次元ごとによる視点の違いと次元の学習の解説(ツインレイはすべての次元学習に存在している話)
それぞれの層では、それぞれの層においての『視点』が設置されており、その視点を内包していくことにより、次元を上昇させていく——となっている。
次元別にある愛情のカタチ 象徴 心の体現性 マイナスの体現性 0次元 自分 自己愛 エゴイズム 1次元 異性 異性愛 エゴイズム 2次元 他者 博愛 エゴイズム 3次元 意識 愛 エゴイズム 4次元 無意識 心 エゴイズム 5次元 無 無 エゴイズム
私たちは常に、1次元から5次元までの領域を理解している。
- 1次元の異性
- 2次元の他者
- 3次元の意識
- 4次元の無意識
- 5次元の無(神)
という5つの概念を『他者』という概念や『意識』という概念のもとに認識している為である。
しかし、私たちはこのように感じている。
異性を思い通りにすることはできない、他者を思い通りにすることは出来ない、意識を思い通りにすることはでいない、無意識を思い通りにすることはでいない、神を思い通りにすることはできない——と。
つまり、1次元から5次元に存在するものを私たちは管理したり思い通りにすることは出来ないとして認識する。それは私たちが『他者は他者』という物質的なこの世の肉体を隔てている世界であるからこその認識である。
0次元の自分とは——
0次元とは『点』である。
この点とは『全であり一である』という錬金術の基本の思想にある。三銃士のワンフォーオールとかも、この0次元思想に近いものがある。
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために。」
0次元とは『ワンネス』という感覚と『個である』という感覚のうち、最初は『個である感覚』から広がっていくことで『ワンネス』の感覚にまで広がっていくことにある。
つまり、この0次元そのものがすべてが集約された種のよな存在であり、その種のなかに『すべて』も入り込んでいるということ。
私たちは私たちのなかにすべてを見つけ出すことができるし、私たちは私たちそのもの以上に、すべてにおいてが私たちであることを0次元では理解し、わかっているとしている。
悟りの話では「そもそも皆悟っている」という考え方があるが、これが0次元の思想にある。だけど別に「悟っている」わけではない。
覚者とは一周まわっているから覚醒を覚えるわけで、一周まわっていない人は覚醒をしない。知らないものを知らない状態で覚醒とは呼べない。認識していないものを認識しているとは思えない。
意識の話にある。
認識し、理解したとき、私たちは覚醒の一端を成すが、認識せず理解していないとき、覚醒することはない。
いわば『私たちが私たちのなかに存在する者に気づくことができるのか』というだけ。つまり『気づく』とは外に気づくのではなく、内側にある自らのなかに存在するものに気づくことにある。
そして気づくためには、常に内省を必要とし、そして外と中による統一性をはかっていくことである。しかし、私たちは『物質的過ぎる』ゆえに、外に或るものがまさか己のなかにあるとは露知らず、外にあるものを排他し排除しようとするのである。
受け入れるべきものは外にあり、気づくべきものは内にある。しかし、外に或るものを受け入れなければ、内にあるものに気づくこともできないということだ。
0次元の自分とは『世界』である。この世界のすべてが自分であると言う認識だが、これに対して「知っている」のと「理解している」のと「気づいている」のとでは大きく違う。
覚醒とは「気づいている」ことであり、知識として知り、理解しているのとでは分け隔てる。
覚醒と未覚醒は同じ0次元に収容されているが、その0次元の中身が存在しているのか(異性・他者・意識・無意識・神に気づいているのか)により0次元の深みが違う。
0次元のみ | 0次元のなかに他次元の内包 |
---|---|
上記の2つの図はどちらも「同じこと」を意味している。0次元である。
そして、0次元とは自己にある。この自己のなかには『多くの自分以外のもの』が存在している。そして、自分のなかに存在している自己が他と結びつくとき、私たちは『気づく』ということ。
覚醒に必要な気づきとは自分と他者が結びついていくこと、0次元とほかの次元が結びついていくことにある。
1次元に存在する異性『ツインレイ』
多くの人が語るツインレイの定義があいまいにある。このあいまいのなかで、次元ごとにランクアップするとき「ツインレイのような存在」にはたしかに出会う。このすべてをひとくくりにし『ツインレイ』と呼んでいる為、恋愛感情によるツインレイから、家族愛によるツインレイ、ほかにも親の投影をしたツインレイなどの種類が多岐に呼んでしまっている。
すべての次元のレベルの気づきを得るとき『異性』という概念は常に1次元に存在する。
私たちは、異性の概念を1次元に持っている為、異性とは究極たる対極の存在として認識される。しかし、私たちは両性であり中性である0次元に存在している種であるため、異性性をも自分のなかに見つけることができる。
もし、ツインレイの存在を『真逆』だと認識するのであれば、それは自分が見えていないためにある。すべては0次元に集約されている。私たちは自分のなかに存在していない異性性をツインレイのなかに認め、その異性性を受け入れることは『自分のなかに存在する異性性に気づく』ことにある。
異性性は、私たちのなかで真逆を模しているのではなく、見たくもない自分の存在を排他しただけにすぎない。私たちは自分のなかにある同性性を突き進む。これは自分の性別を受容することに繋がっている。
自己の性別を受容し、認めていくこと。これが異性性を成立させ、異性性を排他することになると言うことだ。このとき、私たちは『ツインレイ』と出会うのである。
これから、他次元の学習においても書き述べておくが、ほかの次元でも低次元の学習の段階における内容も常に内包している。
たとえば、4次元の学習においては『1次元の異性』の項目が「3次元の意識」となっている。しかし、2次元の他者、1次元の異性と異性の学習がなくなったわけではない。
4次元の異性の項目では『異性の意識』『異性の他者』『異性の異性』という項目が成立することになる。次元があがればあがるほど、認識の量と気づかなければならない量と、取り込み量が増えるということだ。
次元ごとに違う『学習』
0 | 1.異性 | 2.他者 | 3.意識 | 4.無意識 | 5.無 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 異性 | 他者-異性 | 意識-異性 | 無意識-異性 | 無-異性 |
2 | 異性-他者 | 他者 | 意識-他者 | 無意識-他者 | 無-他者 |
3 | 異性-意識 | 他者-意識 | 意識 | 無意識-意識 | 無-意識 |
4 | 異性-無意識 | 他者-無意識 | 意識-無意識 | 無意識 | 無-無意識 |
5 | 異性-無 | 他者-無 | 意識-無 | 無意識-無 | 無 |
斜めのラインでは灰色にしたところは『テーマ』にある。最終的にツインレイの相手と対峙したとき『別れ』となる原因がどこにあるのかは、テーマのひとつ下の段にある項目にある。
1次元の学習とツインレイ(はじまりの異性)
0 | 1.異性 | 2.他者 | 3.意識 | 4.無意識 | 5.無 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 異性 | — | — | — | — |
2 | 異性-他者 | — | — | — | — |
3 | — | — | — | — | — |
4 | — | — | — | — | — |
5 | — | — | — | — | — |
異性と自分しか存在していない認識のなかで、恋愛をする。
意中のたったひとりの異性とは『自分』である。ツインレイの関係性の基本にあるが、私たちはツインレイと出会う前に、この『自分』と『異性』の構造により嫌な思い出となっている関係性の相手が存在していると思う。
ツインレイとは全然似つかわしくもない、だけど、離れたくても離れられなかったし、人生のなかで今でも腹が立つほどの恋愛の相手である。
ツインレイと出会い、サイレント期間で『始まりの恋』がここにあったのだと思いだされることになる。
相手は、私たちからみた『他者』と結びつくようになる。いわば『浮気』になるような構造を模すことが出来たら、私たちは『第三者』を認め、他者という概念が私たちのなかに入り込んだということだ。
1次元思考から2次元思考へうつるとき、私たちは『異性を好き』として認識し『その異性が好きな第三者を嫌いになる』として認識する。
この認識が成立することで、私たちは『第三者を排他』するようになるが、この関係性のなかで「異性がほかの第三者と結ばれることを許す」ようになると、私たちは第三者を自分のなかに内包することが出来るようになる。
他者という概念を受け入れれば、実は3次元思考に落ち着き、その異性とは安定的に結ばれるようになるのである。
これはすべての恋愛に通じること。だから第三者の存在を恨むとか、異性を恨むとか、そういう形に着地すると常に「奪われ続ける」という構造が生まれる。
ただ、個人的にも、この段階における異性が「マジでいい人」だったら、浮気をしたりもしないし第三者の存在を持ち込んだりもない。この意識の拡大における課題を持っている人たちだからこそ、このような構造を模したりもするが、最終的には、この関係性も我慢がならないかなと思う。
理由だが、一回どこぞの女を引っかけた男に安心などひとつも感じられない男と、これから先もいっしょにやっていこうとは女が思うとは思えない。怒りと不安で別れを決断する人の方が多いような気がしている。
2次元の学習とツインレイ(ツインソウル)
0 | 1.異性 | 2.他者 | 3.意識 | 4.無意識 | 5.無 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 異性 | 他者-異性 | - | - | - |
2 | 異性-他者 | 他者 | - | - | - |
3 | - | 他者-意識 | - | - | - |
4 | - | - | - | - | - |
5 | - | - | - | - | - |
このとき、私たちは三つの点をもっている。はじめての三つ巴となる状態にある。
私たちは『自分』『異性』『他者』の構造から、三人による争いを生じさせるようになる。私たちはどうしても『異性』を選びやすく、このとき、既婚者である相手と恋愛をすることにもなる。
このなかで私たちは『意識』を導き出すことになる。
つまり、自分のなかにある意識を持って行動をする、意識を持って生きる等のことができれば、私たちは不倫をしない。この不倫をしない意識を持つことが出来れば、2次元の学習は終わりとなる。
1次元の学習にて『自分が付き合っている異性が、ほかの同性の人とお付き合いをしたり、奪われる』という経験により、私たちはどのように感じただろうか。
少なからず「嫌だな」と思う悲しい思いをしたと思う。その悲しい思いを乗り越えて1次元の学習では「第三者の存在を受け入れる」ことになった。
その悲しみを「またほかのだれかに経験させるのか?」という問いかけもあるんじゃないかと思っている。
私たちの悲しみをほかのだれかに再び経験させてもいいと思うのか、思えないのか。
少なからず、この課題をこなしているときの私の考えは「泥棒猫にはなりたくない」ということと「道徳の元に生きる」ことをモットーとしていたので、不倫には走らなかった。それが誰かを幸福にするなんてなにひとつも思えなかった。
お天道さまに背を背けるようなひなたの生き方をしたいと思っていた。ただそれだけ。
もし、この関係性に「いかなる理由」をつけることができるのであれば、私はこの人との前世の記憶も思い出していたし、繋がりの深さも理解していた。シンクロニティも起こしていた。ただ、それは不倫をしてもいいという理由にはならないし、言い訳にもならない。
私は自分に不倫をしてもいい理由も言い訳も、ひとつもみつけられなかった。いわばこれが「意識」だと思われる。意識を持って生きること、これがとてつもなく、この段階では必要なのだと思われる。
このとき、私たちの意識は『他者愛の目覚め』だと感じられる。愛とは意識ある意志の元にしか生まれないから。
3次元の学習とツインレイ(地上のツインレイ・ツインフレーム)
自分—異性—第三者により、一つ目の三角形が形成される。
自分—他者愛(意識)—第三者により2つ目の三角形が形成される。
3次元は『立体的な図』『3D図』としての次元にある。4つの三角形が揃えば、三角錐が成立するが、面ではなく点により思考すると4点成立すれば立体化は可能である。(他人を思いやる行動ができれば、それは立体的な視点ですよってこと。)
この時点で『視点が立体化』しているので、意識としては3D的に解釈できるものが増える。
0 | 1.異性 | 2.他者 | 3.意識 | 4.無意識 | 5.無 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 異性 | - | 意識-異性 | - | - |
2 | 異性-他者 | 他者 | 意識-他者 | - | - |
3 | 異性-意識 | 他者-意識 | 意識 | - | - |
4 | - | - | 意識-無意識 | - | - |
5 | - | - | - | - | - |
この段階におけるツインレイを私は『地上のツインレイ』として定義している。
このときの私たちは、とてつもなく『意識的』に行動し『意識的』に決断をする。
しかし、私たちは意識的であるからこそ『恋に落ちる』という矛盾的なことが起きる。
恋に落ちることにより、私たちは『無意識』を肯定していかなければならないためだ。
このときの相手は『理想的な相手』としてビジョン化されている。かくいう過去の色々な出来事があったが、その経験などもすり合わせ、多くの経験が一致するような存在である。
その理由として『意識』が関係している。私たちは私たちの経験を意識して受け取っている段階であるため、意識的に『意識がシンクロニティー』みたいに感じられるのである。
つまり、本来はシンクロニティしていない部分もシンクロしていると勘違いしているケースが多いにある。これが意識による問題である。無意識を意識していない為、多くを一致していると感じてしまうのである。
この恋愛では『立体的』にもなっているため、従来の恋愛とはまるで違った構成をとっている。理由は、今までは『平面的な恋愛』が『立体的な恋愛』へ組み変われば、そりゃ「今までの恋愛とは違う」「今まで出会ってきた人とは違う」=運命なんじゃ・・・・・・!? とか思っても致しかたない。
このときの私たちは『意識して異性を見る』ことができるゆえに、異性に対しての認識が「恋」になっている。今までは「なんとなく好き」とかだったんだが、この段階では「意識していることを理解できている」ので「恋が爆発する」みたいな感覚になっては『恋に落ちる』というような構造をしている。
また、この段階では『第三者たる存在』をも意識しているので、結婚している異性や不倫している異性などを選ぶことはない。過去の経験で「できない」と認識したものを再びここで手に取ることはないためだ。(これが経験——まわりまわって他者を傷つけてはいけないってことを学習しなければいけない。)
この恋愛を4次元に持っていくためには『無意識』を自覚しなければならない。
つまり、3次元からの脱却は『無意識を獲得する』ことにあり、その無意識を獲得するとき、私たちは無意識領域を旅しなければならない。
ツインレイのサイレント期間で『無意識』を体験する。これがランナー&チェイサ―により模され、意識による相手と無意識による相手を認識することにある為、つかずはなれずの関係性をランナーとチェイサーにより模す。
『意識の三角錐』と『無意識の三角錐』を行き来するのがランナー&チェイサーということ。
最終的に、ツインレイの相手を『無意識』の領域で見つけ手に取ることが出来たとき、サイレント期間が終わることになる。
このとき、無意識による領域がツインレイの相手を体現している為「前回とはまるで別人」みたいな存在となっているケースが多い。
自信過剰な人が自信喪失者となっていたりなどが起こり得る。無意識領域が浮き彫りになるため、なぜ自信があったのか——という本質を見ることになるだろう。
夢のなかでツインレイの相手をみる等のことも増え、夢のなかで何かを感じたり、シンクロニティーを感じたり、テレパスなど、無意識による冒険がサイレント期間には続く。
最終的に無意識による『彼』をすべて受け入れ切ることになる。私は段階のなかでも3次元から4次元の期間が一番に霊感的だったと感じている。
4次元の学習とツインレイ(楽園のツインレイ)
0 | 1.異性 | 2.他者 | 3.意識 | 4.無意識 | 5.無 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 異性 | — | — | 無意識-異性 | - |
2 | 異性-他者 | 他者 | — | 無意識-他者 | - |
3 | - | 他者-意識 | 意識 | 無意識-意識 | - |
4 | - | - | 意識-無意識 | 無意識 | - |
5 | - | - | - | 無意識-無 | - |
地上のツインレイとは『3次元による意識』により生まれた存在だが、楽園のツインレイとは『4次元時における3次元の裏側に生じた無意識』により生まれる存在である。
つまり、地上のツインレイと楽園のツインレイは表裏一体性にあり、表と裏による意識と無意識による具現化にある。
- 地上のツインレイ・・・意識的な存在
- 楽園のツインレイ・・・無意識的な存在
このとき、私たちは『無意識的』であるため、多く発言や行動を『無意識の自分』により実行されていく。これが『自己』により発言される。
私たちは無意識と意識が一体化している感覚がある。その理由は次元の低さにより——より0に近ければ近いほどワンネス感覚に近い——私たちのなかにある無意識と意識が一体化している感覚があるのである。
ゆえに、無意識の分離をまずは起こさなければならない。これがユングの語る『セルフ(個性化)』の始まりにあり、錬金術による哲学の卵と呼ばれる状態にある。
このような状態になるとき、私たちは時間的概念を理解する。過去を理解し、未来を理解する。過去とは何か、未来とは何か——ということだ。
時間というタイムタイン的な思想を理解するとき、私たちは『一生』を理解する。まだこの段階では『輪廻』の意味を理解しない。ただこの『人生』だけをシフトして理解し、また時間と知性という他の概念とも兼ね合わせての思想を展開できるようになる。(この領域に入ってようやく哲学的なのかもしれない)
私たちはツインレイの相手を通し『無』を見つけていくことになる。それは『この世にはない概念』でもあり『証明することもできないこと』でもある。
それが『心』でもあり、過去とは『幻想』にあり、未来をも『妄想』として捉え、すべては『今に着地するべきである』という視点にまで到達することにある。
過去を証明することは出来ず、過去は「私たちによる経験」でもあるが「私たちの勝手な思い込み」にも構成されている。この思い込みを『無意識の集合体』として考えてみると、存外、私たちはなにひとつ事実を知らないことになる。
この『無』に気づいたとき、私たちはツインレイの相手のなかに『何も見つけることができない』のである。
ツインレイの相手のなかには『無』が存在し、心など存在しない。それはただの思い込みである。また、その思い込みを私たちは信じているのである。
そして、過去は証明できない、如何様にでも記憶の改ざんをすることが出来る事実にも直面し、未来を妄想し続けることも出来ることを理解する。
私が見た闇とは「記憶の改ざん」と「未来の妄想」にもある。もちろん、未来の改ざんも存在し、過去の妄想も存在する。
私たちは『事実』と思っていること。それそのものが思い込みによりすべて構成され、私たち自身が「信じていること」など、事実ではなく、ただそこにあるものは無にあり、空っぽにある。
私によるツインレイの学習は第一サイレントにて幕を閉じている。私にとって『ツインレイ』とは。
私の概念の革命により『無』により消え去ったのである。
5次元の学習と、君がいない
0 | 1.異性 | 2.他者 | 3.意識 | 4.無意識 | 5.無 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 異性 | 無-異性 | |||
2 | 異性-他者 | 他者 | 無-他者 | ||
3 | 異性-意識 | 他者-意識 | 意識 | 無-意識 | |
4 | 異性-無意識 | 他者-無意識 | 意識-無意識 | 無意識 | 無-無意識 |
5 | 異性-無 | 他者-無 | 意識-無 | 無意識-無 | 無 |
創造-無 |
これまでの人生で、私は『はじまりの異性』『他者としての異性』『意識としての異性』『無意識としての異性』をすべて別れてきた。
この別れのなかで、どれも再び再会をしたことはないし、再び結ばれたことはない。
おかげで私は5次元における『無』を獲得している。失い、再び繋がらないことにより、私は『無』を獲得しているのである。その部分を『空っぽにした』ということ。
5次元における私の世界は『空っぽ』だった。誰もいない世界だったということだ。
その世界は、きっと多くの人が到達したいと思う瞑想の世界であり、悟りの世界なんじゃないかと思う。何もない空っぽの自分を私は受け取っている。
この人生をかけて私は、私自身を喪失したと同時に異性をも喪失したのである。
さて、この『無』だが。無を突き進むことにより『存在』が生まれてくる。二極的に「なくしものは得る」のである。しかし、私は今まで何も得てこなかった。
ぶっちゃけ失っただけである。何も得ていないし、自分の中もすべて空っぽにあるから、実はあと「いれるだけ」だし「えるだけ」だし「存在を生み出す」だけにある。
ある種、ひとつ上の階層にむかう・次元をあげるとは『支配領域を広げる』ことでもある。ずいぶん長く、異性を通して『支配しないこと』を実行し続けてきた私は、逆に『支配しない存在』を手に入れることになる。
支配しないとは、そもそも支配しているってことでもある。支配する必要性がないと言うこと。これが「思い通り」ってことでもある。それだけの無があるってことなのだと思われる。
5次元における『無』を私は受け入れ、また『なにもない』ことをも受け入れている。私のなかには『何もない』。だけど、無尽蔵に『ある』状態を維持している。
よくそんなに毎日ブログ書けますねとか言われるけど、なにもないことがほとんどない。ほぼ毎日ずっと考え事しているから、何もないことがない。
今まで私は『異性』を手放し続けてきたことを主軸にものを見てきたが、もちろん、その過程でテーマは『他者』『意識』『無意識』をも手放しをし続けている。手放したものは『手に入る』のである。
手放しとは『無』にある。
つまり、手放しが出来た人は常に『5次元にアクセスをしている』のである。しかし、その領域の幅がどれだけ広いのか——はまた別の話なのである。
どれだけ手放してきたのかにより、次元の領域のでかさでもあるんだと思う。
人はすべての次元を内包している。その次元を使うかどうか——である。
そして、手放し続けてきて、私は「なにも生み出しはしなかった」という創造性ラインを使っていない。これが6次元にある。
無の向こう側には『存在』がある。その存在とは『創造』にある。この創造を今までの『手放し』の段階では善悪二元論上でしかできなかったため、必ず犠牲をも必要とする精神上にある。
つまり、そこに『自分がいる』から『自分を犠牲にする』ことができる。それにより『創造をする』という構造しか出来ない。
だけど5次元への到達では『自分が無』なので、なにもない。何もないもを犠牲にすることはできない。ゆえに『創造のみ』となる。
そして、犠牲のない創造が『愛』なのである。
人生のなかでどれだけ人を愛してきたのか、当初は自己犠牲にある。しかしそれは犠牲という名前の愛にあり、その愛は『他者愛』でありながらも必ずどこかに自分を愛することにもつながっている事実がある。
1と0でしかないのが人間の成長。一歩ずつしか進めない。
1と0をひっくるめて『創造』。これが『神』にもあたるが、善の神は『悪』をうみだし、なにかの犠牲を生み出す。
全なる神は『霊(ゼロ)』をうみだし、犠牲を生み出さない。
ホムンクルスだと思われる。私も度々生んでいるが、自らのなかに『霊』を生み出し、その霊が願いを叶える精霊となる。それは、私のお願いごとを叶える以上に、霊が独り歩きしては、同じような願いを持っている人の願いを叶えるようになる。
自分がないから、創造するときに必ず『自分を生み出す』必要性がある。だから『一』を霊として生み出す感じ。