土星回帰による社会性について

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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土星を私は「社会」「ルールや規則」「父性」という形で認識している。

これは抑圧であり、私は土星を構造主義者なんじゃないかと最近は思っている。

構造主義を土星とし、太陽を実存主義としてみる。

私たちは子供のうちは、実存主義という「すべては自分の意思である!」という生き方をしていく必要性がある。その生き方そのものが太陽っぽいなと。

たとえば『自分は創造主である』っていう考え方も、実存主義の思想にある。自分が世界の中心にあり、自分が世界を展開しているんだ! っていう思想。この実存主義による発達をキルケゴールさんが『主体性のある自分を作りましょう』って話をしてくれている。

構造主義は真逆。『自分は存在しない』っていう考え方になる。自分はコミュニティーに依存し、人は不自由な存在である——という視点にある。そもそも自分を構築していたのは自分ではない、他者である! と。

心理学的思想が実存主義であり、社会学的思想が構造主義にある。

実存主義的な自己主体的な人生を生きてきた子供時代を送った人たちにとって、社会に入り込み「社会構造の中にある歯車のひとつであり、あなたに意味はなにひとつないよ」っていう突きつけをうけとるときがあり、それが土星回帰が強く関係しているのではないかと考えた。

つまり、実存主義の存在は構造主義を受け入れていく必要性があり、構造主義へと移行していく経緯で私たちは「大人」になっていくということ。

構造主義とは「社会の駒です!」っていう主張ができるようになっていくこと。自分が何かを為すこともないし、自分が何か大きいことができるとは思わないこと。

子供の頃に「お花屋さんになりたい」と話すのは「自分はお花屋さんになれる」と思うことにあるんだが、これは夢であり、社会に出て本当にお花屋さんになれるのかっていうと、また別の話。夢と現実はまるで意味が違うのである。

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20代による実存主義から構造主義へ

私たちは、20代にはいると構造主義の学習が始まる。そのなかで「自分はどのポストにはいるのか」「どの社会の歯車になるのか」を考えるようになる。それは自分の気質や自分の人生観、自分の個性や適性などを考え、自分が構造のどこに入り込むことが自分にとって社会の歯車になれるのかを考えるとき、私たちは「社会人」になっていく。

これがまず、実存主義から構造主義への転嫁していく経緯にある。

私たちは「なりたい私になる」のではなく「社会に求められている自分になる」ようになる。これが構造主義的な視点でもあるのかな、と。

実存主義は『自分の心理』→『自分の社会性』というカタチの構造を求める。これが「自分は創造主だ」っていう思想。なりたい自分になれるって思っている。自分の思い通りに社会をつくれるって盲目的に信じている。

で、構造主義は『世の社会』→『自分の心理』というカタチになっている。いわば、社会に求められている自分になっていき、その社会のなかに心を差し出すことにある。このときの実存主義の心理と構造主義の心理は別物なんじゃないかな? と思っている。

この構造となっていくとき、私たちは「なりたい自分」から「求められる自分」に変更されていく。

そして、これが「社会の歯車」「社会の駒」という、自分のアイデンティティがなくなり、社会的なアイデンティティを手に入れていく経緯にある。

私は、この構造が「土星」と「太陽」の関係性にあるんじゃないかなと思った。

土星回帰の役割とは


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土星の役割は「構造主義」にある。

つまり、それは「社会一般論」ってことにある。すべての人に適応され、すべての人が持っているアイデンティティがある。日本であれば日本人であること。これは「日本人である限り、日本の法律を守らなければならない」わけである。

これが土星の役割なのかな? と思った。

その人の個性、その人の適応などを考え、土星は「どこにコミュニティーに属するのか」を的確に判断をしている。つまり、自分と向き合えば向き合うほどに『自分に見合う社会にすっぽりはまる』のである。

そして、その属性する社会のなかに自分を的確に当てはめることが出来ていれば、土星回帰により特に何かがあるわけではないような気がしている。

たとえば、私の場合、土星回帰の期間に社会復帰が求められたのか? っていうと「ニートでいいよ、健康取り戻そうね。それから創造のほうをやろうよ」って話が土星から言われていた。つまり、土星回帰のなかで、自分が自分のできる限りのことを『社会』のなかで創り出していくことに意味がある。

どのポストでもいいし、そのポストに自分を当てはめ、その当てはめたなかで『社会の駒としての役割を担う』必要性がある。それがニートであっても、そこが最適解ならば、土星改革は起きないのだと思われる。

そして、この構造主義は、人寄りも秀でた部分、いわば個性などによりコミュニティー選択をしてくれたりもするけれど、もちろん秀でた個性を育てた人にも的確にその場へ提供もするだろう。

でもすべては「構造主義的な社会」を基盤として導き出されていると思う。社会一般的に、この人はどれぐらい秀でているの? ってこと。

 

結婚や妊娠などが土星回帰により多いのは「結婚できる相手がいるのにしないならば、社会的に結婚をすること」が求められる。しかし、結婚できない相手なのであれば、別れるように——って話になる。

これもまた『社会による審判』である。その人が社会的にどうなのか? を軸において、できるのであればするし、できないのであればしない。もし、離婚になるのであれば、それは「社会的な審判」によりダメになったって感じなのかな? と。

そして、結婚しているのに子供を産まないっていうのは、社会的にどうなの? って話にもなる。社会的に子供をつくっていくことは「社会的な女性の仕事」なわけで、それを放棄したらいけないからこそ、土星から「さァ、子供を産むのです・・・」と言われてしまう。

 

つまり、土星回帰は、子供時代の実存主義から大人の構造主義への変更がなされていくなか、実存主義でありたいと駄々をこねた存在には「構造主義へ強制連行」され、構造主義に変更されている人たちには「福禄」が与えられているのではないかと考えられる。

もう既に構造主義に変更できている人たちにとって、構造主義でそこそこ努力をして何をするべきかの道の上にいるから、その分だけ与えられるものがあるのである。やっぱり、その時間「若いのによく頑張ったね」ってお話なんだ。

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土星を受け入れられる人たち

この土星を受け入れるとは「社会」を受け入れることである。

その社会指標により、自分の立ち位置を明確に理解し、自分の立ち位置を受容すること。

そして、自分が「どんな個性」「どんな性質」「どんな気質」と、ありとあらゆる側面から、自己分析がなされ、最終的には「自分があるべき場所」に収まっているとき、私たちは社会性を持っているのである。

私がブログ発信をし始めたのも、土星の時期。文章を社会へ発信し始めたのがこの時期だったかな。

つまり、自分がどの位置に立ち、自分がどのように生きていくのか——。自分の個性を受け入れ、自分の人生を受け入れていく人たちにとって父性は厳しくもありながら「あなたの社会の在り方」を叩き込んでくれる感じ。

それは大前提に「自分はいかなる存在か」を明確に理解し、実存主義的な思想をまっすぐに生きるしかない。

構造主義へと向かい、自分が『実存する』のである。構造主義になる自分を選択していくための実存である。

これがライ麦畑で捕まえてに繋がっているかなと思う。

サリンジャーは、大人になれなかった。自分が社会という世界に入り込み、ただ働いているだけのなんの価値もない大人にはなりたくない——と主人公に語らせているけれど、つまり、サリンジャーは構造主義の良さがわからなかったって感じなのかな、と。

実存から構造へと切り替えていく心理が難しかった。それは『自分には価値がある』という思想を手放せられなかったんじゃないかなと思っている。

最終的に「自分には価値がない」と構造主義のなかで理解し、また、その理解が次に社会離脱へと向かってしまう。

 

ちょっとだけ心理的特徴として、自分に価値があると思っている人たちって自分を守る意識が強い。そして言い訳が多いような気がしている。

何かしらの理由がなければ、構造主義のなかに入っていくことができない。

 

構造主義の中へ自分を溶け込ませるとき、子供時代の自分を抑圧させ、抑圧した自分が分離してはさよならをする。その後、私は明確に「人のために動くことにエゴが働きにくくなった」と認識している。

やっぱり若い頃はエゴの破壊はなかなか難しかったよ。自分が自分が——とでてくるから、その自分をいかに抑圧させ、人に従うのかの部分を私はかなり訓練してエゴの消失へと向かわせた。最終的にはこの「さよなら」を機会に、そこまで苦しくなくなった。

これは土星回帰に起きたことだけれど、この感覚が『社会性を持った人』になることなのかな? と思った。

そして、これは『社会で生きる手段』を持っているのだと思う。

 

また、この土星の構造主義への転嫁がとてつもなく大変な人たちもいるってこと。それは『自分に価値を求めている人たち』や『自分の意思が強い人たち』など色々といる。

けっきょく、その心理がいかに動こうが「事実は事実」としてそこにある。

だけれど、本質は違うんじゃないかなと思っている。

価値がないのに自分には価値があると思っている人たちにも、価値があるからその価値を生かそうとしている人たちは明確に違う。

前者はそのまま土星に抑圧されると思われる。父性は「いや、価値ないから。」って言われてしまう。後者は抑圧ではなく援助が入るのではないかと思っている。「マジこれ価値あるから。」って感じ。

それまで抑圧により評価されなくても、このタイミングで評価され始めていく。それまでは20代は抑圧なんじゃないかなと思っている。

抑圧からしか得られないものを得ようとする人たちもいるし、抑圧から逃げ出して、最終的に殴られてぶっ倒れていく人たちもいる。

 

私が見ている限り、30代にはいるかはいらないかまでの間に、勉強しまくっている人と勉強を全くしない人の2種類に分類されると感じていて。

30代に入ると『明確にわかる』よね。

30代に入って、使える人と使えない人の2種類に分類されていく。もっているものがある人はあるし、もっていない人は本当に何も持っていない。

「社会的な肩書き」なのか「家族」なのか。それとも「能力」なのかは千差万別なんだけれど、この20代でいかに土星と奮闘して戦ってきたのかにより随分違うのではないかと思っている。

それは『太陽』と『土星』の奮闘で、今まで自分が世界の中心だったのに、これからは誰かを世界の中心にしていかなければならない年代へと突入していくことにある。

 

構造主義になる自分を選択していくための実存である。

このように書いたが。私は、この『自己主体性の実存の強さ』というのがあるとき、その力量を構造主義に変換されることになる。

つまり、自分の人生を『自分で生きる』としている人たちは、それを全振りで構造主義にエネルギーを変換していくから、社会への溶け込み量が凄まじくなるって感じ。

それが能力として現れて、世に名が轟いたりもする人がいる感じ。

 

なとりさんも「あたいの人生の選択は誰にも譲らない派」。そういう自分の人生を生きるなかで、本当の強さとは「自分の人生の選択権を他者に全部預けては、その選択による結果がいかなるものであろうが『私の選択だ』と思い受け入れること」だと思った。

 

これがタブン実存主義と構造主義の循環なのかもしれない。そして、構造主義へとなっていくこと。

あと、あんまり意味がないとも思った。

けっきょく、実存主義を貫いても構造主義を貫いても『現実的結論は同じ』だなって感じ。

自分の意見も、あなたの意見も同じでしょ? だから、あんまり意味ないのよ。私が「そうだ」と思っていることは相手も「そうだ」と思っているってこと。だからあんまり意味がない。どっちでもいいって感じ。

それを理解するには「相手の選択を押し付けられたときに「いいぜ」って軽いノリで乗っかっていくこと」でしかない。

人生って「自分の人生を自力で生きること」も苦痛だけれど、「自分の人生観や生き方が明確にあるのに、人に自分の生き方を決められていくこと」も激痛レベルに痛い。私は自分の人生を自分で生きている実感があって、それが出来たから、真逆を実行してみていた感じ。

したら、巡回して同じことなんだな、どっちでもいいじゃねえかって結論がでた。

 

つまり「社会=個人」ってことだ。社会が望んでいる自分になることは、自分が望んでいる社会の個人になることと同じこと。

それが「明確に社会」と「明確に個人」を捉えているときに限りであるが。