ツインレイの生きる手段と生きる目的(虚しい感情)
私たち人間は『生きる目的』を知りません。それはツインレイも同様に、生きる目的を知らずに生きています。
生きる目的とは、この人生がなぜ存在するのか——の答えです。私たちはこの人生に意味をつけることが出来ません。
理由を持って、この地上に生まれてきたことを覚えていない為です。だからこそ、私たちは虚無感を覚え、ふとしたときに「虚しい」という感情を覚えます。
私たちは『生きる目的』を忘れているのか、そもそも存在しているのかすらわかりません。
目の前に存在する大きな壁があるとき、それを乗り越えていくことを目的とした人生をむかえることがあるかもしれません。それはツインレイという壁です。
もし、このツインレイという壁を乗り越えたとき、私たちは目的を果たし終え、次なる目的を探さなければなりません。
この目的と目的達成を連続的に起きることが『人生』です。
しかし、私たちが知りたいのは『一時的な目的』ではありません。この人生そのもの、私たちが人として生きる・存在する目的を知りたいのです。
ツインレイの分離『手段と目的』
ツインレイたちは、一方が『生きる手段』を学ぶような人生を送ります。そして、もう一方が『生きる目的』を探すような人生を送ります。
ツインレイたちの人生として、生きる手段を学ぶ人生を送る側は『生きる目的』がありません。ゆえに『死』を恐れることもなく、手段が目的となっています。ゆえに「いかに効率よくこの人生を送ろうか」と言う視点を持った人生となります。
生活能力の高さ、生きる力や経済力が備わり、生きるために必要なことを学んでいます。
しかし、その反面に生きる目的がないため、この人生がなんのために存在しているのか——。という問いから逃げることが出来ません。
その問いかけの回答は『ツインレイの相手』が握っています。
ツインレイのふたりの出会いは『生きる目的』との出会いとなります。
生きる目的を探す人生を送る側のツインレイは『生きる目的』を持っています。この人生を「どのような人生をして送っていくのか」の指針を建てることが出来ています。
しかし、生きる手段を一切もたずにいるために『生きる手段』がありません。生きる手段とは『生活能力』を始めとした経済力などです。
ツインレイのふたりの出会いは『生きる目的を果たす』ことができる出会いとなります。
ツインレイの出会い
ツインレイの出会いでは『生きる目的』と『生きる手段』の出会いです。
ツインレイはふたりでひとつの人生を意味します。ふたつに分離している人生は、生きる目的を探し続け、生きる手段を探し続けています。お互いにその人生が重なり合うことで、ふたりの人生が二倍に豊かになるようになっています。
ツインレイのサイレント期間の終盤では『生きる手段』と『生きる目的』を学び、お互いが持っているお互いの資質を相手へ提供し、お互いの人生を重ね合わせられるようにしていきます。
ツインレイの持つ目的をふたりで分かち合い、手段をふたりで補い合っていきます。
私たちは何のために生まれたのか
私たちは、なんのために生まれたのかを知りません。かくいう過去の哲学者や心理学者なども、ひとつも答えを得ることが出来なかった問いかけのひとつ——です。
また哲学者たちは「意味など何もない」という絶望から、自死するということも度々あります。
探求の末、探求の結果が『死が目的である』とさえ、感じられることもあります。かくいう私も「意味などない人生」を理解し、「死を求めて生きる」というような感覚を持っています。
だからこそ、この世は『地獄』なのです。意味がない人生、そして、死を待つ人生——。これ以上の苦行はありません。
しかし、私たちはツインレイと出会うことにより『意味がある人生』と『生きる理由』をも見つけることが出来ます。
いっしょに生きていこうと思うこと、死ではなく、生を正当化することができる出会いがツインレイです。
そして、この無意味な人生を『意味がある』と思うことができるのも、ツインレイの出会いとも言える。
私たちは、何のために生まれたのかの理由がありません。
しかし、一つ言えることは『ツインレイの相手を探す輪廻』のなかにいたということです。
ツインレイの相手に出会うとき、私たちは「やっと見つけた」というような感覚を覚えます。
ツインレイたちにとって、ツインレイの相手は目的です。そして、ツインレイの相手は、私たちの生きる活力でもあるのです。
ツインレイの感情『虚無』『虚しい』を感じるとき
ふと、ツインレイたちにも虚しいというような感覚を覚えるようなときがやってきます。
それは、ツインレイの関係性に固執も無くなり、ツインレイの相手に対して想い馳せるようなこともなくなり、落ち着きを取り戻してきたようなときに、ヒョッとでてくるのが『虚しい』というような感情です。
私たちは、人生の目的をツインレイの相手だと感じたとき、サイレント期間では『虚しい』という感情を抱くのです。
サイレント期間では、ツインレイの相手がそばにいません。それは私たちにとって『生きる意味』『生きる活力』『人生の目的』を失っているような状態でもあります。
生きるために必要な手段をし続けているツインレイたちは、仕事に没頭したり、生活に勤しんでみたりと、色々とやってみているかもしれません。
しかし、それは手段に過ぎず、一呼吸おいて安住の場所に自分を置いてみたとき、虚しい感情が湧き上がります。
ツインレイの相手は『虚無』なのです。ツインレイとは虚しい関係性であり、また無なのです。そこには何もありません。
私たちはツインレイの相手を想うと、虚無に襲われ、虚しい感情を抱き、生きる意味がツインレイの相手のもとにあったのだと気づきます。
ツインレイたちは、ツインレイの相手こそが『自分の目的だったのだ』と気づくのです。
ツインレイたちが自分の目的に気づくとき、必ず私たちは『虚無』や『虚しい』という感情と向き合わなければなりません。
ツインレイたちは無を有に変えてく必要性があります。
ツインレイの相手は『虚無』であり、また、虚無こそがツインレイの心の正体でもあります。
私たちに心などないのです。ツインレイのふたりは『虚無』という虚空なのです。
ツインレイの正体が虚空に切り替わる
簡素に言えば、ツインレイの相手に「思う心」などひとつもありません。
なにも思っていなかったのですが、それを何か思おうと必死になっていただけで、過去の記憶のなかにある感情を再び経験していただけに過ぎず、ツインレイのふたりは『別に思い合っていたわけではない』ということ。
ツインレイの相手に対しての本心は、本心ではなかった。それが事実としてそこにあるということです。
これが『ツインレイの相手は虚無である』という真意です。
冒頭に戻ります。
ツインレイの相手は生きる目的でもありました。しかし、この虚無が襲うとき、私たちは『ツインレイの人生の目的』を終わらせていきます。
何度も輪廻を繰り返し続けながらツインレイの相手を探し求める『人生の目的』が終わりを告げているのです。
ツインレイの相手を探し求めるという人生の目的は『虚しい』という感情と共に消え去っていきます——。ツインレイを求め生きる姿もひとつの『人生の生きる手段』に過ぎなかったのだということです。
ツインレイの相手が『虚空』となると・・・・・
ツインレイの相手に思う意識を『大好き』と『大事にする』として私を創造したときに、お父ちゃんが私へいれたものがあります。(これが純粋なる精神である——)
それは『父の意識』であり、また『父の心』であり、私自身のものではありません。
それは父が私へ『大好き』って気持ちと『大事にする』という気持ちを教え、その気持ちを軸に、ツインレイと出会うとき、ふたりは『大好きになって』『大事にする』関係性へとなっていきます。
しかし、それでは『父が父のなかで愛し合っているだけ』の構造です。
私たちが父のひとつの欠片同士となって、父が父同士に愛を働かせているだけです。いわば、そこに私たちの意思などひとつもありません。
私たちは、先ずは父が私たちへ与えた『ツインレイの相手へ大好き』と思う気持ちと『ツインレイの相手へ大事にする』と思う気持ちを終わらせていく必要性があります。
ツインレイの相手へ大好きな気持ちも、大事に想う気持ちも『父が私たちへ与えた感情』ではありますが、私たちは時すでに新しくオリジナルの感情を抱えています。
ゆえに、私たちは先ずは父が私たちへ与えた感情を抜いていく作業を行う必要性があります。これが『虚しい』や『虚無感』として感じられていきます。
次に、私たちはツインレイの相手へどのように思っているのか、どのように感じているのかを再び再スタートさせていくことになります。これがツインレイの再会です。
ツインレイの期間、私たちは魂として親から自立していくことを望みました。神である父に与えられた感情を終わらせ、私たちは私たち自身が感じている感覚を優先にして生きていっていいのです。
そのベクトルが『地を別けた親』なのか『魂を別けた親』なのかによってステージが変わります。
私が話しているのは『魂を別けた親』から与えられた本質的な部分の父が持つ博愛主義を終わらせていくことです。
ツインレイの相手を本当の意味で好きになること
ツインレイの相手は、虚しいという感情を終わらせていくことで『生きる目的の対象』ではなくなっていきます。
ゆえに、最終的には『とるにたらん価値のない存在』へとなります。
ツインレイの相手を恋焦がれるように魂が共鳴するかのように求めることも無くなりますし、ツインレイの相手に価値があると認識することもありません。
本来の『他者』というような感覚を感じられるかと思います。
今までのツインレイの関係性のなかで感じてきた感情は『神の意識』であるということ。
しかし、私はツインレイがツインレイと出会い、結ばれていく段階で『ツインレイの相手』と認識をしたなかで、私たちが経験をしたこともなかったことにはなりません。
たしかに、神である父が引き合わせ、結ばせた縁でもありました。そしてそれが『神からのプレゼント』でもあります。魂が成人していくときに与えられるプレゼントです。
その過程のなかで、確かに私たちは『私たちの意識』も芽生えていたのです。その意識が、ツインレイのふたりを分離させ、サイレント期間へと向かわせたのです。
ツインレイたちは、ツインレイと惹き合わせる父の力と、自分の意識という自分の力のうち、自分の意識が勝るとき、ツインレイのサイレント期間が訪れる。
最終的に、私たちが『自分の意識だけ』になるとき、ツインレイたちは魂が成人期へと向かいます。
そして、その成人期になった魂として、親の意見や意識を一切もたない状態で、ツインレイの相手をよく見ることになります。
私たちはツインレイの相手を選んでも、選ばなくてもいいのです。
私たちは親によってツインレイの相手を結ばれていました。その意見を受け入れ、また次に批判し、反抗し。最終的に、私たちがどのような結論を出しても許されています。
ふたたび結ばれたいと思う自分の意識が芽生える人たちもいると思いますし、ツインレイの相手とは結ばれたくないと思う自分の意識が芽生える人たちもいると思います。
少なからず、私たちはあのとき、親である父の意識によって恋愛をしツインレイをスタートしていったことにより、私たちは『自分のオリジナルの感情』をもとに、ツインレイの相手を見ていたわけではありません。
そして、自分のオリジナルの感情でツインレイとのサイレント期間を迎えることになりました。
私たちはサイレント期間で色々な経験をつむことにもなりますが、その結果、ツインレイたちがどのような結論を導くことになるかは、やっぱり私たちのオリジナルの感情によって左右されることになります。
ゆえに、ツインレイたちは再び再会をし、再び「これからどのようにして生きていくのか」を相談しなければなりません。
私たちは私たち自身の幸福についてを、自分自身で考えられるようになった今、ツインレイのふたりは『神の恩恵』などなくとも、結ばれるのか、結ばれないのかをお互いの為に必要な道を示すことができるようになっていきます。