私は「自分を大切に」と言われたことがない。慈悲

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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よくスピリチュアルでは自分を大切にとか、自己愛とか語られるが、私はこの人生で『自分を大切に』と、親にも師匠にも教えられたことはない。

『人を大切に』と教えられた。

だから私は自分を大切にするという感覚が本当によく分からないし、人を助けることや自己犠牲についてはたけた人だと思う。

女性が自分を大切にするっていう意識は、母体であることから最も本能的に自己防衛が働くものだが、私にはそれさえもない。

結局、私は私を大切にすることが出来なかった。

目の前にいる人のために尽くしてきたつもり。

最後の最後には、感謝されても何も思わないし、なんなら後ろ足で砂かけられようが、なんも思わなかった。

何も感じなかった。

見返りがあるとかないとかですらない、無感情。

私は、何も感じなくなって、救われたのだ。

 

私は私を大切にできなかったし、多くのスピリチュアルとは反する道を進み、救われてる。

私は誰かを助けたいと思ってたし、誰かのためでありたいと思ってたし。誰かを救えるものならば、救いたかったよ。

でもさ、本当は一番に堪えている私が助かりたいし、救われたかったし、手を差し伸べて欲しかった。

子供の頃に既に「助けて」なんて言える状況なんかじゃなかった。もう大人になんて期待なんてしてなかったし、誰かが助けてくれるなんて思わなかった。

だからこそ、私は誰かを助けられるまでに自分を鍛え上げてきた。私は子供の時の自分のような存在をうみたくなかった。

誰かに期待ができない世界は絶望しかないじゃないか。

私は、私を助けて、ようやく「助けてくれてありがとう」って私に言われた。

それでようやく気づいたんだ。

私は私を大切になんてしたことが無いってことに。

誰かを大切にしたことはあっても、自分を大切にしたことがない。

私は誰しもがやっている、自分にとって不都合なことを弾くことすら、自分に許してこなかった。

不都合なものであろうが、それを受け取ることが出来ねばならなかった。

 

 

 

神の道って言うけれど、私の道はそんな感じ。

師匠もちゃんと私に教育をしていて、こたび、自立をしている。

夢で、よくお釈迦さまとか、観音さまをみていたのも、他にも神さんの声が聞こえたりとか。

私みたいに、人のためにって生きる人は、神さんがよく手を貸していただけるものだと思う。私は師匠に「神さんのお気に入り」って言って貰えることが誉れだった。

なんなら「貧しい心」って神さんに言われたことだってあるけれど、これ、仏教思想の三毒のひとつだよな。あのとき、神さんの領域で伝えられた言葉だよ。

あそこにいたのはお釈迦さまだったのかな。全然、データの容量が多すぎて白塗りの記憶で戻ってきたよ。私には分不相応の領域に、なぜ入れたのか。

「玉依」も、神さんに好かれる魂って意味だよな。まんま私のことだよな。

私は神さんに愛されてきた。そうやって生きてきた。ときに見知らぬ神さんまで私を守ってくれていたことを知ってる。これからもそう、私は神に守られている。

そういう道にいて、後悔はひとつもない。

だけれど悲しい。ただ悲しい。

人が悲しいと思う。人は悲しい生き物だと、そう思う。

もしかしたら、これが仏教で言うところの愛とされる慈悲なのかもしれない。

人は悲しい生き物だよ。

だって、みんな、泣いてるから。

気づいてる? みんな、泣いてるじゃん。

悲しい人を私は愛しいと思う。これが慈悲だと思う。