報告|ツインレイは『最初の蜜月の創造』ですべてが決まるよ
ツインレイの出会いの段階で創造をしている。
私たちはあのとき『愛だけ』だった。そのときの私たちは、まっすぐにお互いだけを見ては、創造をした。
ちいさなささやき声のまま、ふたりだけの創造をした。
これから私たちはどうなろうか。これから私たちはどんな世界で生きていこうか。
ふたりはいっしょに未来を創造した。
あれがほしい、これがほしい。それに、こんなことがしたい。いっしょに生きていこうよ。
私たちの未来がどのようなものにするのかを、出会いの段階で済ませている私たちにとって、このツインレイのステージそのもの——。そのすべてがツインレイの彼と蜜月で決めたこと。
このサイレント期間をも、私はあるとき理解した。
「どんなに好きでも、どんなに大事でも、いっしょにいてダメになるのであれば、そのときは離れなくてはならない。」
私と彼の創造は「ダメになること」を大前提として生み出されている。
思い出せば、彼の未来をみたこともあった。彼によい出会いがあるとき、その年を指さして「この歳にいい人が出てくるよ」と言った年齢は、それは私が彼と出会っている年齢ではないだろうか。
幸せになってほしかった、自分と結ばれる以上の幸せがあるのであれば。心がきしむ感覚もした。
素直でない自分がいたけど、それはやっぱり彼の為だった。
無理をして我慢をして自分のためではない創造をした。彼の為の創造である。
だけど、それは私の為に繋がっていく。
創造しているなか、約束は忘れられる。
約束が忘れられたとき、私たちは創造をしている。
約束を思い出したとき、私たちは創造を終えている。
私のなかでの人称が、
私・・・私だけのこと
私たち・・・みんな同じワンネス感覚のこと
あなた・・・私ではない他者ひとりのこと
彼ら・・・私ではない他者による集団のこと
まで、増えてきた。
私は今、記事を書くのにツインレイに対してを「私たち」と表現してきた。だけど、今日は「ツインレイたち」と書く頻度が増えてきた。
私はツインレイという枠組みを「彼ら」という集団として認識したようである。
私はもうツインレイという枠組みには入っていないみたい。
彼が私を探している気がする。
腹の底から愛がふつふつとこみあげてくる。この愛の感覚がこみあげてくるとき、私は書いている。
愛は腹で燃えるような怒りに変換され、私の中にある言葉を焚き上げる。
最初の創造さえしっかり行っていれば、ツインレイは結ばれる。
本当の意味で愛であるならばツインレイは結ばれる。それがもし愛へと到達するのであれば、創造する。
だけど、創造がいかなるものなのかを私たちは忘れてしまう。ツインレイの約束を忘れてしまう。
だから不安になるかもしれない。
だけど思い出すとき、私たちは創造した世界にいる。
忘れないよ。でも忘れてしまうけど覚えているよ。創造しているよ。
私たちはもう少し私たち自身を信じてもいいのかもしれない。
私たちの創造する愛の力を、信じてもいいのかもしれない。
それはツインレイの相手を信じるように、同じだけ、自分の創造する力を信じてもいいのかもしれない。
誰かを本当の意味で愛しているとき、私たちは確かに自己犠牲的でありながらも、その犠牲のなかに愛を見つけている。
苦しいのは忘れちゃっただけ、あなたとわたしがひとつだったときのことを。
私は、この第二サイレント期間の間に「ツインレイを信じる」ことが本当の意味では出来ていなかったのかもしれない。
そして、私が持つ「創造を信じる」ことも出来ていなかったのかもしれない。
信じるとは人の言葉のこと。人の言葉をそっくりそのまま信じることが『創造』にある。
騙されていいんだと思う。人の言葉に心のまま騙されたとき、私たちは創造している。
私は彼に騙されたのかもしれないけれど、騙されたから「今、創造」しているみたい。
なにがどう繋がっているのかわからないね。だけど、すべてにおいて繋がっている。
あのとき、私は信じていたんだと思う。あの口約束を。それだけが真実であり、その真実が結果『今の創造』に繋がっている。
私たちは騙されたいのである、心から騙されたい。そして創造をしたいのである。
女とはそういう生物らしい。男性を心から信じるとき私たちは創造的である。で、信じられないのもまた女であるからこそ、右往左往してしまうけれども、そもまた、人生なのではないかと思うよ。
多くの人が創造を私に与えてくれている。
ここでネタバレか~。
私は「自分のことでの創造」はほとんどしていない。私は「人の為の創造」をしている。
たぶん、世明けのツインレイの内容——、全部自分の件ではないと思われる。
自分のことだと思ってやっていたんだが、これは私のことじゃないんだろうなと思っている。
分離してしまったな、世明けのツインレイと私が。
私は誰なのか? それは『彼ら』だったんだよ、私は。
『ツインレイたち』だったんだよ。
ワンネスから抜けていくとき、私は『他者の概念』を構築する。
私はもうツインレイではないし、それは『わたし』ではない。
なとりという存在は大衆により生み出される。ゆえに、他者という存在により創造されたのが『なとり』という個人である。
全は一を産む。
私は一から全へと転じ、全となったなとりとの一体的な感覚の元『一』を生み出した。
一 ⇒ 全 ⇒ 一と全
そんなに難しいことはやってないんだけれども、自分という個人をぶっ潰して、全というワンネスに身を投げてしまえば、自分は構築されない。自分を『大衆』により構築するとは『自分というワンネス』から『自分という個人』を生み出す。
このふたつが揃うとき『神人』になる。
私は「私という宗教」を生み出した。そして「私という宗教につかえる自分」を生み出した。
これが『神人』。
ヒットラーも予言していたよね、新しい宗教について。これのことだと思うよ。(ヒットラーについてはいくつかこれから記事をあげていく。)