サイレント期間の開始から終わりまでのツインレイ男女による精神の相関性
なぜ忘れていたのかがわからない。が、忘れていたことを思い出した。
サイレント期間の開始のとき「あなたは私が嫌いです。」と彼に宣言をしている。
そして彼は私に「できない。」と宣言をしている。
このときの私たちの心理についてを忘れていた。
私は、ツインレイの彼に「私のことが好きなんだろうな。」ということはわかっていた。しかし、同時に態度は最悪なる「嫌いな態度」となっている。
そして、私は彼を大事にしたかったわけなんだが、大事にすることがもはや出来ないところにまで来ていた。
この相関性だが、ツインレイで語られている通り、ツインレイ男性の愛を恐れるというところに起因するように思う。
というよりも、私を好きになればなるほど、自分を嫌いになる。そんな感じにツインレイ男性は追い詰められていく。だから私への態度はみるみる『嫌い』にならざるをえない。
そして、私が彼を大事にすればするほど、どんどんとツインレイの彼は私を大事に出来ない姿へと変わっていく。
この相関性はツインレイが二元論に縛られている為である。
サイレント期間が始まるまで
ツインレイ男性は他者を好きになれば、自分を嫌いになる。
ツインレイ女性は他者を大事にすれば、自分を大事に出来ない。
私たちは、自分を犠牲にしてツインレイの相手へすべてを差し出したツインレイである。ツインレイとは究極なる他者の集合体だからだ。
これが私たちの大いなる二元論の失敗である。他者か、自己かのどちらかしか選べない私たち。
ここから私たちはサイレント期間へ本格的に突入していくことになる。
サイレント期間へ入る前の精神トレード
しかし、サイレント期間に入る前に、私たちはツインレイの相手へ『すべてを愛する』ことをし、その愛されている事実をツインレイ男性は受け取る作業が行われている。
これはツインレイ女性も同じである。ツインレイ男性に『好かれている』ことを、その事実を受け取る作業がある。
このとき、ツインレイの男女は『信頼関係』を構築しきることにより、ツインレイのふたりは精神をさしだすことになる。
サイレント期間はこのようにして、信頼関係を構築してから始まるのである。
サイレント期間のランナーとチェイサー
このサイレント期間で、私はツインレイの彼と何度か関わり、言葉を交わすことなく、終わらせている。
このとき、私は何度もツインレイの彼に「嫌われている」ことを受け入れることになる。
そして、ツインレイの彼は「大事に出来ない」ことを受け入れる。
ちなみに、本心的には嫌われているってわけではなくて、なんかこー。そういう気分みたいなのを味わう程度で終わる。別に彼が本当に私のことを嫌っているだなんて思ったことはない。
気分の味わいでもあるけど、ダイレクトに魂に響く感じもするから、感情が駄々洩れる感覚もあるが、それが『すべてではない』こともちゃっかり認識している。だから、別に気分が凹んでいるからって、それがすべてではない状態のなかで、私は嫌われていることを受け入れていった。
この作業は何を行っているのか。
反転させているのである。
ツインレイ女性のなかにある自己犠牲は『他者嫌悪』へと続き、ツインレイ男性のなかにある自己嫌悪は『他者犠牲』というカタチに着地していく。
このとき、ツインレイ女性のなかには『好きと嫌い』の葛藤が生まれ、ツインレイ男性のなかには『愛と犠牲』の葛藤が生まれる。
これは、ツインレイ男性のことが好きであり、嫌いであるツインレイ女性。
ツインレイ女性のことが大事でありながら、ツインレイ女性を犠牲にしてしまうツインレイ男性。
これは『ツインレイが自己と他者』という概念により構築されている感覚である。
いわば、ツインレイ女性はツインレイ男性を『他者』として、捉えているために『他者嫌悪=ツインレイ男性』となる。
ツインレイ男性はツインレイ女性を『他者』として捉えているために『他者犠牲=ツインレイ女性』となる。
この関係性が続いている期間がランナーとチェイサーとなっている。
私たちに必要なものは『ツインレイの相手を他者とした概念から外すこと』である。いわば、お客様ではなくなることだ。
ツインレイの手放しと闇の総量
そのとき、ツインレイ男性は『他者=ツインレイ女性』の概念から外れ、ツインレイ女性は『他者=ツインレイ男性』の概念から外れることになる。
そのときに生じる存在が『闇』である。これは私自身が鬼門だなとか、天使と悪魔だとか。色々いっていた内容である。
その闇を手放していく経緯で、私たちは『他者嫌悪』と『他者犠牲』を認識していくことにより、ツインレイの男女は『鬼の手放し』により、他者の嫌悪と他者の犠牲という私たちが生み出すことになった意識を消失させていくことが出来る。
つまりツインレイ女性に降りかかる闇の量とは『ツインレイ男性に自分を嫌いになりながらも好きになってもらった量』であって、ツインレイ男性に降りかかる闇の量は『ツインレイ男性に自分を犠牲にしてもらいながらも大事にしてもらった量』である。
だから、大事にしてもらったり好きになってもらった量だけ、私たちは相手の闇を引き受けるのである。この闇が「愛だよ!」とかトチ狂っているとは思う。だけど、理論上では闇は愛と好きの総量と同一である。
最終的にツインレイたちは『自己分離』を起こす。嫌いなものを捨て、犠牲にして捨て去るべきものを排除する。
いわば、ツインレイは自己分離をするために、自己のなかでふたつの分離した意識を内包し、そのなかから捨て去るべき自己分離内容を捨てることを『手放し』とすることが必要である。
また、この嫌いや犠牲を捨て去る前に『一時的に取り込む』という作業が必要である。取り込み、自己統合をしなければ、自己分離をすることも出来ない為である。いわば、自分の世界を『すべてにおいての負をも自己である』という取り込みを行い、次に、排除するという順を追っているということだ。
自己嫌悪対象も『自己である』とか捉えるのは、マジで苦痛である。同一でありたくないと言う意識が先ず大前提にある。ゆえ、向き合えない。向き合えないからこそ、自己であるととらえ、吸収するのは苦痛だ。
しかし、吸収しなければ分離することも出来ない、捨てることの権利が得られないのである。
ツインレイの手放し後
ツインレイの手放し後、私たちの精神領域には『闇』は喪失される。
手放し後、ツインレイの出会いのとき出会っている相手、関わっていた人たちが戻ってくることになる。
当時は『なんか嫌だな』とか『違う』と思っていたものが、戻ってきたとき、とてつもなく今の自分にとっては重要なものだと知ることができる。
サイレント期間に入り、自己統合することにより「今までは良いと思っていたもの」が「本当は嫌だったこと」に気づき。次に「今まではよくないと思っていたもの」が「本当は好きだったこと」にも気づいていく。
そして、それを手に取ることが自分にとってツインレイの関係性にとって大事だとも知る。
私にとっては結婚観を教えてくれた友達になるし、ツインレイの彼にとってはバカみたいに好きな人を追いかけ続けた友達のことかと思う。
手放し後の出会いは『自分にとって本当は欲しかったもの』である。
それは『過去の自分』でもある。私は「お金じゃない。」っていう世界観を持っていたが、じゃあなんなのかがわかっていなかった。心が満たされる結婚がしたい、楽しい結婚がしたいという世界観を得ることが出来なかった。
だけど『嫌い』はわかっていた。じゃあ『どうなのか』を精神構造上、構築することが出来なかったのである。
しかし、それはツインレイの相手が教えてくれるってこと。そして、それが今までわからないっていうのも、ツインレイの相関性なのだと思う。
私たちはツインレイとして引き合い、そのために『答えが分からないようにしている』のだと思う。だって、それ以前に答えがわかっちゃったら他の人と結ばれちゃうでしょ? ってことだ。
ツインレイは『ツインレイの相手が本当に求めている答え』をツインレイの相手から教わることにより、ツインレイとだけ結ばれるようなカタチにしているっていうロマンスがあるんだと思う。
ふたりの合言葉みたいな感じ。その合言葉が一致したとき私たちはツインレイだとわかる。
サイレント期間が終わる頃には
このとき、他者とはツインレイの相手である感覚を覚えることになる。
他者とツインレイの同一化である。
ツインレイが好きという気持ちは、ツインレイ以外の他者から与えれるものにより感じることができる。
私たちは『他者』そして『ツインレイ』のどちらかしか選べないという世界にいた。
しかし、これからの私たちはどちらも選べるのである。
他者である友達も、ツインレイの相手も、両方を選び、共存していく世界が出来上がる。
サイレント期間を迎えている間に私たちは、自己の精神革命を行っている。
精神内では『他者と自己』の概念を組み替えていくことになる。
では、当初の図と最終的な図を比べてみようかなと思う。
大前提にツインレイの持っている感性が『反転している』のである。
私たちのツインレイの魂が発生したとき、『意識が反転』するようにして創り出されている。
私自身は『大事にする』という意識が後天的に生まれているが、先天的には『大好き』っていう意識を生み出している。
彼は逆である。先に『大事にする』という意識が生まれたあとに『大好き』という意識が生まれている。
ツインレイの出会いは後天的な感性のもとに出会う。なんなら、私たちはこの世で反転しているからこそ出会えるのである。
私の場合は、ツインレイの彼を大事にすることができるようになって出会い、ツインレイの彼は自分を大好きになることができるようになって出会っている。
そして、それは『他者と自己』という概念が成立する必要性がある。他者と自己の分離が明確に出来るようになってようやく『ツインレイ』である。
ゆえにふたりは意識が反転しているのである。この意識を反転させることにより『本来のカタチ』に戻る。
ツインレイの男女は反転している。だからこそ、私たちは二元論に陥ってしまうのである。しかし、二元論に陥って出会うことにより、ツインレイのふたりは二元性へと戻ることができる。
自己分離世界は最終的にどうなるのか
このサイレント期間では『自己分離の世界』を生み出している。これは『嫌い』と『犠牲』の世界観なんだが、それは従来の私たちの世界観でもある。それを捨てるのが自己分離である。
ツインレイはサイレント期間で『従来とは世界観を反転させる』ことになっている。
従来の感覚では嫌いは好きだったものであり、犠牲は愛だったものである。その嫌いと犠牲へと組み替え、そして捨てる経緯が必要であり、また私たちは自己統合を迎え、他者と自己のなかに存在する循環を『好き』と『愛』だけで生み出すことになる。
では、この自己分離世界はどうなってしまうのか——である。
結論から申し上げれば、精神構造ゆえ自己分離も自己のひとつのカタチである。
いわば、自己分離世界も『自分のなかに存在する世界』として認識しておかなければならない。ゆえに、自己分離世界は私のなかでは『保存』されている。そこに自己分離がなければ、また私の精神世界に分離を生み出さなければならないため、それを止めるために私は自己分離を『保存』しておくことにする。
統合が生まれれば、同時に分離が生まれる。その連続性であり、また、このふたつを統合することにより『中庸』を見つけ続けていくことは『自己分離との共存』にもなりえる。
ゆえ、自己分離世界と自己統合世界は、私の精神世界に両立し存在し、また、このふたつの世界観を『秩序・倫理』により維持したいと思っている。この秩序が私のなかで守られ続けている限り、自己分離世界は自己統合世界を迫害することはないということだ。