親への恨みや怒りをレイキヒーリング『愛と憎しみの表裏一体を統合する』
私自身は、あんまり親に対して『怒り』『憎しみ』のような負の感情を抱いていませんでした。
というよりも、負の感情を抑圧させ、感じないようにさせていたというのが一番に正しい表現なのかもしれません。
親に向けた怒りをうけいれてもらえるわけでもありませんし、憎しみを抱いたところで誰も救われません。
ですので、私自身は『怒り』『憎しみ』を私から分離させ、抑圧させました。
そういった負の感情なども、レイキ中には受け取っていかなければならず。
それは深い悲しみでした。怒りや憎しみももちろんありますが、根底にあるものは深い悲しみです。
とりあえず、レイキ中にわかったことだけを書いておきます。
親を愛していた分だけ、私たちは憎しみを抱きます。
子供にとって親を愛することは、親が不出来であることなのだと思います。
たとえば「親に育ててもらったことを感謝する」等のことも、憎しみを抑圧するときに見受けられる表現技法のひとつとしてあるかな? と思います。
育ててもらった実感がない子ほど、育ててもらったと感謝するかもしれません。
親を愛している分だけ、子供は親を憎むものかなと思います。
親を憎む人ほど、親を愛し続けてきたのもひとつの道理であり、その憎しみをどのように解消するべきかがなかなか難しいものかなと思いました。
憎しみは愛と共に育ちますが、その愛は犠牲となることです。
親の犠牲となった子供たちは、憎しみと愛のふたつの板挟みとなって苦しみます。
自分が親を愛しているのか、自分が親を憎んでいるのか。自分自身のなかでふたつの葛藤が生まれ『生んでくれてありがとう』とか『育ててくれて感謝している』という、感謝をしなくていいことに対して感謝をしていくことで自分の心を保ちます。
そういった人たちのなかでは『愛』と『憎しみ』の葛藤の間に『感謝』を持つことで、憎しみをなかったことにしようともしているのだとは思います。
ゆえに「自分が憎むべき対象にすら感謝する」ようなことが起こります。
わからなくなるのです。何を憎んでいるのかすら、わからない。憎しみが分からなければ、誰を愛しているのかすらわかりません。
犠牲により生み出された愛は、裏側に憎しみがちゃんと眠っています。その憎しみを親は受け取れません。
子供が抱く感情を親が受け取れずにいるからこそ子供は苦しみます。そもそも親自身も自分の親を憎んでいますが、その憎しみを受け取っていないからこその継承が起こります。
そして、社会は「親に感謝しましょう」と言いますが、私たちのなかには俄然、憎しみという鬼と、愛という死体が横たわっているなか、感謝をしなければなりません。
殺してくれてありがとうって。
感謝したくなったときこそ、私たちのなかにあるものは愛ではなく、憎しみを消そうとする意識です。
しかし、感謝しても憎しみは消えません。だからこそ、私は感謝しなくていいと思っています。
親に感謝をする異常性を理解しているからです。
親に生んでくれてありがとう。本来、通常に生きている人が感じる感覚ではありません。レイキをやっていると感じることもありますが、通常に生きている人が親が勝手に生んだことにたいして感謝をする必要性はありませんし、その思考を持ちません。
だから、先ずは感謝をやめていくことからなのだと思います。
そして、憎しみを親は受け取ることは出来ません。親が自分で抱えることが出来ないから子供が継承され、憎しみを抱いているのです。
憎んでいるんです、親は自分の親を。
そして、私たちも自分の親を憎むようになっていきます。
しかし、気づいたのであれば、ここでは憎しみを自分で受け止めてあげることが大事なのだと思います。
親に「憎しみを理解してもらいたい」「怒りを知ってほしい」等のことがあるとき、それは精神的自立が成立していない状態です。
精神的自立を迎えた後であれば、憎しみや怒りもすべて、自分のものとして背負うことが出来ます。
もちろん、憎しみや怒りを解消しきれれば、精神的自立も促されますが、それを誰にぶつけても解消は出来ないかと思います。
私たちは、犠牲的な愛を持つ代わりに、憎しみや怒りを抱いています。だからこそ、次世代に犠牲という愛を教えない為にも、憎しみや怒りを肯定し、受け入れて生きていく必要性があります。
誰かが犠牲となるとき、そこに怒りを感じ支配者を憎みます。それは私たちが誰かを守るために持っている正常な感覚へと切り替わっていくことになります。
犠牲的な愛を主人格としている人たちは、憎しみに気づきません。幻想のなかに生きていきます。
憎しみを主人格と同化させている人たちは、犠牲的な愛に気づいていません。幻想への憧れと劣等を抱きながら、幻想を否定します。
真逆の気質を自分自身のなかに認識することはなかなか出来ません。
もし、意志を持って犠牲となった人の場合は、もうひとつの『意志ある人格』が生まれるために、犠牲的な愛にも憎しみにも気づきません。
いわば、二元性により生じる愛と憎しみの中心にも『意志』という軸が生まれたとき、私たちは愛や憎しみという両天秤の領域から抜けていくことになります。
最終的には、意志ある人格が、犠牲的な愛を吸収し、次には憎しみを吸収していきます。
人の為に意志をある人格を構築したとしても、最終的には自分のなかに愛と憎しみが認められれば、それは自己のなかに吸収されていきます。
吸収されていくことにより、統合人格とします。
先ずは気づいていくことからです。自分のなかに眠っている憎しみにも、愛にも気づき。最後は受け入れていくことで統合されていきます。
受け入れるにはなかなか心の準備がいるものかもしれません。
誰かを憎むことが悪であったり、誰かの犠牲になることが悪であるとき、それは受け入れることが出来ていません。
あなたの前に、自己犠牲を愛としている人が現れて嫌いになるかもしれません。
あなたの前に、誰かを憎んでいる人が現れて嫌になるかもしれません。
ですが、嫌になっているのは、あなたのなかにある自己犠牲の愛、そしてあなたのなかにある憎しみを嫌い、排除しようとしている意識が善悪思想に縛り付けてきます。
『そこ』にあるものはすべて『あなたのなかにあるもの』です。
あなたのなかにあるものをすべて、他者が体現してくれている。
相手の存在を認め受け入れることから始まります。
自分で自分のなかにある感情に気づいていくことはなかなか難しいです。特に分離しているものには。
しかし、いつだって目の前にいる他者が教えてくれています。他者からしか私たちは自分を学ぶことが出来ません。
嫌悪は投影による結果です。しかし、嫌悪を受け入れる意思があるとき、統合者へと向かっていきます。