ツインレイの宗教的実存のための絶望は『ツインレイと出会う前』に訪れている件について
実存主義とは『主体性のある自分』を構築していくことにあり、キルケゴールは三段階により主体性のある自分を構築していくという哲学を生み出した。
ツインレイはこの実存主義の最終段階に当たる宗教的実存への到達を意味しているように感じている。
宗教的実存とは、実存主義者たちがそれぞれ宗教的な意味合いを持たせるような感覚にもあり、これが『自分と他人が同じである感覚』を主体としているようである。
ツインレイの多くが「あなたはわたし」という感覚を持っているように感じられる。これが宗教的実存の思想の軸にあるが、実存主義者たちは人それぞれの感覚や宗教的実存への到達においての感覚をオリジナル的な詩的表現などにての表現性を持ってくれている。
宗教的実存への到達では『自分の表現を持つことができる境地』ともいえ、誰かの表現をそのまま借りている段階では『主体性を持っていない』とも断定できるように思う。
たとえば「あなたはわたし」でも、もちろん宗教的実存ではあるんだが、そんなわけがない。あなたはわたしではないのである。その事実についてどのように比喩表現を持たせるのか、どのように言葉として表現するのか。
宗教的実存とは実体験を言語化されたとき、その言語化内容は誰かと共に同じような表現は落ち着くことはないが、どれも同じような意味合いを持っているということだとも思われる。
私たちは「みな、違う経験をしている」し、「みな、同じ経験をしている」のである。
私たちが違う経験をしているとき、それは私たちのオリジナルな表現ともなる。しかし、私たちは皆こぞって主体性を求めているのである。
実存主義の三段階のおさらい
まずは実存主義の三段階へのおさらいからしていこうと思う。
実存主義の三段階は『美学的実在』『倫理的実在』『宗教的実在』とある。
この三段階にはそれぞれ、段階を上げていくことに絶望が訪れている。
美学的実存から倫理的実存への移行時の絶望では「精神的な充足感がなにやっても満たされない」という絶望にある。
倫理的実存から宗教的実存への移行時の絶望では「自分がやってきたことも、結局は罪であった件」という絶望にある。
もう少し詳しく説明をすると、美学的実存段階では、飯食ってうめェ。セックスしてきもちいい。そんな段階にある。裏側には『いつかは死ぬ』という事実から目を背けているからこそ、今、目の前に存在している事実へと着眼するリアリズムさを持っている。
しかし、この「いつかは死ぬ」という事実へ目を向ける瞬間がやってくる。このいつかは死ぬかもしれないからこそ、なにかしらの倫理性が必要になるのである。
この倫理を重要視している段階が倫理的実存にある。この期間の人たちは、自分の信念を掲げ、自分の倫理のもとに生きることになるため「正しい人たち」だと思う。また社会性を持っているともいえる。
社会性を持っている為、結婚やら仕事やら。地位や名誉などについても考えさせられ『道徳とは』という思想の道にあると考える。
さて、この先に待ち受けている絶望は、道徳的に生きてきた人による絶望である。私たちは今まで『道徳という主体性』を持っていたわけなんだけれども、それさえも私たちの主体性ではなかったのである。ゆえに、絶望がやってくる。
この絶望は「自分の道徳性が間違っていたという事実」や「自分の道徳性の裏側に存在している事実」についてを知り、私たちは自分たちが何に目を背けることが出来ていなかったのか——という事実に気づいていくことになる。
ツインレイの絶望とは
ツインレイの絶望は、確実に何度もやってくる。
私自身も、よくわからないターンでなんでか知らんが絶望感に襲われていたりなども感じられたため、絶望という言葉を「ツインレイと出会っている期間にも発生しないもの」とは定義しない。
この絶望がなぜやってくるのかというと、今までの人生を自分は主体的に生きてきた。だけどそれは間違えだった。ゼンゼン主体的ではなかった。美学的実在のときも「好きなように好きなことをしていた」けど、それは主体性ではなかったし、倫理的実在のときも「自分が理解し得る限りの道徳性のもとに生きてきた」わけだけど、それもやっぱり主体性ではなかった。
けっきょく、自分は自分の人生を生きているようで、まったく生きることが出来ていなかった! ってことに気づいたときに、絶望感MAXへと陥る。
ちなみに上記のように理屈的に理解は、絶望のさなかでは理解しない。振り返ってみればそういうことだったなと思う。
メカニズムとしては『間違え続ける』ことにより、最終的に『間違え続けた結果、大爆発を起こす』状態になったとき、絶望が発生する。
それまで私たちは自分が間違えているだなんてイチビタも感じていない。感じていないからこその絶望なのである。そして、これから先、どのように生きていけばいいのかがわからないし、わからないからこその未来が絶たれたかのような希望のない絶望感へと陥るのである。
これは、ツインレイの期間でも起こりえる。特に第二サイレント期間では、小さな間違いに気づくたびに絶望の淵に立たされるので、何度も絶望していく。精神が疲弊していく。
ツインレイの絶望は『出会う前』に起きている
ツインレイの絶望はツインレイと出会う前に起きている。
地上のツインレイは美学的実存による絶望後により「なぜ、それが間違っているのか」を理解するための存在にある。
楽園のツインレイは倫理的実存による絶望後により「なぜ、それが間違っているのか」を理解するための存在にある。
私の場合の絶望はこうである。
地上のツインレイと出会う前の絶望は「不倫」である。それは婚姻がなされていない社会的な問題が生じるためにあり、美学て実存では不倫が肯定されてしまう関係性にある。
不倫は違う、不倫は間違えている。それは私にとって『違う』のである。つまり自分が不倫をしてしまったことに絶望をするわけである。
これが美学的実存のリアリティあふれる説明になるわけなんだが、この美学的実存が別の形で存在していることもある。単純に「今よければすべて良し」という死から目を背ける為の人生を意味している。
享楽主義みたいなモンかもしれないな。
そして地上のツインレイは『絶望により呼び出される』のである。地上のツインレイとの関係性のなかで私は自分の中へ『倫理的実存』を生み出していくことになる。
倫理的実存とは「結婚という婚姻関係はとても大事なことだよ」ってこと。それは不倫関係に知らずになっていた自分へ絶望することになった私が生み出した『社会性』でもあり、倫理観でもある。
しかし、この倫理観。人を殴っていると言うのも事実である。このときの私は『不倫している人を殴る』ようなものでもある。それが間違いでもあるのだが、当時の私はそれを理解しない。理由は『倫理という正義』を持って生きることをモットーとし、それを主体性として持っているためにある。
倫理的実存が成立すれば、それは『道徳的な愛』が成立する。
この段階の人は『大人』だ。人を傷つけないように生きているし、自分が人を傷つけるかもしれない事実を理解している。そして、道徳性を主体として持つと言うことは、きわめて「超自我的」でもあり、自分を抑制し続けることにある。
これは神という存在を理想に掲げ、自分を神へと育て上げていく段階ともいえる。
ゆえに、この世界観の人たちは、社会一般的にはとてつもなく『大人』である。成熟しているともいえる。社会的模範であるためだ。
そして、この段階の人たちからすれば、前段階における美学的実在の人たちは未熟にある、そして子供なのである。しかし、上には上がいる。
ツインレイの前に起きる『孤独』という絶望
倫理という正義を主体性を持って生きることになると、最終的には『さびしさ』がこみあげてくる。
私たちは倫理的な人生を送っていくと、自分を抑制し続けていくことになる。自分を抑制し続けていくと、自分が持つ『欲求』や『感情』を完璧に抑圧することに成功し、私たちは晴れて『理性的な大人』でもあり『理想的な自分』を体現することができる。
しかし、理想的な自分になった自分には、共感したり、共存したりする人たちがいない。
たとえば出来ることがあれば、与えることや教えることも出来るだろう。それが道徳的にあるからだ。しかし『共に生きる』というさびしさがやってくるのである。
人と自分にはひとつの一線が生まれ、自分があたかも『人間ではない何か』のようにも感じられる。
享楽的な人生を送ることも出来ないし、自分の道徳観に背き、自分の虚しさや寂しさを埋めるための結婚だってできない。究極に至ると、道徳の道は『孤独』にあり『さびしさ』が積もり積もっただけだったのである。
運命の前に起こる『絶望』
上記は私の経験から導き出された事例のひとつとも言えるだろう。
私たちは、ひとつ上の段階へ進むとき「大きな絶望」を経験する。それは私たちが間違え続けた結果、その間違いにより真逆側を内包していくことに繋がっている。
地上のツインレイの場合、不倫による絶望が生まれた場合、不倫ではない相手であっても結婚できない(地上のツインレイ)の事実を内包し、統合することが『倫理的実存』を構築していく。
楽園のツインレイの場合、孤独による絶望が生まれた場合、孤独ではない相手であっても孤独である事実を内包し、統合することが『宗教的実存』を構築していく。
宗教的実存とは「あなたとわたしはひとつ」という感覚と「あなたとわたしは別の存在」という両方の感覚を持たなければならない。
私自身がツインレイと呼んでいるのは、この『ワンネスによる孤独という絶望』を感じていることにある。
あなたとわたしはひとつという感覚を持つツインレイを呼び出すのは『道徳に則る孤独感を導き出し、絶望する』ことがトリガーとなっているということだ。
それは「あなたと私は別の存在です」と、倫理的実存は語っているのである。そして、倫理的実存が全否定しているのは美学的実存にある。
倫理的実存を否定することにより宗教的実存が成立するのである。
また、この否定するときに生じるのが『絶望』である。絶望により過去の概念が成立し、絶望により新しい概念が構築されるのである。
最終的に絶望したすべてを肯定する
上記の通り、人生のなかで『絶望』をトリガーとして新しい概念を構築していくことにより、主体性を導いていく方法がキルケゴールによる実存主義の三段階である。
しかし、最終的な宗教的実存へと到達することは、否定ではなく肯定により導かれていくのである。
美味しいものを美味しいと感じて、今、この瞬間を生きること。これが美的実存にある。しかし、人にそれで迷惑をかけてはならないのである。しかし、倫理観の欠如により、人に迷惑をかける瞬間があったとしても、それは『自分のこと』でもある。それが宗教的実存の視点にある為だ。
自分のことではなく、人のことを大事にすること。これが倫理的実存にある。しかし、その成立のためには『恨み』『怒り』『悲しみ』というネガティブな感情がトリガーとなっている。自分が傷ついてきたからこそ、誰かを傷つけてはならないのである。また、このときに訪れる自己犠牲により『自己破壊』を起こすことは、宗教的実存への到達のサインでもある。
私たちは、自分と他人が別の存在であると思い込んでいる『自分』を破壊する必要性があるためだ。
倫理的実存では『自分は正しい、相手は間違っている』。または『相手が正しい、自分は間違っている』という視点に偏りがちだが、宗教的実存では「どちらも正しい」し「どちらも間違っている」に他ならない。
宗教的実存へ到達すると『相手と自分の境目』がなくなっていく。境目がなくなることで『自他領域』があまくもなる。しかし、この自他領域の甘さをコントロールしきれるまでの抑圧と倫理観を持っているのが宗教的実存であり、キルケゴール的には「単独者」として語られている。
単独者とは『ひとりという孤独でも生きていけること』に繋がっている。
私たちは、否定する対象がいなければ『自分』が成立できていない状態にあったのである。ゆえに、私たちは主体性を見誤っていたということだ。
この段階から、私たちは『宗教的実存』へ到達することで、ひとつの視点を見つけることになる。
それは「出会う人すべての人が持つ本質は皆同じである」ことにある。これがもし、美学的実存の自分だけしか考えていない独り善がりで、それをつかっては人を攻撃し続けている人がいたとしても「それは自分である」ということ。
そうやって、人が持つ悪意、人が持つ悲しみ、人が持つ苦しみのすべては、自分そのものであるという事実に気づいていく経緯が存在している。
そして、その視点を持っては、私たちは心を痛めることになる。いかなる相手であろうが、それは『私自身』なのである。しかし、それは『私ではない』のである。
この現実的な視点と、精神的な視点を持って宗教的実存として定義する。
この段階においての人たちは『孤独』である。そして『集合体』でもある。私たちは、あるときの絶望を肯定する。
宗教的実存という『孤独』と『オリジナル』
宗教的実存の成立には『孤独という絶望』がトリガーともなり、その孤独ゆえに私たちは『オリジナルの宗教』とも感じられるほどの主体性を生み出すことができる。
これが哲学にあり、この世明けのツインレイそのものが私自身が構築しているオリジナルの宗教とも言えると言うことだ。
宗教として言葉にすると、少々雑すぎる説明になるゆえ、補足をする。
この場合の宗教とは、自分が信じるものを信じ、その道を生きることに繋がっていると言うこと。このとき、他者にとやかく「おまえは間違っている」だなんて言われようが、隣の人が違う宗教を信仰していようとも、特に気にならなくなるのである。
また、私たちは人それぞれ違う宗教を抱えていることを理解することにもある。
たとえば、世明けのツインレイを読んだとして、これを『信じる』としたとしても、それは私の宗教とは違うのである。
人って勝手な生き物で、自分勝手に解釈し、自分勝手に理解し、自分勝手に生きている生き物である。理解力の問題もあるが、私たちは自分の人生と全く同じ人生を歩むことはない。
同じ宗教への信仰があったとしても、人それぞれの信仰する意味が違う、動機が違う、経験が違う。この時点で私たちは別の宗教を信仰しているも同然なのである。
宗教的実存への到達により、私たちは『孤独』となる。それは表裏一体としての『オリジナル』とも言える。
これは何かというと「自分が自分の人生を生きてきた」という事実に過ぎない。自分の信念に従ってきた。
もちろん、美学的実存から宗教的実存へ至るまでの経緯、私は間違え続けてきたし、私は自分が間違えてきた事実を受け入れている。しかし、その間違いこそが今ここにある『自分を主体的に捉えること』が出来るようになっている。
間違えているときこそ、私は自分の人生を生きてきたのであり、間違いこそが私の人生の糧にある。間違えている自分を私は愛しているのである。
キルケゴールさん的にも、私の結論はきっと『間違い』だとは思う。だけど、そんな私を受け入れてくれるのが哲学者たちである。引用させてくれてサンキュー、友よ。