ツインレイへ残す、否定と肯定のロジックで幻想を終わらせる方法(サイレントが終わる人は終わるよ)
もう私自身は使わないのかな、と思う幻想の打ち消し文を残しておく。
幻想は強い肯定のみにより生み出される。
つまり幻想は肯定により助長される。
いわば否定がない。だから幻想は打ち消しにより消える。
私はツインレイである。
が肯定ならば、ツインレイの幻想から抜け出せなくなる。
だから、私はツインレイではない。
っていう否定によりツインレイの幻想から抜け出せる。
肯定したら否定する。これで幻想が消える。
自己定義は自己否定を一緒にやらないと現実性を失うから、定義した時は否定をできる精神的な強さが必要。
肯定と否定はそろうと幻想は消える。
つまり幻想は肯定のみとなっている偏りにある。同時に現実に対しての否定がある。
精神が幻想となるとき、現実を否定している。
現実を呼び起こすには幻想を否定するしかないが、現実からの逃避によって幻想空間に入っているから、幻想の否定に耐えられないケースが多い。
現実逃避とは幻想肯定である。また現実否定。
ひっくり返っている。幻想を否定すれば現実を肯定できる。
ツインレイである、は受け入れられるが、ツインレイではない――が受け入れられない。このとき、現実逃避している何かがある。
ツインレイではないを肯定できると、ツインレイの幻想空間を抜け出し、今まではなんだったんじゃーってなる。
逃避している現実を受け取れるようになる。
アイデンティティとなっている一体的なものは否定を否定することで肯定すると真逆の自分(ツインレイの相手)を内包できる。
私はツインレイでしょうか。
という疑問は自己定義ができていない。つまり否定でもないし、肯定でもないんだが、聞いてくる限り、否定と肯定のどちらかを望んでいる。
たいていは肯定されたい。なので否定されると幻想は打ち消しに合う。
サイレント中に現実逃避している理由が何かしらある。
何から逃げているのかが分かれば、たいてい終わる。
ツインレイの相手にサイレント中はなっているから、どのように現実性を取り戻せばいいのかがわからない。
今までの自分のやり方は通用しないから、立ち戻り方が難しいかもしれんが、とりあえず、打ち消し文を使えば現実は取り戻せる。
あと自分の恐怖や不安とか。そういうものに気づいていき、恐怖と不安の打ち消しをすればいい。
たいてい妄想。そんで打ち消しすると現実が動く。
現実が動かないのは、打ち消しするべきポイントに気づきにくいからかもしれん。
あと「サイレント慣れ」みたいなものがあって、このまま――を維持し過ぎている。
変化を何かしら起こしてみないことには現実は変わらない。
自分の行動があってようやく未来が成立する。欲しい未来は行動からしか生まれない。
サイレントのままを維持しようとしているとき、たいてい何かが怖い。その恐怖は妄想ですか? っていう現実ではない現実に怯えている状態がある。
起こっている現実よりも自分の脳内の現実を現実だと捉えている時、話が進まない。
とりあえず、否定力が必要だと思われる。
自分が正解だと思っていることが間違いである可能性については常に危惧しておく必要性がある。
私のなかで持ちよらせていた否定と肯定のロジックだけれど、なんかもう使うことはないのかなと思った。
私のなかには自己肯定と自己否定の両立が出来上がっているぽい。
だからもう、これは必要が無い。常に打ち消しあうから、否定と肯定による主軸の定義を必要とせんのかもしれん。
つまり定義が不必要になってしまったかもしれん。
定義に対して否定と肯定させてたから、逆に両軸が構成されれば、無定義っていう世界観が生じてしまう。
んでひっくり返したような気がする。
単純に、どうするべきかだけがわかる感じ。
ただ、このブログ。ツインレイのブログだし、ツインレイとして書いてきたのもあるもんだから、ツインレイとして定義してきたんだが、ここに来て無定義ゆえに、ブログ、、どうなるんだろうって思ってる。
定義しきると、真逆に無定義が生まれる。
定義しない世界にいくには、定義しまくって否定と肯定で打ち消し合いのロジックを自分のなかに構築するしかないのだと思われる。
無定義の世界に進む。
その都度の臨機応変の対応力を発揮するのが無定義の世界。つまり個を見て対応する。
都度、何が必要なのかは皆違うから。
定義の段階で、否定と肯定で定義し続けたことが幸をなし、無定義の臨機応変に対応が可能になる。
個別対応が可能になる。
簡単に言えば、人って否定に弱いよね( ˇωˇ )否定されたくないから、なんなら肯定されたい生き物なんだと思う。
自己否定で自分が『信じているもの』を打ち消して見ると、現実逃避している自分がひょっこり顔をだす。
そこにあるのは信仰であって、信じているものは幻想だよ。信じているから幻想になっているとも言える。
それは当人にとっての真実ではあるかもしれないけど、共通認識による事実とは異なると思われる。
それを幻想世界にいると言う。