ツインレイによる原罪と罪悪感の克服について

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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心理学的にも罪悪感は色々とある。

  1. 誰かを傷つけてしまった/壊してしまった
  2. 助けられなかった/役に立てなかった
  3. なにもしていない/見捨ててしまった
  4. (周りと比べて)自分が恵まれている
  5. 自分は毒である/穢れている
  6. 親やパートナーから受け継いだもの
  7. その他(地域社会、宗教、そのほか)

引用:「そこから何を学ぶか」という視点を持つと、罪悪感の泥沼から抜け出しやすくなる。 – 大嵜直人のブログ

罪悪感が強い人は誠実性も高いという結果もでている手前、罪悪感が一言に悪いとは言えないが、この罪の意識は肥大した自己の可能性はある。

ちなみに人を傷つけたときに罪悪感を感じないのは反社会性の気質が強く、サイコパスと呼ばれている分類にある。ギリシャ時代には英雄だった人たちのことを意味する。

さて、今回はこの心理学サイドからの罪の意識ではなく、原罪のほうを考えてみたいと思っている。

原罪とはアダムとイブの原罪である。

げんざい【原罪】 〘名〙 キリスト教で、アダムとイブが神にそむいて禁断の木の実を食べてしまったという人類最初の罪。 すべての人間は、アダムの子孫として、生まれながら罪を負っているとされる。 宿罪。引用:原罪(げんざい)とは? 意味や使い方 – コトバンク

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原罪の種類について考えてみる

原罪の種類として、アダムとイブの原罪、カインとアベルの原罪、ヤハウェの原罪——というカタチで考えてみることができる。

そして、もっと神話による罪を考えてみると、幅広く読むことができるが、今回は聖書に関する部分での原罪をとりあげようと思っている。

ヤハウェはアダムを産んだ。そしてアダムからイブを象った。そのとき、アダムとイブはヤハウェに禁止されていた善悪の実を食べてしまった。ヤハウェはアダムとイブを追放した。その後、アダムとイブはカインとアベルを産み、このふたりは人類初の殺人事件を起こすことになる。

さて、この話からも、それぞれにおける罪の概念がうまれる。

ヤハウェはアダムとイブを許さなかった。人を許せなかったヤハウェによる神の罪がある。

アダムとイブはヤハウェの言いつけを守らなかった。それゆえに善悪の概念を持った。ここに善悪の罪がある。

カインとアベルはお互いがお互いを譲ることなく、殺人を犯した。被害と加害の罪がある。

神話から考えられる罪について
ヤハウェの罪人を許せない罪
アダムとイブの罪善悪の罪
カインとアベルの罪被害と加害の罪

私たちは私たちのなかに、それぞれの罪が眠っているのである。

カインとアベルの罪『被害と加害』


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このふたりによる罪は、被害者と加害者による罪である。

カインによる罪は「人から奪う心」であり、アベルによる罪は「人へ譲れない心」である。根本には我が身可愛さ余って人を殺してでも欲しいものは欲しいという考え方にある。

アベルによる罪は、奪ってしまったことに対して、何か人へ悪いことをしてしまったときにごめんなさいが言えることにより解消される。

アベルによる罪は、与えることで解消される。

つまり、この段階では『与える心』と『謝る心』のふたつが必要なのである。この意識により、被害と加害による関係性を脱していくことができる。

 

私はアベルによる課題だったのもあって「人に奪われ続けること」もテーマだし「人に与えること」もテーマである。奪い返したり、復讐心もアベルのテーマでもある。

アベルの意識は、奪われても文句を言わないこと。人に与えること。復讐をもくろまないことにより解消されるが、最後の最後には「人に与える」の段階で募金したところ「奪われたことによる怒り」が噴出し、アベルの課題が終わった。

第三チャクラ・・・強欲

  • 寄付をすると強欲(金を出したくない)がでてくる
  • 対応:お金を出す(慈善・寛容)
  • 直る:我慢しなくてもよくなる

引用:ツインレイのすべてのチャクラに潜む悪魔の浄化と解放について

アベルの課題が終わっていないと、強欲となって『カイン』へと変わる。これが被害者が加害者へ変貌する姿である。

ゆえに、このアベルの課題が終わっていないと我慢し続けないといけないことになる。

我慢が多い人は、とりあえず募金すると我慢しないでいい方向性へ進むよってことだな。それが募金すると収入が増えるに繋がる。

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アダムとイブの罪『善悪の罪』

アダムとイブによる罪は神の言いつけを守らず、善悪の実を食べてしまったことである。

アダムとイブは、これにより楽園を追放されることにつながるわけだが、これらが善悪の罪として存在する。

善悪とは神が持つものであり、神のように善悪を判断するとが出来るようになると蛇にそそのかされたわけだが、アダムとイブは「恥ずかしい」という感覚と「人が悪い」「自分が良い」という感覚を持つようになる。

いわば、自分のなかに自分で判断を下すことになる審判者が生まれ、その存在は自他を比較しては優劣をつけるように善悪を決めつけるようになると言うことだ。

恥の意識は自分の股間を葉っぱで隠すわけなんだけれども、善悪とは恥の意識へと繋がっているとも考えられる。

自分が違う存在だという感覚は恥ずかしいという感覚を覚えることなのだと思われる。

この善悪による意識は、自分のなかに「いら立ち」や「腹立ち」という怒りの感覚を覚えるようになる。私たちは私たちの中に『悪意』を生み出し、その悪意は常に他者へと向けられるようになる。

基本的に人は「悪い人間にはなりたくない」という意識から自己正当化にはいる。でも、そもそも人間は皆罪人である——という考え方から全員悪い人間なんだけれども、じゃあだから率先して悪いことを許容するわけではない。

私たちはこの地上の世界で『善悪を使いこなすこと』を求められ、この善悪の審判から智恵を導き出すことを望まれている。

 

アダムとイブによる善悪の概念から解放されると、人がやらかす「悪いこと」が気にならなくなる。

人を見下すことは悪いこと。だけど人間はほとんど優劣たる意識があるため、私は見下した分だけ人に優しくしようと思っていた人なんだが、意識の根源にある『見下しが悪』という思想があることが問題なのである。

見下されて嫌な想いをするから悪いことであって、見下すこと時代は悪いことではない——ということがわかる。

つまり、見下されて嫌な想いをしない状態になれれば、見下しが悪にはならない。この境地に達するとき、私たちは無頓着に人を見下し自分を優位に見せるような存在から、見下すよな発言であったとしても相手がその言葉を受け取れるようになるのである。

善悪概念があるとき、見下されるとイラッとする。しかし、善悪の概念を凌駕した段階で見下されると「自分らしくいられてなによりだ」とか思うようになる。

見下すってことは「自分よりも相手は下だ」と思っていることなんだが、そう思っているとき、私たちは確実に相手へ心を許しているのである。そのときの私たちは「自分らしいふるまい」をしているように思うのである。

それを喜ばしいことだなとか感じ始める。

これが「悪いこと」への決めつけからの解放にある。

だからといって、見下されて嫌な想いを相手にさせているとき『悪意ある見下し』である。普通にウザいよね。

善悪概念を凌駕したからって『善悪がない』わけではない。善悪のどちらもを内包しているからこその視点があるということ。

ヤハウェの罪『失敗を許せない罪』

ヤハウェもやらかしている。アダムとイブが善悪の実を食べてしまったことが「問題である」として追放し、カインとアベルのうち、カインが殺人を犯してしまったことが「問題である」として、こちらもまたカインは追放されてしまう。

ヤハウェは基本的に「失敗は許さない魔王」みたいな立場にある。

たとえば、アダムとイブの段階における『善悪による判断』を行い続けている人たちを許すことができない段階もあるし、カインとアベルの段階における『加害者』を許せない段階にもある。

しかし、あるとき「どうでもよくなる」のである。それは善悪による概念が凌駕されてしまい否定されようが、肯定されようがどうでもいいのと、加害者が勝手に被害者面しているのもどうでもよくなる。加害者が勝手に私に加害していようが、ぶっちゃけどうでもよくなる。

人を許せない罪だからこそ「人を許す」になると思うかもしれないが、ぶっちゃけた話、善悪においてもどうでもいいし、加害と被害においてもどうでもよくなる視点がやってくる。

「ヤギは孫を殺されて悪魔になった、だけどもうそんなんでもうでもいいよ」

引用:報告|カインコンプレックスのアベル側の解消

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偽の神について

グノーシス主義を深堀して調べてくと、聖書に書かれている神は神ではない——という思想も出てくる。

グノーシス主義における低位な神的存在の名称であり、「偽の神」のことである。
(中略)
アルコーンは低次霊的存在で、地上の支配者である。アルコーンに対比されて、超越的天上界に位置する諸アイオーンが存在する。アイオーンはグノーシス主義における「真の神」であるが、グノーシス主義では、通常、「神」とは呼ばない。「真の神」とは、あくまで「偽の神=アルコーン」と対比するときに使われるだけで、グノーシス主義外部からの形容だとも言える。

引用:アルコーン (グノーシス主義) – Wikipedia

グノーシス主義では、アルコーンを偽の神と呼んでいる。

グノーシス主義とは「この世は地獄」という反宇宙論とか、創作された神話等など特徴性を持ったキリスト経由で生じた主義にあるが、私的にはカインとアベルによる殺人事件が起きたとき、アベル側による子孫による関係性から生じた派閥なのかなと思っている。

もともとこの地上は『カイン』という概念のもとに生じている。殺人者がいっぱいいる地上だからこそ、この世は地獄なのである。その地獄の中でも、加害者が存在していれば、その一部に被害者も生まれてくる。

この加害者だった者たちが被害者になったときに生まれたのがグノーシス主義なのかなァ? とか思っている。辻褄性の為に生み出された思想かと。

 

この偽の神とは、上記の通り『罪悪感を植え付ける存在』にある。

被害と加害においての関係性を許容しているからこそ、私たちの世界には加害者と被害者が存在している。

善悪における審判を行い、神の真似事をしている存在を許容しているからこそ、私たちの世界には善悪の概念が存在している。

失敗を許さない人の存在を許しているからこそ、私たちの世界には失敗にありふれ、省みることがない。

私たちの精神構造上、他者への加害は自分への加害である。善悪の審判は自分への審判である。他人の失敗を責めることは自分の失敗を責めることでもある。

だからこそ、私たちは加害者となってはいけないし、善悪の審判で人を苦しめてはいけないし、他人の失敗を責めてはいけないのである。まわりまわって自分を苦しめているにすぎないから。

この世界観のなかにいるとき、私たちは常に罪悪感を背負い、自分を苦しめ続けている状態にある。それは他人を苦しめている人たちでもある。そんな人たちは、他人に苦しめられるのである。

そのために私たちは『罪悪感』を抱えているし、罪悪感の神である偽の神をまつってる。

罪悪感の役割

罪悪感があることで、私たちは「人に誠実になる」ことも出来るし、罪悪感があるからこそ、私たちの世界観は落ちつた世界へと秩序を守ることができる。

それは罪悪感が「人を支配している」からである。この罪悪という苦しみを受け取るとき、私たちは確かに自分のなかに何かしらの間違いを犯しているのである。

『認識』である。そこに本当に「被害があったのか」。それを「捏造」したんじゃないのか。捏造した場合、罪悪感が付きまとうことになる。

相手は本当に「悪だったのか」。相手を悪に仕立て上げたんじゃないのか。悪に仕立て上げた場合、罪悪感が付きまとう。

私たちは私たちのなかで『捏造』を行い続ければ行い続けるほどに、罪悪感が生まれていくのである。事実を事実としてまっすぐにみることができずに自分の殻のなかに閉じこもっているかぎり、捏造による罪悪感に苛まれることになる。

しかし、同時に、捏造をもしていないのに、どうしてか罪悪感を感じることもある。理由は捏造された場合、その捏造に引きずられて罪悪感を背負うケースである。

罪悪感という概念が存在することにはメリットもデメリットもあった。弱い立場に立つ存在のほとんどが罪悪を背負えないでいる存在により押し付けられているような状態にもなる。

 

ただ、弱い立場に立つ存在には『新しい神』としての存在を享受することになる。そして、自分が人に罪悪感を押し付けてしまったことへの贖罪など、自分が今までやらかしてきた内容のすべてを背負った人たちは『真の神』への到達性が生まれるのである。

これが罪悪感からの卒業にある。

しかし、罪悪感をちゃんと背負わなかったカルマを背負えずにいる人たちは、そのまま、アセンションして魂が消えちゃう感じなのだと思われる。

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罪悪感のない神とは

そもそもこの世界は『すべて許されている』のである。

許されているからこそ、被害と加害も存在し、全も悪も存在し、人を許すも許さないも、すべてが許されている世界にある。

この世界を統べている神とは、すべてを許している存在にあるが、聖書等に書かれている神話では『罪』を認識するような仕組みとなっている。この仕組みによって私たちは「悪い人間」にならないような人生を送るようにもなったが、同時に罪悪感からも逃れられなくなったのである。

そこに『徳』があれば『罪』がなければならないのである。

ゆえに、私たちは「すべてが許されている世界」と「罪悪感に支配されている世界」の2種類に分類されていくことになるのである。

すべてが許されている世界では加害者と被害者などの概念も存在せず、全や悪の概念も存在しない。それは罪悪感によるカルマをすべて背負っているからである。その経験から私たちは『結論』を導き出すことができる。

私たちはその結論が「誰も悪くないんだ」ってことを心で理解することができる。心で理解することが出来たとき、私たちは罪悪感による問題を終わらせていくことができる。

しかし、自分が過去に生み出したカルマを背負うことが出来なかった人たちは「誰かが悪い世界」へと進むことになる。

 

私たちはすべてを許されている世界にいくのであれば、新しい神に出会うことになる。

その神は「本当の神」である。私がその神を「お父ちゃん」と呼んでいるし、それをタカミムスビと認識したように、ヤハウェのようにも感じた。

その心は如何なる心をも受け入れている心のなかから私は産まれてきた。人をいじめる心であっても、父は同じように感じていたのである。その心に善悪はないのである。

しかし、偽の神に繋がっているとき、私たちは常に『罪の意識』から逃れることはできない。それが事実である限り。

 

また、面白いことに、原罪は『ユダヤ教』なんだよね。

ヒットラーはユダヤを否定していたし、ユダヤに対して「これは人間ですらない別の生命体」みたいな話をしている。

ぶっちゃけこれの意味がわかっていなかったんだけれども、ここでひとつ辻褄性はとれる。

罪悪感を植え付ける神のもとに存在している宇宙人みたいなのがいる。

なぜかこれを『プレアデス』として私は言葉を思い浮かべるんだよな。

プレアデス星人について調べてみた。彼らは「人々の魂レベルを引き上げること」が使命らしい。

たしかに、罪悪感による支配は『平和』を生み出すだろうね。そして、なんかこう見下し感ハンパないよね。

ようは地球の魂レベルが低いって言いたいんでしょ? ナメくさるな、クソ! 傲慢にもほどがある。

 

わたし、プレアデス星人にもアヌンナキにもマジで怒ってる。偽の神を内包せねば——。

真実なる神はァ、支配をもォ、受け入れているゥ・・・・。