ツインレイの無償の愛の定義
ツインレイには『無償の愛』が関係していると言われています。
私はそこに『信頼』を加え、愛と信頼がツインレイには必要である——と考えています。
しかし、ここで哲学的な疑問が降ってわいてきます。
「愛ってなんですか?」ということです。そもそも無償の愛って意味はどういう意味なのでしょうか。
人を愛するとはどのようなことなのかについてを言語化するのはなかなか難しいことですが、では自分自身はどのようにして人を愛してきたのか——についてをツインレイたちは人生で語ってくれるのではないでしょうか。
哲学者・フロムからわかるツインレイの愛
過去の哲学では『愛するということ』という著書をフロムが書いています。
冒頭に愛とは何かを追求したフロムからいくつか『愛』についてを抜粋しようかと思います。
それから本題である『ツインレイの愛とは』と話を進めていきます。
自分の役に立たないものを愛する時にはじめて、愛は開花する。
未熟な愛は言う、「愛してるよ、君が必要だから」と。
成熟した愛は言う、「君が必要だよ、愛してるから」と。たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。
愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるというパラドックスが起きる。
引用:エーリッヒ・フロム『愛するということ』
ツインレイとは、自分にとって『まるで価値がない存在』として現れます。
そのとき、ツインレイの愛が掻き立てられてきます。つまり『自分にとって価値がない』と烙印を押した存在こそがツインレイへの一番の近い存在となっています。
自分にとって『いらないもの』と思って、捨てた存在がツインレイであることもある——ということ。それがネガティブツインレイにとってのツインレイとなっています。
そして、ツインレイはツインレイが必要だ——と思っています。なぜならば、愛する対象がなければ私たちは生きていけないような気がしているからです。
ツインレイへたくさんのものを与えたいと思うのがツインレイです。
何も持っていないって思うんです。だから、与えてあげたいと思うんです。それが愛でした。
ツインレイにとって、相手が苦手ならば自分が頑張ってフォローしてあげるんだという意識が芽生えます。それが愛でした。
だけど、気づきます。相手が多くのものをたくさん持っていることにも。
ツインレイの二人はパラドックスへ落ちていくことになります。
一人なのか、二人なのかがわからなくなります。
あなたは自分だからという意識と、あなたは別の存在だからという意識の共存をもとめられているのです。
ツインレイの無償の愛とは?
ツインレイは確かに『愛』の形を形成させることになります。
それが本当に『愛だったのか』についてを今一度考えて振り返る必要性があるタイミングにやってくるのが、ツインレイとの出会いとなります。
私たちの人生——。そして輪廻転生をし続けていくなか、人を愛し続けることが出来たのか。はたまた、自分を愛し続けた人生だったのかという結果を得ることになります。
ツインレイの相手は、自分自身が象ったような形となる愛の形となってやってきます。
人を愛し続けた人にとってツインレイの相手は自身へ愛情を注いでくれる存在となって現れます。
人を愛することなく、自分自身を愛し続けた人にとってツインレイの相手は、自身へエゴを押し付けるようなことはあっても愛情を注いでくれるわけではありません。
ツインレイの相手は、私たちの鏡の存在であり、鏡のなかにいるツインレイは自分そのものです。
人を許し続けた人は、ツインレイに許してもらうことができます。
人の心の痛みを受け止め続けた人は、ツインレイに人の心の痛みを受け止めてもらうことが出来ます。
誰かの話を聞きづけた人は、ツインレイに自分の話を聞いてもらうことが出来ます。
誰かを受け入れ続けた人は、ツインレイに受け入れてもらうことが出来ます。
もちろん、反対も然りであり、こちらを私はネガティブツインレイと名付けています。
人を許さずにい続けた人は、ツインレイに許してもらうことが出来ません。
人の心の痛みを知らずに——知ってはいても傷つけ続けた人は、ツインレイに傷つけられることになります。
誰かの話を聞くことがなかった人は、ツインレイに話を聞いてもらうことが出来ません。
誰かを拒絶し続けた人は、ツインレイに拒絶されることになります。
ツインレイの相手はいつだって鏡のなかにいる自分自身であり、自分自身が自分に対してどのような態度をとるのかによって形が変わってきます。
それがもし『愛』となったとき、ツインレイの相手とは『愛の成就』を起こすことになります。
ツインレイの愛の成就とは
ツインレイの愛の成就とは、ツインレイの相手を最大限に愛すること——です。
それは『ツインレイの相手の負たるもの』『ツインレイの相手の自分にとって都合が悪いこと』。
ツインレイの相手を100%受け入れることにより、ツインレイは愛の成就となります。
自分自身よりも、見返りを求めることなく、ツインレイの相手へ尽くすようなことができたとき、ツインレイの相手と愛を完成させることができるようになります。
この愛の完成に至るまで、ツインレイの二人は共に過ごします。
その期間、ツインレイの二人は切磋琢磨しながら『ふたりならば』の愛の形を探し、そしてツインレイそのものが愛となるとき、ふたりは離別を迎えます。
もし、これがサイレント期間と呼ばれるものやチェイサー&ランナーのような関係性になるのかというと、ツインレイは愛しているがゆえに離れてくため、二人は追いかけっこをするようなことはありません。
どちらも、愛しているがゆえに離れます。
愛しているからこその決断を下すことができる。それがツインレイとなります。
それが自分にとって一番辛いこととなる身を裂くような思いをするような決断となる、ツインレイと離別をすることが「最大の愛」となります。
自分よりも相手を大事にすること、これが『ツインレイの愛』です。
愛を完成させることが出来た二人は、今度、ツインレイにとっての信頼を作り上げていかねばなりません。そのために愛しぬき、離別する必要性があります。
ツインレイの愛とは犠牲か
もし、愛が犠牲であるというのであれば、それは確かに犠牲となりましょう。
しかし、ツインレイにとっての愛は、犠牲というよりもそれ以外にツインレイの相手にどのように接すればいいのかがわかりません。
鏡の存在とは、丸ごと自分です。丸ごとの自分であるツインレイの相手は自分自身であるがゆえに、愛する以外に手段がありません。
そして、丸ごとの自分であるくせに、どうやら世界がまるで真逆に存在している彼らを縛る恋をすることができません。
世界が違う、真逆の世界に存在している自分自身を『愛する以外になにをすれば一緒にいられるのかが分からない』のがツインレイです。
ツインレイの二人は、愛という犠牲を持っている状態で出会います。
ツインレイの片方が100%の愛情を持っていれば、もう片方のツインレイも100%の愛情を持っています。
犠牲という愛は、もしかしたら、苦痛がある状態なのかもしれません。
ツインレイたちも、きっと犠牲を払い、離別となるまでの苦痛を最大限感じ尽くしたとき、悲しみが押し寄せてくるかと思います。
しかし、その決断に後悔などありません。それは愛しているために愛しぬくことができた自分自身にほこりが持てるからです。
愛している——とは、相手の望む形にしてあげようとする意識です。
もし、自分の思う形や望む形ではないことに不満があったり、相手を自分の形にハメようとしたときは必ずツインレイからの反発が起こります。
それは愛ではないからです。ツインレイは最大限の愛を教えてくれている存在です。
ツインレイの究極の愛とは
ツインレイの究極の愛とは何か——と言えば、ツインレイのために死ねますかという話です。
ツインレイのために自分自身が身を呈し、守ることができますか。そして、ツインレイのために自分がどのような地獄を味わおうとそれを受け入れることが出来ますか、ということ。
たとえば、結婚してツインレイの相手が最悪な状態になったとする。たとえば億単位の借金を背負っただとか。
そんなとき、ケツ撒いて逃げますか。それとも一緒に頑張っていこうと共にいられますか、ということです。
自分自身がツインレイのために動くことができるのか。ツインレイの不幸があるとき、その不幸を共に背負う覚悟があるのか。
ツインレイの二人は、何度も恋人のような言葉を掛け合うことになりますが、それは恋のささやきのように見えて、愛のささやきかと思います。
すきだよ、ではなく。愛しているよ、と教えてくれます。
君の為にいくらでも死ねること、君の為になんだってしてあげたいこと、君の為ならば世界を敵にしたって守るつもりだと教えてくれます。
残念ながら、ツインレイの道を進むことは二人が共に生きることであり、自分で自分の心を満たすことであり、世界を敵にしても自分一人でも背負っていける存在へなっていくことがツインレイですので、それは叶うことはありませんが。苦笑
ツインレイへの愛は究極の自己愛へとなる理由
ツインレイへそそぐことになる愛は、自己愛となっています。
ツインレイへそそいだ愛は、自分自身を満足させるものであることが大きな特徴かと思います。
私はこちらの記事で『ツインレイの相手がもっているエゴは、自分がツインレイの相手を信じられなかったもの』 とも言っています。
これは同じように『ツインレイの相手が持っている無情は自分が相手を愛さなかったから』ということです。
ツインレイの相手を愛することが、ツインレイのなかに存在している自分を愛することに繋がっている——ということです。
ツインレイと無償の愛と家族愛の違い
この世で私は無償の愛を持っている人など、ほとんど存在しないのではないかとすら感じています。
なぜならば、見知らぬ誰かのために死ねますかってことを聞かれています。何も文句を言わずに誰かのために命を捧げることが出来て、ようやく無償の愛は成立することになります。
ツインレイが成し遂げられるのは、無償の愛ではありません。
家族愛に近いものかと思います。
ツインレイに出会い、先ず感じられるのは『愛する以外にどうすればいいのかがわからない存在』ということです。
恋とは違う。ツインレイの相手は真逆であり自分である存在ゆえに『愛する以外に共にいられない存在』と本能的に理解することになります。
そして、必要な存在です。愛したいツインレイたちにとって、その存在は必要な存在であり、ダメな部分ばかりに目がいくわけですが、そのダメな部分が愛おしくて堪らない感覚を覚えることになります。
なぜならば、自分にとって価値がないと思う個所に愛おしさを感じ、自分にとって価値があると思う個所に信用を感じることが出来るからです。
自分にとって価値がないと思ったものを100%持っている相手とは、生まれたての赤ちゃんのようなものであり、役に立ちはしませんが、いてくれるだけでいい愛おしい存在のような感覚です。
母親ような、父親のような感覚を感じるのが、ツインレイということです。
可愛くて堪らないと思っている相手がツインレイであり、その愛おしさと共に『一生守りたい存在』とも感じられます。
そして、ここからツインレイは『愛』を学ぶわけですが——。
ツインレイが学ぶのは、無償の愛ではなく、私は『家族愛』だと感じています。
家族だったならば、家族の抱えている問題をいっしょに背負うことになるかと思います。それが家族愛だからです。
家族だったならば、家族の失敗を受け入れていくことになりますし、ダメな部分があっても受け入れている状態かと思います。それが家族愛だからです。
つまり、ツインレイはこの世で『家族』になるために出会っています。
家族愛を生み出すためにうまれてきたのです。
しかし、私たちは『愛情の形』をうまく象ることが出来ません。
なぜならば、ツインレイは相手へ愛情を差し出すこと以外にも愛を受け取ること、信じることも含めて『ツインレイの愛』となるからです。
ツインレイは今までの愛の形を変えるとき
ツインレイの愛のなかには『相手を信じること』も含まれています。
それは、ツインレイの相手のなかに存在しているエゴは、相手を信じることが出来なかったがゆえに生まれているエゴだからです。
それが愛に繋がっているからです。
ツインレイの相手は何もできない存在ではありませんでした。
ツインレイの相手は何ももっていない存在ではありませんでした。
ツインレイの相手は、一人で生きていける存在でした。
巣立ちとはこのようなこと。
私たちは、ツインレイの相手が何もできない魂の赤ちゃんのときに出会っており、そのまま離別をしているがために、あのときのままのツインレイの相手は何もできない何もわかっていない存在だとすら思っているんです。
ツインレイの相手は、自分自身が成長してきたように、同じように成長をしてきたのでした。
私たちは、ツインレイの相手が無価値だと思っていたのです。それは思い込みたかったのかもしれません。
しかし、実際はまったくそんなことはありませんでした。
実際は、しっかりとしていて多くのことが出来るようになっており、自分にとってはまるで関係のない世界で役に立っている存在へと変わっている姿と、未来を創造することができるようになっています。
ツインレイの相手が赤ちゃんでいてほしかった自分自身と、戦わなければならないのがツインレイとの出会いから始まるツインレイストーリーなんです。
ツインレイの二人がこれから織りなしていく関係性は、依存的な愛ではなく、一方通行の愛でもなく。与えたら返ってくることのない愛でもありません。
二人は『魂の大人になったツインレイとして家族になる』ために生まれてきました。
赤ちゃんの未熟なツインレイを抱っこするために生まれてきたわけではありません。
ツインレイのお互いがお互いを尊重し合い、支え合うために生まれてきました。
ネガティブツインレイの愛とは?
闇の刺客となるネガティブツインレイの愛は、恋でも愛でもありません。
愛は与えるものですが、ネガティブツインレイたちは愛を与えられるもの——と認識しています。
根本的に、ポジティブツインレイたちは与え続けることをしている反面、ネガティブツインレイたちは愛の搾取をし続けているような状態です。
ネガティブツインレイは与えてくれない人に怒り、与えている人から搾取し奪っていくようなところがあります。
ネガティブツインレイは、ツインレイの相手に対しても同じように認識しており、ツインレイの相手から与えられることばかりを望みます。
何かをしてもらうことばかりを考え、何かをしてあげることは考えていません。
何かを差し出し、自分の身を切ることが愛です。ネガティブツインレイは相手に身を切らせ、捧げさせるのが愛だと思っているんです。
愛の視点がポジティブツインレイとネガティブツインレイは真逆となっています。
ネガティブツインレイにとって、愛は搾取をすることです。
ツインレイの相手にも同じようなことをします。そして、自分の罪を擦り付けていくようなことをし続けていきます。
ツインレイたちが『ツインレイの相手は、もう赤ちゃんではないんだ』と思うところがありますが、ネガティブツインレイは未だ赤ちゃんのままであり、人の善意を搾取し続けていくことになります。
ツインレイの愛も過ぎれば悪となる
ツインレイの愛は、もう100%を超えようとしているときでした。
これ以上に人を愛することが出来ないという状態にまで至り、ツインレイと出会うことになります。
ツインレイの愛として、与えることをしようとするツインレイたちは『過ぎたるもの』となる愛の状態へとなっていっています。
適切であり、よき案配の状態であることが愛にも必要であることを学ばなければなりません。
また、与えることが愛ではないことも、ツインレイたちは学ぶことになります。
与えてみても、どうしようもないこと。そして悪い方向へ進んでいってしまう可能性があることもツインレイたちは学ぶことになります。
与えたとき、相手は底に落ちるような現象が起こります。
例えば、良かれと思って与えた情報を、自身を守るために使うのではなく、武器として使う人もいます。法律などでも多く使われ方を間違えるシーンがありますね。
法は弱者を守るものであり、誰かを攻撃するために存在しているわけではありません。
与えることがもし、愛なのであれば、与えた愛を適切に愛として受け取ることが出来ない人もいらっしゃる。
そんなとき、ツインレイたちは大きなショックを受けることになるかもしれませんが、それが世界です。それが現実です。
愛とは何か、武器を与えているわけではないのに。
最終的に武器を与えてしまうこともあり、その武器を振り回してケガをするのは当人であること。
ツインレイの愛の経験は、適切になるまで進むことになるかと思います。
ツインフレームへ恋をし、ツインレイを愛する
ツインレイへ恋をすることはありません。
ツインレイは、自身のツインレイに対し、猛烈な愛情を注ごうとします。
恋はいつか愛になっていく経緯があるように、ツインレイたちはツインフレームの段階で恋を終わらせ、次のステップになる愛へと変化させていくことになります。
恋は自身と違うものを持っている人にするものであり、恋をしたとき私たちは必ず『愛する』というものが裏側に潜んでいるような状態となっています。
ツインレイの相手を見つけたとき、私たちは猛烈な愛を自身のなかに見つけるか、猛烈な拒絶を自身のなかに見つけるのかのどちらかとなります。
なぜならば、ツインレイとは『究極なる存在』だからです。
一般的な恋愛であれば『恋愛』と文字を書くように『恋』と『愛』の同居が生まれます。
それは、自己との共通点があるために恋愛とし、恋と愛が同居することができるような状態となります。
しかし、ツインフレームには『猛烈な恋心』を抱き、引きずられていくに代わり、ツインレイには『猛烈な愛情』を抱くことになります。
ステージの上がり方としましては、ツインフレームへの恋心を愛情へ変えていく人ができた人(チェイサー&ランナー)から、ツインレイのステージへ進み、ツインレイへの愛情を恋心へ変えていくことになります。
ツインフレームとは離別を迎えます。
なぜならば、恋心を愛情へと変えることが出来たからです。
ツインレイとは再会を迎えます。
なぜならば、愛情を恋心へ変えることが出来たからです。
百年の恋を遂げることができるようになるのがツインレイです。
それは恋愛ではなく、愛恋という形が成立するからです。
ツインフレームは、恋を先にするから愛となったとき、離別を迎えます。
愛は離別を迎えます。相手の思うとおりにしてあげたくて堪らないツインレイたちは、ツインレイを愛したとき、自分が相手の元を離れること。それが愛であることに気づくからです。
そして、愛を終え、つぎに信頼を学ぶことになったツインレイたちは、再会をし、恋をすることになります。
そのときツインレイのふたりがもし、永遠の約束をできる根拠があるのだとしたならば、それは恋を先にしたのではなく、愛を先に経験することが出来たからです。
神からのプレゼントがツインレイだと言われている理由
ツインレイの相手を先に『愛』という形で捉えるようになるまで、人を愛することができるようになったツインレイたちは、ここで永遠の愛ではなく、永遠の恋を得ることが出来ます。
それは愛のうえに恋を持ってきているからこその永遠があります。
幸せとはこのようなこと。
毎朝、目覚めたとき、私たちは何度だってツインレイに恋に落ちることになる。
そのような幸福を神からプレゼントされるということです。
そのために、ツインレイの二人は愛を成就しなければなりません。
愛を完成させるには——
最後にフロムの言葉を〆として使わせてもらおうかと思います。
誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。
それは決意であり、決断であり、約束である。
もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束はなんの根拠もないことになる。引用:エーリッヒ・フロム『愛するということ』
愛は意志の元に行われています。
愛は、感情的に行われているわけではありません。
愛は約束です。
約束には、理性と意志と、それから意思が必要です。
自身のなかから、愛情が引きずられてでてくるような感覚をツインレイには感じられます。
それは、今までの自分自身の経験から、人を愛することが癖になっているようなものだからです。
そして、ツインレイは『意思をもってツインレイを愛する』という覚悟を決めます。
その覚悟が果たされたとき、ツインレイの二人は離別します。
ふたりが再び恋をするために、二人は離別をしなければなりません。
私はツインレイの二人の約束は、魂の赤ちゃんのときに結んだことかと思います。
そのとき、そばには神もいたことでしょう。
ふたりは魂が生まれたとき、愛を約束しました。愛している、何があっても——と。
魂が生まれたとき、ツインレイは白い結婚式を遂げています。
しかし、神との約束がねじれてしまったツインレイカップルは『愛されたい』と思うようになり、神との約束をそのまま守り続けたツインレイカップルは『愛する』ことを実行するようになります。
神との約束を守り続けたツインレイたち。
そこには自分の意思・意志を持つことが出来る覚悟のある人たちの姿が見えます。
ツインレイの結婚はこれにて終いです。神との約束も遂げることが出来たとき、最終的にやってくるのがツインレイです。
これ以上に幸せなことはありません。
私の好きな言葉をひとつあげておこうと思います。
愛せよ、人生で良きものはそれのみである。
ジュルジュ・サンド
生涯、ショパンを愛しぬいた作家の言葉です。