幻想世界(夢を見続けている世界)の欲望・魔・承認欲求について

2023-06-15

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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二極化世界は進み、夢を見続けている世界と、そして目を醒ましている世界のふたつに分離することになった。

その現象が「いかなることなのか」についてを私のなかでの結論をだすことができた。

夢を見続けている世界の住人は『幻想・二元論』のなかに存在し、目をさましている世界の住人は『幻想から逃げ出した』人たちであることだ。

そして、『欲望』『魔』についてをまだ言及をしていなかったような気がした。

前回の記事でどこかに『承認欲求』の文字をいれたような気がするが、そもそも承認欲求って何なのかをまず知らねばならない。

 

私たちは人生を生きている。その経緯で経験をつんでいる。その経験は私たちの過去になる。その過去を『どのような形にしたのか』が私たちの存在を確立していく。

私たちの『存在感』とは、過去が存在すればするほど、存在が確立する。しかし、過去が存在しない人たちもいる。過去を捨てる人たちだ。彼らは自分たちが生み出した経験をなかったことにし、すべてを人に押し付けることにより、経験を構築することをしてこなかったともいえる。(自分は悪くない、人のせいにする)

二極化世界では、幻想側では『存在感がない・過去が無い』存在であり、覚醒側では『存在感がある・過去がある』存在となる。

存在感がない、過去が無い人たちは、もっとも言及すると経験がない。経験がないからこそ二元論に陥ってしまうというロジックが成立する。

私たちは経験によって構築してきた過去があれば、今そこにある問題に対しても『テーマに対しての自分なりの回答』を持つことができる。

図の説明:

幻想者はテーマに対して経験がないために、判断をすることが出来ない。ゆえ、覚醒者に依存させ、その意見を『否定』または『肯定』という形をとる。

このとき、否定側に偏るとき、私たちは『覚醒者と違う』と認識する。その認識により『自分は間違っていない』と考える。いわば、自分を否定されたような気分になるのである。

しかし、彼らがしているのは覚醒者の意見を否定している。他者を否定しているが、自分を否定しているに過ぎない。

結果、彼らは『承認欲求』を覚える。

覚醒者に認められたいがゆえに、その意見に対して否定や批難等を述べ、存在を欲するのである。

また、肯定側は『安心』を覚える。そして、その安心により「このままでいいや。」ともなりえ、肯定した意見をそのままコピーし、真似る。真似てコピーしているだけゆえに、覚醒者が培った経験が伴わないだけ、その意見は穴だらけとなり「あの人がそういっていたから、これは正しい」というカタチに着地する。

コピーや真似をしたとしても、そこに意見は存在しない。

 

いわば、彼らの『承認欲求』とは、存在を欲求しているのである。

図の説明:

この承認欲求は、肯定側は「自分はできている・わかっている・やっている」という過剰なる自己肯定により生まれる。ゆえ『褒めてほしい』と言う承認欲求が生まれる。

否定側は「自分は正しい」という過剰なる自己肯定により生まれる。ゆえ『相手の意見をすべて壊し、相手をなかったことにする』ように働くような承認欲求が生まれる。

この現象は多くインターネットに見受けられる。

が、この承認欲求による行いは簡単に見て透けるものだ。

いわば、それが『反射』である。

 

テーマに対して覚醒者が意見を述べたとする。今回の一件でもいい。

承認欲求に対して私はこう考えているとこの記事で述べている。その意見に対して『否定する』『肯定する』という思考があるのかどうかである。

『自分のケースに当てはまる』『自分のケースに当てはまらない』。この時点で時すでに『否定と肯定』が始まっている。

そして、次に『自分の意見を伝えたい』『自分の意見をぶつけたい』等の行いに走ったとする。いわば、相手へ自分の意見を伝える行為である。

ほかにもインターネットにはブログやツイッター、SNSなど発言の自由がどこにでも転がっている。そこで反射的に『この人はこう言っているけど、自分の意見はこうだ。』と伝えたいと思った瞬間、それは承認欲求である。

これが反射である。他者の発言や行動に即して自分の発言が始まることだ、黙れないということ。聞いてもいないのに発言をする権利があると自分に思っている、否、何も考えていないから反射を起こす。そこにある自分の欲求に気づけない。

他者を理由に行動に起こしたとき、すでに私たちは『承認欲求』という欲望に踊らされているのである。他人が語っているテーマに『のまれた』のである。のまれた瞬間、私たちは幻想者である。(他人が何を語っていようが、私たちは関係がない話である。もし、それが今時分、向き合っているテーマならば引用されることはあるかもしれないが、ささやかな引用で済まされる。引用内容を『お題』にしてはならない。テーマに対しての引用であり、引用に対しての否定や肯定をするとき、それは引用ではない。肯定のときは転載、否定のときは侮辱にあたると思われる。)

自分には存在が無いと認めたとき、私たちは承認を求め許可がなければ存在することが許されない。これが幻想者にあたる。

私のお問い合わせには多くの方から感想、「あなたの意見は正しい」とか「あなたの意見に賛同する」という肯定的なものが多い。それを聞いて、私自身はソツなく向き合っているつもりだが、私にとっての正しさが他者にとっての正しさであるわけがない。

だからといって「あなたの意見は間違っている」と言葉にして伝えられたとき、私はそこに『神』を見つけ始める。

この人は『世の中の理を全て把握している存在なのか、絶対神か』と。いわば、肯定者も同じである。知っているから正解を基盤として否定と肯定をすることができるということだ。

幻想者たちは多くが神である。私からすれば目も当てることできないほどの神々しい神である。そんな神々を直視することが出来ない結論をだした。(だから私は神をやめているのだと思われる。)

 

いわば、経験がない。幻想のなかで走馬灯(もはや砂漠の蜃気楼ですらなくなった)を見続けている幻想者たちにとっての経験は積み重なっていくことはない。

なぜならば『等身大の自分』を受け入れ、自分が『何をしているのか』の事実を背負っていないからだ。

しかし、彼らはアバターである。自分を飾り付けては多くの嘘を吐き続けている。それは『自分に嘘』をついているのである。他者ではない、自分に嘘を吐いているのである。

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少々気になっていたことがある。

一時期、どうぶつの森のアプリが流行ったとき、私はピンクのヘアーにしてカンカン帽をかぶせていた。ピンクの髪の毛が可愛いからである。名前も勝手につけて楽しんでいた。

しかし、多くの人たちが自分のアバターを『自分に似せていた』ということ。

どうして? アバターなのに。ゲームなのに、どうして自分に似せる必要性があるのか。この子と私は別の存在だよね。

今でもこの疑問は自分のなかに残っている。

幻想者とは現実と幻想の違いに気づけないことにある。同一視だ。

この世界はゲームかい。だからリセットボタンを押せば、すべてをなかったことにできる。やり直しができる。

 

「自分はどうだったっけ?」とか考えたときの回答が「似せていた」「似せていない」と思った瞬間、二元性に思想に陥っている。

「似せていた」ことにショックを受け、「似せていない」ことに安堵を覚えるとき、それは善悪二元論の思想に陥っている。

それを誰かに伝えようと、SNSで自分の意見をアウトプットしようとした瞬間、承認欲求に踊らされている。

私たちは知的生命体の宿痾をもっている。二元性の宿痾だ。しかし、その思考には『意味がない』ってことに気づかねばならない。

似せていないことが正解だったなんでどうだっていいことだ。それは私が「そうしていただけ」の話。

私は正解ではない、そして不正解でもない。アバターと似せていない私と言うゲームの遊び方がそこにあった、それだけ。

 

私の人生と比較して過去の自分がどうだったかを考えることに意味はない。

「これからどう生きるのか」を考えることに意味がある。それが『経験』である。

私たちは別の意見を聞いて、そのなかで『じゃあ自分はいかにいきるか』の答えしか得られないはずだ。しかし、その経験に対しての正解と不正解を求めては幻想のなかへ陥る。

私たちは欲求に踊らされていることにすら気づけないほどに幻想のなかにいる。

正解を求めて生きれば生きるほど、欲求が膨らみ、承認されなければ存在が出来ないほどにカスミとなる。

そんなとき、インターネットは心地よい世界となる。私たちは、このインターネットで承認欲求を満たし続けようとしている。

 

 

 

ツインレイはやり直しのリセットボタンではない。