現実創造と、私が『ツインレイ』になれているってこと。

2025年5月27日

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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他者の存在とはどこに存在しているのか。それは『関係性の空間』に存在している。

図の説明:自分と他者の間に現実が存在している

私たち自身は、先ず『精神的な自分』が存在し、関係性を持っている時、現実的な自分を構築することができる。しかし、他者との関係性がない時、自分とは存在することができない。これがヴィトゲンシュタイン的な私の思う『他者に認識されなければ、自分とは存在することができない』という構造である。

精神的な自分とは、自分の中の存在する目に見えることができないものであり、相手から認識されないものである。いわば、心みたいなものとか、感じていること、霊感なども入ってくる。そして、私たちは、その領域で他者を認識するとき、他者とは『存在』でしかない。

しかし、この『関係性』という空間では、現実的な自分が存在し、また、他者とは「心が視えない現実的な他者」を認識することができる。これは、相手がまるで心がない『存在』としてしか認識することができない感覚。

これが『現実的な他者』である。つまり、現実での他者とは「相手の心など一切読めん」という状態にある。これが現実であり、他者の心が一切わからねえ、読めねえっていう状態が現実である。(もし、相手の心が読めているのであれば、それは投影に過ぎず、思い込みである)

つまり、私たちがもし精神を先に、次に現実に——という順番を持っているのであれば、まずは自分の精神的な本心をケアしていくと、最終的には現実的な自分に到達する。

では、現実的な自分とは何か。肉体である。ただの肉体であり、触れる自分のこと。髪の毛とか、肌とか。これが現実である。この現実に意識が向かうとき、私たちは女性だからだとは思うが、鏡に向かってしまう。女性としての自分へと意識が向かうのだ。男性は逆に男性としての自分へと意識が向かうのだと思う。

現実的な自分が成立してくると、現実的な他者の存在もそこに認識できるようになる。しかし、その存在の心は読めないし、わからない。存在でしかないからである。また、他者からも自分とは存在でしかないという事実がある。つまり「わかるはずがない」のである。お互いに分かり合えない、これが現実である。

しかし、私たちは現実でも心を表現する術を持っている。

それが、言語。そして行動である。言葉で私たちは伝えることができる、そして、行動により伝えることができる。

私たちの現実とは『言葉』と『行動』により構築されていることが分かる。また、言葉と行動の裏には『心』とか『本心』が存在している。それに従い、私たちは言葉や行動をとっている。

図の説明:言霊と行動力の阻害構造

単純に、私たちの言語化が言霊となるけれど、その言霊は『感情(恐怖や不安)』や『記憶』による阻害により、現実空間へと持ち込むことができない。現実では、行動力を失い、何もできなくなってしまう。この行動力により、私たちは現実を具現化させている。

いわば「こうしたい」という言霊が生じれば、他者から働きかけての実行力が生まれるということ。

言霊と実行力はイコールで結ばれる。

 

ここに登場してくる言葉は三つだけ。

『本心』『言葉(言霊)』『行動(実行力)』

これらを連結させられるかどうか——なのである。

『心』『言葉』『行動』の一致により願いは叶う。

図の説明:『心』『言葉』『行動』の一致により願いは叶う

基本は本心なのである。本心から出てくる願いは現実化されるのである。これを『念願』と呼ぶ。

図の説明:本心が現実化することを『念願』とする

つまり、言霊と実行力がなくとも、本心が純粋に願うことができる気持ちを現実化させることも出来る。いわば、それが言葉にされたり、行動力に現れることもまたひとつのやり方ではあるけれど、本当の軌跡とは、本心を願うとき、誰かが言霊を起こし、誰かが実行力を水面下に起こし続けていくことなのだと思う。

そして、それが現実化することがある。それが『念願』であり、私たちは、その力を持っている。これを『創造』と呼ぶ。

 

現実とはひとりだけでは生じさせることができない。

現実とは少なからず『誰かと』実行して生み出していく空間を意味している。それは『誰かと』でなければならず、それが『みんなと』というカタチになれば、とても大きな空間となるんだろう。

現実はひとりだけでは生じさせることができないのは、現実とは関係性により生じているからである。いかに自分ひとりで言葉をつぶやき続けても、それは念願へ至らぬ限り、現実化しない。いかに自分ひとりで実行し続けても、それが念願へ至らない限り、現実化しない。

つまり『誰かと』という協力体制により何かを現実化せること。これが『言霊』と『実行力』により火着せることができる『引き寄せ』なのだと思う。純粋な引き寄せ——ね。不純な引き寄せは、誰かのものを奪う引き寄せである。

しかし、自分一人だけで何かを引き寄せること。これが『創造』である。創造とは念願である。それは言霊も必要とせず、実行力も必要としない。なぜならば、自分のなかに他者が存在しているがゆえに、私たちは個人のなかに存在する自他循環のなかで創造を生み出すことができる。

自分一人のなかで言霊が成立し、自分一人のなかで実行力が成立し続けることである。自分が自分に話しかけることが言霊であり、自分が自分に働き替えることが実行力である。このシステムは、自分自身のなかに『他者』が存在しなければ成立し無いことかと思う。

 

単純にいえば、、つまり、精神を整えていくと『言霊』が使えるようになる。肉体を整えていくと『実行力』が使えるようになる。そうなると、自己現実能力が高まる。

言霊と実行力は精神と肉体であり、自分の欲しい未来とは、言霊と実行力により構築されているんだけれど、たいてい人は本心を言葉に乗せることが出来ないし、本心のままに行動することができない。

なぜならば、本心わからないから。

そこには恐怖や不安とか不信とか、よからぬ記憶とかね。色々とネガティブなものが本心を視えなくさせてしまっている。だから、自分のなかにある本心をちゃんと受け入れるまでの間に、現実と本心の間にサンドイッチになっているネガティブなものをすべて除去すれば、現実化が起こしやすくなる。

本心がわからないから、たくさんやりたかったのにやれなかったことがいっぱいあるはず。その本心に従えば、すべては具現化されて、すべて現実化される世界に私たちはいるけれど、本心がわからないように現実化させないようにさせられている。なんなら、思い込みの世界に存在しているから、相手の気持ちがわかるとか、そんなバカバカしい話をし始めている。

相手の気持ちが分からない世界に存在しているのが私たちである世界という現実の大地に踏み入らなければ、自己現実は起こりえない。現実を起こすには『現実』が必要で、その『現実とはなにか』を明確に理解する必要性があるから。

どこにどのようなものを創り上げるのか——の『どこ』が明確化されていない感じだろうか。それが『現実に』なのだが、人はそもそも『現実とは何か』を明確に理解していないから、現実化が下手なんじゃないかと思った。だから、妄想が起きちゃう。現実ではなくて妄想の世界で思い込みの世界が繰り広げられてしまう。

 

そして、私が思うに、私は私のなかに私がふたりいる。

それは『自我という私』と『自己という私(彼)』である。

これにて私はツインレイである。

私は念願をそっくりそのまま『現実化』させると思う。言霊も実行力も必要としない。ただ、現実化させたいと思っている。それは私の念願であり、私のなかで言霊と実行力が循環するってこと。私のなかには世界がある。

私は「彼」を必要としない。私は彼が必要ないし、彼がいなければ、現実化を起こすことができない人間ではない。

だから彼に私の願いをかなえてもらう必要性もなければ、彼に私の願いを言語化してもらう必要性もない。

私は『個』として『ツインレイ』が成立するからである。私のなかにはふたりいる。私のなかに、私がふたり存在しているから、私はツインレイである。

 

私が私の念願を叶えることが出来たとき、それは私がツインレイになれたってこと。

だから私は『言霊』の私と『実行力』の私の足並みをそろえる必要性がある。で、たぶん、先日そろったんやろうな。汗