ツインレイの学びとテーマ『アダルトチルドレンの克服』大人になるってどういうこと?

| Ⓒ なとり

sponsor link

ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

kindleの読み放題Kindle Unlimited30日間の無料体験』では、ほかの三冊も同時に読み放題


ツインレイの学びは人それぞれ違うのかもしれない。だけど、私たちが『大人になる』ために必要なことはほとんど同じことなのかもしれない。

ツインレイたちは、絶対的にアダルトチルドレンにある。理由は幼少期の精神的な事故が起こったために、その事故を克服するようにして精神の異常をきたしている可能性がある。

私たちは、

  • 肉体による年齢
  • 精神(表面意識)による年齢
  • 潜在意識による年齢

というような、いくつもの年齢を抱えて生まれてきている。

私たちの中でも肉体の年齢で生きている人たちもいれば、精神による年齢で生きている人たちもいる。そしてもちろん潜在意識により生きている人たちもいる。

この三つの年齢のうち、魂年齢と呼ばれているものが『潜在意識による年齢』として考えられているかもしれないが、私の考え方では、またそのうえに魂の年齢というものが存在しているのではないか——と思っている。

潜在意識による年齢とは『霊魂による年齢』であり、ツインレイたちのなかでも『肉体年齢』『精神年齢』『潜在意識年齢』により違ってきているのではないだろうか。でも、どれもツインレイのように感じられると言うことだ。

私自身は精神年齢によるツインレイの相手が地上のツインレイ偽ツインレイのステージ)、潜在意識年齢によるツインレイの相手が楽園のツインレイとして捉えている。

sponsor link

アダルトチルドレンと子供と大人の違い

大人になっても子供のままである——ということだけれども、アダルトチルドレンを指し示すのは『肉体年齢は大人に差し掛かっているけれども精神年齢は子供のまま』ということである。

アダルトチルドレンと大人と子供の差
肉体
年齢
精神
年齢
潜在意識
年齢
子供 子供 子供 子供
アダルトチルドレン 大人
(魂の小学生)
子供
(魂の思春期)
子供
一般的な大人
(地上のツインレイ)
課題
死と再生
大人 子供
(魂の青年期)
霊魂の大人
(楽園のツインレイ)
循環 課題
死と再生
大人

ピンクの枠が地上のツインレイの成長で、オレンジ枠が楽園のツインレイの成長にある。

 

上記の表で表している『大人』と『子供』の違いだが、青年期を終わらせたのか、終わらせていないのか——に関係している。

霊魂の大人からすれば、一般的な大人はやはり子供だし、アダルトチルドレンも子供にみえる。

一般的な大人からすれば、アダルトチルドレンは子供に見える。

子供の時代に私たちが傷を負うことによりアダルトチルドレンとなるが、その傷を克服していくことにより、一般的な大人へ進むことになるが、子供時代に傷を負うことがなければアダルトチルドレンにはならない。

この差は、魂が自分の持つ潜在的な意識を世界へ転写しているかどうかによりきまっている。

つまり、一般的な大人がアダルトチルドレンよりも世界では大人のように見えるが、実際はアダルトチルドレンのほうが霊魂としては大人であり、親の力を借りずに大人へ自力でなっていく課題を抱えて生まれてきたともいえる。

魂の小学生・思春期・青年期

魂年齢がどこでわかるのか? というと、自分の『大人になる感覚』がどこで受け取れるのかなのかもしれない。

魂の小学生の段階で人間的な大人になると、早い年齢の段階(22歳らへん)で現実を受け取ることになる。大人になるとは『経済の問題』や『家族や結婚の問題』などを抱えるようになる。

魂の思春期の段階で人間的な大人になると、二十代後半らへんで現実を受け取ることになる。

魂の青年期の段階で人間的な大人になると、三十代半ば以降で現実を受け取ることになる。

この現実を受け取ることで『大人』の状態になるため、それまでは現実を見なくても大丈夫なように救済措置をされているようにも感じられる。

それは『無価値化』にあって、自分が無価値であることを受け入れていく度合いが高くなればなるほど、救済措置がしっかりと成されている感じ。(そりゃ無価値に自分が成れば価値を提供されるよね。自分に価値があれば価値は提供されない。)

人としての成長は『どの深さまでの無価値化』にあるのだと思われる。

この無価値化が進んでいく段階が歳を重ねるごとに深くなり、しかし、その深さは最初から『潜在意識の無価値化をやれ』っていう話ではない。成長段階に差し掛かっている人たちは「もう少し上の無価値まで受け入れてみよう」ってことになっている。

で、この無価値を受け入れていくことにより、最終的には『価値化(セルフ・個性化)』へと到達していくことになる。

無価値にできるのも『人間的無価値』『精神的無価値』『潜在意識的無価値』まであって、それぞれの無価値が成立した領界までが個性化が図れることになる。

 

最終的にどこで『現実的な価値』のほうへ目を向けることになるのか——の段階により、魂年齢を理解することができるように思う。

そしてそれがどのベクトルの『真価』を見ているのかどうかである。

sponsor link

地上のツインレイはアダルトチルドレンが大人になること

地上のツインレイの課題は、精神年齢をアダルトチルドレンから大人になることにある。

これは『恋愛依存の克服』にある。また、恋愛依存状態になければ、自分で自分の精神を自ら育てる経緯が生まれない為、私たちはアダルトチルドレンとして生まれてきているともいえる。

これは大人になっても子供としても言えるが、同時に大人の状態になっても子供を維持することで成長の伸びしろを伸ばしているとも言葉にできる。

つまり、地上のツインレイの段階で恋愛依存を克服することは、自らで自らの精神年齢を青年期から大人へ駒を進めていく修行のひとつのように感じられる。

 

地上のツインレイの学び・テーマとして『肉体における無価値を受け入れること』があげられる。

肉体における無価値とは、私たちは育ちの家庭で『価値がない』とされてきたことが関係してアダルトチルドレン&恋愛依存となる。この恋愛依存の構造から「自分には価値があることをツインレイの相手から確認したい」という肉体レベルの確認行為を行っているともいえる。

つまり、自分には価値がないことをダイレクトに理解し、受け取り「自分には肉体的な価値がない無価値を受け入れる」ことで、私たちはツインレイの相手を通してエゴ(自分の肉体レベルでのこだわり)の手放しを行っていく。

無価値ではないと思っているかもしれないけど、価値がない自分を受け入れる経緯で私たちは地上のツインレイを相手に『自分には価値がない事実を受け入れること』をしている。

 

で、この肉体レベルの無価値を価値があるとして認識したいが為に、楽園のツインレイの関係性は肉体から始まっていくことになる。これが恋愛依存症の根源にある心理にある。

本来ならば、青年期の段階で無価値な自分を受け入れる段階がある。しかし、親に与えられた無条件の愛をしっかりと与えられている人たちは「価値がない自分に価値がある」と感じられるところがある。(これが健全の精神にある。)

しかし、子供時代からなにかの心理的な事故により、価値がないことに気づいてしまっているアダルトチルドレンたちは『自分の価値を追い求めて生きている』状態になるため、恋愛依存に陥りやすいということだ。

他者にとって自分は価値がないことを受け入れられるようになると自意識過剰が落ち着くようになる。

自意識過剰って結構わかりやすくて、ブログを運営する上でも「誰かに攻撃されることを大前提に考える(ゆえに行動できない)」とかが当てはまる。いや、他人はそんなに自分に興味ねえからってことを知らない。

HSPも自意識過剰の問題があるところから、地上のツインレイの課題中の人はHSPかもしれない。

傷つきやすいってことは、そこに『自分には傷つくだけの自分が存在している』ということでもあり、それが自意識過剰でもある。自分は傷ついてはいけないほどの偉い人間だといっているようなモンである。

地上のツインレイの課題を克服すると大人になり結婚ができる

地上のツインレイの課題を終わらせると、当人は『大人』になる。地上のツインレイの相手といっしょにお互いが大人になれるのであれば、ふたたび再会したときに結ばれるかもしれない。

だけど、お互いがいっしょに成長することが無ければ、そこでさよなら。その場合、お互いがお互いの伴侶が次に存在しているからこその離別になる。

本来の人間にとっての結婚としては、この段階が望ましく。一般的な大人にようやくなれた段階だからこそ「現実的な結婚の許可」がでる感じだろうか。

アダルトチルドレンのままだと結婚ができないっていうわけでもないんだが、ここには『離婚』『不倫』『関係性の不和』というような結婚したふたりの関係性が悪循環に陥ることになる。

理由として、アダルトチルドレンのままの結婚とは親子で結婚をするようなものでもあるから、ふたりの関係性は親子となる。

親子ということは、そこに依存が生じるためにある。

恋愛依存をするなかで回避依存と共依存が生じてしまい、ふたりの関係性は依存関係となる。回避依存側は伴侶から逃げ出したくなるため不倫の道へ進んでしまったり、それにより共依存側が大ショックを受けたりなども生じる。

つまり穏便な家庭環境とは言えないだろう。

 

この段階で一回死にかける。理由は『肉体による死の克服(死の恐怖の克服)』を迎えなければならないから。肉体による死を克服しなければならない。

死の恐怖の克服なので、恐怖を感じない死は特に意味がないのだと思われる。(こっちは多分、罪の関係性かなと思う。人に悪意を振りまきまくってると事故ったりする人いるよね。人を殺しまくってると自分が殺されるっていう話だな。)

sponsor link

魂的には思春期である

地上のツインレイの段階は、魂的には思春期に当たる。

霊魂的に思春期の段階を抜けていこうとするツインレイたちはテーマが『究極の恋愛』に視点があてられるようになる。思春期だからだ。兼ね合いが理想になってくる。

理想的な恋愛と結婚。

霊魂的に『結婚の許可』がでるのは思春期である恋の経験を済ませた後にあり、地上のツインレイの相手って『理想の恋愛相手』であるケースが多いということだ。初恋は実らないのである。

ただ、霊魂的に思春期前でも結婚はできる。だけど、霊魂の課題が『魂が青年期に育つ』ことにあるとき、霊魂は先ず思春期の課題を終わらせていかないと結婚にたどり着かないとも言える。

楽園のツインレイは潜在意識を大人にする

楽園のツインレイへ到達していく経緯で、ツインレイたちは精神年齢を『大人』から『死』へと向かわせていく。

理由だが、もうひとつ上の『霊魂の大人』へと向かうとき、ツインレイたちの精神はそもそも『大人』ではなく『老人越えて死ぬ』段階にまで差し掛かっていかなければならない。

ゆえにこの段階では無私を目指す。どんどん自分を殺していき、最終的には自分が存在しなくなる段階にまでなる必要性がある。いわば、他者による自分を構成していくことになる。エゴの手放しというが、手放しなんて生ぬるいもんじゃないことは書いておく。バキバキと自分を殺して滅し、ボッコボコにしていく経緯である。この段階の人は確実にドM精神がある。

最終的に楽園のツインレイによる第二サイレント期間の始まりの段階で『無私』が完成されていくことになる。

肉体的にも『死』の段階にもあるが死の克服が終われば再生でもあるから、若々しい人が多いような印象だ。再生のために必要なものを提供されるケースが多いように思う。(子供っぽいのとは別である。)

 

潜在意識が大人になるとは『魂が大人になる』ということでもあるため、ツインレイたちは『魂の恋愛をしている』ようにも感じられる。

楽園のツインレイはアダルトチルドレンなのか?

語弊が大きく出てくるかもしれないが、楽園のツインレイたちは精神的には成熟している大人の人として定義される。なんなら老成され『死』をも迎えているからこそ、精神的には無限な雰囲気が感じられる。(おおらかであるとも言える、あんまり頓着もない。)

だけど、楽園のツインレイは『魂の青年期時代』をも迎えている為、ある種のひとつの側面からはアダルトチルドレンっぽさがまだ残っている状態にある。

これは育ちの段階における精神のすべてを凌駕するようにもなる(0歳からのこと)ためにある。

冒頭に書いたように、私たちは『肉体』『精神』『潜在意識』の三つの種類の世界観の違いが存在する。どの世界観を軸にして生きていくのかにより、私たちの視点は変わっていく。

精神の世界観の軸で年齢を考えているとき、潜在意識により生じた心の傷やアダルトチルドレンになる原因についても特に問題視されないことになる。何なら特に気にならない領域のことである。

しかし、潜在意識による軸により年齢を認識している人たちは、潜在意識に存在しているアダルトチルドレンの傷に気づいていくことになるため、ある種、アダルトチルドレンなのである。

アダルトチルドレンの認識が『精神』なのか『潜在意識』なのかによって違うが、楽園のツインレイは特にアダルトチルドレンとは認識されないほどの精神性の高さを感じられるのではないかと思われる。だってこの世の精神ではなく年齢の概念も存在していない状態だから(精神の死)。

つまり地上のツインレイはアダルトチルドレンだけど、楽園のツインレイはアダルトチルドレンっぽくはないけど、ツインレイの前だけではアダルトチルドレンになる感じ。

sponsor link

楽園のツインレイは魂の青年期

魂の青年期では『精神の死』と『潜在意識を大人にさせる』ことが望まれる。つまり、魂が青年期から大人になっていく経緯にある。

それは私たちの一生を視野に入れることができ、また自分のなかに存在する『潜在意識へのコントロール』を可能とさせていくんだろう。

魂の青年期では『精神論を突っ走る』とか『自分の想いを暴走させていく』とか。つまり、青年期特有の「自分のやり方は正しい」という生き方をしても見るし、だけど、それは「間違っている」ってことも受け入れていくことになる。

私は道徳に傾倒して、そのなかで生きていたが、もうひとつの角度では間違っているんだなって事実を受け入れたりなどもしたが、現実的に視る視点を放棄するわけでもないから「生きるための正しさ」みたいなものなどにも認識が強まったりもする。

自分が間違えていることを受け入れることの難しさや、相手が正しいことを受け入れることの苦しみ。そして、どっちも正しいしどっちも間違えている視点を得ていく経緯だ。

 

魂の青年期でもあるが、潜在意識の段階にあるため「潜在意識の父」やら「潜在意識の伴侶(ツインレイ)」などと向き合いながら自分の青年期を抜けていくことになる。

青年期では『異性性』をも受け入れたり、性別がはっきりもしていく段階でもある。男の子だと声変りが始まったり、女の子だと生理が始まるような感じ。

私の場合、生理が始まったというよりも卵管に気づいた、とか。そんな感じの気づきにもあったように思う。

ツインレイは子供のことだよ

どの年齢まで『子供』でい続けられるのかである。

たとえば、地上のツインレイの段階で『精神の大人』へとアダルトチルドレンを脱却することになった人たちは『全体的にこれで大人』であるため、ここから現実と向き合っていかなければならない。

楽園のツインレイの段階で『魂の大人』へと向かうことになった人たちは『これでようやく大人』であるため、ここから現実と向き合っていかなければならない。

実は『大人』ではないのがツインレイなのである。それがどの軸においての世界線を生きているのか——によって、子供でい続けられる年齢が変わってくる。

私の感覚だと、普通の人生における大人とは22歳ぐらいで『大人』として認定できる。人相学で言えば親の顔ではなく自分の顔を得たときが肉体の大人である。(ここで大人になりたくないと抗うと精神疾患的になる。)

地上のツインレイの課題を克服することになれば、二十代後半に『大人』として認定できる。精神的な大人は約25~30歳前後で成立するということだ。

楽園のツインレイの課題を克服することになれば、三十代後半に『大人』として認定できる。魂的な大人は約35~40歳前後で成立することになる。

人間の年齢と大人になる段階
実在年齢
肉体的な大人 22
精神的な大人 25~30
潜在意識(魂)的な大人 35~40

これは私たちの一般的な指標になる年齢にある。また、なにをどこかで育てるのか——によって年齢の時代によっても違うということだ。

肉体的な大人の肉体の年齢により生きている人たちはここで結婚をして子供を産んだりする。

精神的な大人になろうと思っている人たちは、25歳から30歳あたりまで独身で仕事をしていたりする。この段階で『大人』になれるかどうかはまた別問題でもあって、課題をこなすことにより魂の思春期から青年期へ課題があがっていくが、特に思春期のままでもここで結婚することも可能である。

潜在意識的な大人になっていく人たちは三十代に課題へと入っていくが、その課題をこなす人もいればこなさない人もいる。課題をこなしていく人たちは仕事をやめる方向性へ向かうことになるだろう(無私の道へ行くからアイデンティティの拡散から仕事をやめるの方向性へ向かい、全体的な無価値化を始める為、自分が何か『社会的に価値がある』とされるものをすべて奪われていくことになる)が、特にこの道に進むことがない人は働いている感じ。

この上の段階の課題をこなしていくとき『確実に大人になる確約を得た人』は上の段階へステージをあげていくが、特に大人になったわけではない子供の名残のようなものが強い場合は、うえの段階のステージで前回と同じ課題をこなそうねって話になる。

たとえば、地上のツインレイの課題の段階で恋愛依存の脱却という精神的に大人になる課題があったとして、その課題が確実に大人になれなかった場合、次の恋愛でももちろん再び恋愛依存が生じるのが関の山。

ということで、同じ課題を再び提供される。エンドレスってことだ。

ここで『誰かの手伝いを得たらいけない』という話なんかもあるんだが、実際の問題はそこじゃない。誰かの手伝いを受けることは現象に過ぎず、大事なのは「自分の精神が成長したのか」という視点にある。それが大人になったのか。

手伝いによって、自分の精神的成長が言いなりによって自分の経験がこなされなかった場合は、そりゃ落第である。だが、精神的成長が人の言葉によって「なるほど、じゃあやってみて、自分で考えてみよう。」と身にしていく人たちもいる。

アドバイスを『アドバイスという他者のひとつの意見』として捉えるのか『自分の意見にすり替えるのか』によって違う。いわば、ここが自他認識の違いに関係している。

だから、ツインレイの皆さんが援助を受けることは問題ではないと考えている。だけど、それによって「自分の行動を自分で決めない」「自分がどうしたらいいのかを人に決めてもらう」というのは問題である。

ちなみに私は「人にどうするのかを押し付けられても、すんなり受け入れる」のだが、そこに何か問題が生じたとしてもそれは自己責任として背負っているので問題がなくなる。

問題があるのは「おまえのせいで」という人のせいにする意識にある。すべてにおいて自己責任を負うことが必要であり、自分が選択した答えが他者の答えだったとしても、もしそれで人生のしくじりをしたとしても、人のせいにしない意識が『大人になる』ってことに繋がっている。

人のせいにするとき、私たちは『子供』なのである。相手は『親』として認識している。

 

それが肉体レベルで子供の時、自分の行動責任を他者に押し付ける。(自分の行動は相手により動かされていると誤認すること)

それが精神レベルで子供の時、自分の精神責任を他者に押し付ける。(お前のせいで傷ついた、自分の感情の発生の根源が相手にあると誤認すること)

それが潜在意識レベルで子供の時、自分の潜在意識の責任を他者に押し付ける。(お前のせいで自分の人生が終わった、とかね。)

 

別に人に支持されてそれに乗っかってもいいけど、それは『自分の意思で決めたことだよね?』って話を突きつけられたとき「自分の責任じゃない」とのたまうのが子供ということ。