている事実」に気づいていないからである。
今あるそれそのものを大事にすることが、私たちにとって一番に大事なことなのだと思います。
未来を追いかけ、希望を語ることよりも、きっと『今ある幸福』に気づいていける人のほうが幸せなのだろうな、と。
ツインレイの期間で、世の道理に気づけよと学ばされているような気がします。
幸福とは何か、足るを知ることなのでしょうね。
私たちには希望もありませんし、絶望もありません。あるのは『満足』でした。
ないから欲しいと思う。でも、持っている。
持っているのに気づかないから満足がない。満足があれば光は拡大する。