ツインレイの母性と父性によるタイムラインと子供 ②

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ツインレイステージまとめ

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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続きです。

 

引用:ツインレイの母性と父性によるタイムラインと子供

それぞれが適応していくと、このように新しい概念が発生するようになる。

そして、このケースだと「子供」の場所が夫の部分しか生まれない為、実はこれだと「男の子」のケースとなる。ゆえ、女の子ケースは、妻の部分に「子供」を入れこんでいかなければならない。

 

もともと私たちは「自分なりの女性性を妻」とし、「自分なりの男性性を夫」としている。この自分なりの自分らしさを青年期に構築し、この自分らしさを社会へ適応していくことにより大人へと変貌していく。

この大前提を理解しているとき、私たちは、先ずは「自分と言うアイデンティティの構築」を必要とし、次に「絶対的他者を内包してアイデンティティを構築」という順序を必要とする。

そして、この絶対的他者を内包してアイデンティティを構築するためには、相手を受け入れる度量みたいなものが必要になる。

この自分と言うアイデンティティを構築するとき、私たちはそれなりに「自分なりに女性」であり、「自分なりに男性」なのだが、それは親から引き継ぐことになった自分である。

ゆえに親から与えられたアイデンティティを持っているということ。この親に与えられたアイデンティティを自分なりにカスタマイズするとき、私たちは絶対的他者を必要とする。

この絶対的他者とは「他人」「異物」というような、自分とは真逆の異質を必要とする。この真逆の異質を内包することにより、人は新しいアイデンティティを獲得し、拡大していくことになる。また、自分の裏側に存在するシャドウの内包をも意味する。

 

今回はさしあたり、女性の子供時代の癒しが出来ていないので、そのあたりを書く。

まず、女性側の感覚として「女の子は育て上げられる感覚するだろうか」というやつ。あと「男の子は育て上げられるだろうか」って感覚。

つまり、この「出来るかな」という感覚が自分のなかにある自分の子供時代の癒しがすんでいる状態にある。女性は女の子の子育てができる感覚は、自分の子供時代の癒しがすんでいるし、男の子の子育てができる感覚は、相手の子供時代の癒しがすんでいるということ。

この癒しの感覚が得られているとき、女性側は相手の気質を受け取り、愛している状態にある。もちろん、子供を産み、産んだ子を愛することも夫を愛することに通じ、我が子を育て、共に子供時代を癒すこともできる。

私たちは子供時代の傷を多く残しておくと、子育ての段階で自分の傷が浮き彫りとなっては逃げだしたくなるのだと思われる。

図の説明:女の子が育つとき

このとき、女性側の気質が大人になっていく経緯で、夫という立場は父へと変貌していく。そして、子供時代の傷を癒しきると、子供は妻という立場になっているが、父と妻という相関性のとき、ふたつは相反することになる。父は妻と言う女性を抑圧し、支配しようとし、妻は父という存在に反発を起こす。

そして離別が生まれる。この離別するとき、男性側には「父」と「夫」の分離を必要ともし、父の気質へ変貌してしまっているからこそ、離別が生まれるのである。

その反発した存在へと適応していくことで、妻は母となるため、自らの傷を癒していくことになる。

つまり、順番にどんどん適応していく。

この適応性により、前記事と並行してみることにより「男の子」と「女の子」の気質が両方とも母側に受け継がれ、その母側により統合されていく。

つまり、女性側が「子供の時の気持ち」を持ち、男性側では「子供の時の気持ち」を忘れてしまう。女性は少女でもあるが、大人である母のふたつのギャップ的な側面性を持つ。これを共感性と呼ぶ。

傷ついた心は共感を呼ぶことができない。ゆえに、その傷ついた心を癒すことで子供への共感性を高めていく。この共感性が男性への共感、女性への共感を持つことにより子供の心が豊かに育つという算段である。

この共感性とは受容力でもあり、男性側を受容しきること、自分自身を受容しきることにより、丸ごとを受け入れることができるようになる。そのために自分の影となるシャドウの内包はとても重要なことなのかもしれない。影のなかには自分が受け入れることができない悪の側面性があり、その悪を内包することにより、子供が持つ悪しき側面をも受容するのである。

 

この過程からわかることなんだが、ツインレイのサイレント期間の開始時期になぜ別離が起きるのかである。

図の説明:結びつきによる反発が起きる

このサイレント期間の別離のとき、母という意識が生まれ、また父と言う意識が生まれる。

この意識は、母は夫を子供として認識し、支配しようとする。父は妻を子供として認識し、支配しようとする。

このとき、お互いのなかにある意識は「父」と「母」なのである。つまり、夫や妻という概念から成長し、お互いがお互いを愛する過程において心の成長を遂げている。しかし、相手が成長しているとは思わない。

いわゆるこれが「相手を見下す意識」とも言えるのかな? と思う。そして、自分のなかにあるふたつの意識が分離してしまうこともひとつの何かのような気がしている。

大人と子供の自分が分離することで、その分離した子供をすべて母側が担い、背負い、癒す過程が存在している。癒しきると共感性が生まれ、受容力が高まると言うこと。

 

私たちは子供と大人で言えば「大人」とは「子供ではない」のである。しかし、子供のまま大人になってしまうケースが多く、子供がそこにいても未だに子供のままのときもある。

ゆえ、私たちは大人になるために、先ずは「父」と「母」という概念を生み出す必要性がある。いわば、子供がいなければ私たちは大人になることができない。

大人になるために、私たちは自分のなかにある子供の概念を分離させる。分離させた子供の概念は母に収容され、母が共感力として保有する。

図の説明:母と妻の両軸

つまり、妻とは「自分軸」にあり、母とは「共感性」という社会的な他人軸と考える。

この子供の自分が分離したとき、この子供の自分があるからこその共感性が生まれ、それが母となる。

いわゆる、妻という存在が母という存在へ進化したところで、それは「本当に母だったのか」というと、ただの支配を持った女性ということ。これは母ではない。

図の説明:父&夫の統合意識

男性の場合、他人軸のみにより自己を形成するため「自分」が喪失されていくことになる。自分とは常に社会に向けて存在し、自分の在り方が社会に依存する形に変化していく必要性がある。

分離過程は女性と同じになり、父とは支配的な存在であり、子供の自分は女性に預けられることになる。女性により癒しの過程を経ていくことにより、癒された意識が「父性」とへ変化し、支配的な父は「夫」のへと変わり、このふたつは統合されていくことになる。

なぜ、男性の場合、統合されるのか——だが、女性の場合、共感性と自分を分離させておく必要性がある。理由は、子供と同化し続けてしまってはならないためにある。子供を自立させていくためには、子供との分離過程が必須となる。

しかし、男性の場合、同化するべきは子供ではなく社会にある。社会の一体化を図るとき、当人に「自分軸」という思想は不必要と言うこと。

 

ゆえに、男性の場合の優秀な性質とは「社会と一体化すること」である。そして、女性の場合の優秀な性質とは「共感性の高さ」と「自分」というふたつの意識を共存させることのできるキャパシティーとなる。

男性は社会そのものであり、女性とは社会と家庭の軸を繋ぎ、子供を社会へ送り出すためのバイパスの役割を担っている。

 

この発達の段階で、子供の自分の癒しが進まない場合、女性は支配を持つことになる。そして男性は子供のままとなり、妻に従う夫の構造が生まれる。また逆転し、男性が支配を持ち、女性が子供のままのワガママ(我を通す)を持つこともあるのかもしれない。

ただ、ほとんどが女性が支配を担当し、母性を支配者とし、父性を従属した子供としてのカタチを持っているような感じ。(逆転するとDVとかになるのではないかな。)

 

私自身が癒しの過程で必要だなと思ったのは、女性の場合、己のなかに「支配する母性」ではなく、子供の自分に共感する母を構築し、分離している子供の自分に共感を示していく必要性があるように思っている。

この結果、支配的な母のイメージから、共感を持つ母のイメージへ己をビジョン化させていくことが可能なのだと思われる。

男性の場合「自分に与えたいものを与えること」なのだと思う。それが何なのか——が私にはわからないが、自分にとって必要な成長を阻害するのではなく、成長するために必要な素材を集め、自分に与えることなのだと思う。

最終的には父性が「与えてくれる存在」へと変化し、いつか、自分が誰かに何かを与えられるようになるまでやり続けるしかない。

 

一度、彼のアカウントの近くでウロウロしているとき、私の中にいる彼が「ばいばい」と言っていなくなった。彼がお迎えに来たから帰ると言う。

なるほど、子供の彼くんを預かっていたのかなと思ったんだ。そして、そのまま、私は離脱していくとき「待ってるね。」と話したような気がするんだよな。

それが去年のことである。

そして、彼は自分のなかにある子供の自分(父)と、そして夫の概念を統合していく過程を経ているんじゃないかと思っている。

私は同時進行で子供の自分(母)を共感性へと上り詰めらせ、そして、妻の概念である自分軸の両軸を構築していく過程を持っていると思う。

つまり、私が「今時分、何をしたいと思っているのか」「何を創造したいのか」は、私のなかで「自分軸」なのだと思う。この自分軸の構築そのものが妻のカタチなのかな? と思っている。そして、それが「待つ」なのかな? と思っている。

自分軸があると、待っていなくても待っている状態が続く。やりたいことをやっているだけだけれど、そうやって待っているのである。

これは私の使命ではないけれど、人の役に立つことがあったりもするし、もちろん、私の役にも立つだろう。