アセンダント(ASC)とディセンダント(DC)とツインレイの関係性—占星術①
占星術で見てもらって、そのなかでアセンダントどディセンダントと存在がなかなか面白かったので、ツインレイに投影して考えてみたいと思う。
アセンダントとディセンダントは、自分の生年月日のみならず『生まれた時間』と『生まれた場所』により変わるものらしく、たまたま母がそこにいたゆえに、生まれた場所まで明確に教えてもらえたのでわかった次第。
それから、私のディセンダントにツインレイの彼の太陽と金星が乗っかっていた。これはもうあれである。『うんめい』とかいうやつになっているんだと知る。
ディセンダントの上に天体が乗っかっている相手は、自分とは真逆のものを持っているからこそ惹きあうという話であり、またこれが『雷に打たれる感覚を覚える』というモノに繋がっているように感じられる。
アセンダントとディセンダントとは
真ん中にある青が地球。そしてそのまわりに太陽がぐるぐる回っているイメージ。
順番にすると、ASC・MC・IC・DCの順番でグルグルと回っている感じなんだが、このうちの夜には太陽は昇っていない。
それぞれを概念化させてみようかなと思う。
アセンダントとディセンダントと主観の観念
ASCは『自己』を意味し、DCは『他者』として定義する。
上記の図では、私たちは赤子のとき『純粋な自分』を持っている。そして、反対側に『自分からみえる他者(親)』という概念が存在していることがわかる。
これは親子の関係性を模している。
しかし、私たちは成長途中で『性別』を理解する。そのときの私たちは他者の概念を組み替えることになる。
性別を理解したとき、私たちは性別を意識することにより異性性を理解する構造が生まれると言うことだ。
また、これがひとつ成長すると『異性』や『同性』という概念を抜けていく。このときようにようやく『自己』と『他者』という概念に到達する。
さて、この経緯において私たちは何度も何度も『自己』と『他者』を組み替えているのではないか——と考えられる。
しかし、この上記に書いたアセンダントとディセンダントは、常に主観を持って書かれている。
私たちは自分を通してでしか他者を理解することができないということだ。
しかし、私たちは「人の心をくみ取る」ということも知っているし「人の話を聞く」こともできる。また「人の思うとおりにしてあげること」もできるし「人を勝手に思い込んでラベリングをしない」ということもできる。
実はこの『他者を尊重する』という意識が生まれたとき、私たちのディセンダントは形を変えるのではないか——と仮説を立ててみる。
主観的なアセンダントとディセンダントがMCを構成する
この主観的なアセンダントとディセンダントは『MC』を構成する。MCは『社会性』なわけなんだが、ここに理想が重なり「なりたい自分」「ありたい自分」などを構成している。
アセンダントに自分が存在し、ディセンダントという理想を目指し、その経緯がMCに入っているということ。理想を追いかける姿がMCにあり、社会性であり『昼』の概念のもとにある。
この追いかける姿が『何か』を定義しているのがディセンダントであり、実は私たちは『真逆の自分を常に追いかけている』ともいえる。これが私たちの人生であり、他者を目指しながら生き続け、そのなかで多くの葛藤をむかえる。
その葛藤は社会のなかにしか存在せず、社会のなかに存在する葛藤は『闇』を生み出す。この闇こそが『IC』という夜の概念であり、プライベートという概念だ。
それは自分が隠したいもの、自分がみたくないものという感覚でもあるし、究極では『社会に没す・他者に没す』にいたれば、切り離した自分の世界観なのだと思われる。
ここから分かることは、私たちはずっと自分の理想を追いかけているんだよってこと。その理想は常に『他者』のなかにあり、ありたい自分を体現しようと一所懸命頑張っている。
その経緯がアセンダントからディセンダントの経緯にある。
その経緯の段階でディセンダントという存在が、
- 親
- 異性
- 他人
という3段階が存在し、今のところ私が理解している段階にある。この段階によってツインレイの関係性は変わってくる。
これが『昼』だとしたならば、もうひとつの『夜』という闇の世界が存在し、それが『ワンネス』へと繋がっている。理由は一周しちゃうからだね。
ワンネス的なアセンダントとディセンダント
理想を体現し続けていく経緯で、最終的には『理想的な自分になれた』という瞬間がやってくる。その理想が出来上がったとき、私たちはディセンダントの立ち位置に存在しているんだと思う。
このときに私たちはツインレイと言われる存在に出会う。理想的な自分になれたとき、私たちはアセンダントの自分ではなく、ディセンダントという自分の存在になっているからだ。
ディセンダントをツインレイとして定義するのであれば、彼らはずっと『そこ』にい続けてくれた存在ともいえる。成長もせず、何もせず、ずっと『そこ』のアセンダントの場所にいる。
アセンダントからディセンダントのほうへ走ってきたツインレイはディセンダント=アセンダントという定義のもとに存在している。ゆえに、ツインレイの相手が『自分』として考えられ、ツインレイは自分なのだと認識を誤るともいえる。
これがひとつのワンネス感覚でもある。
このワンネス的な状態に至るとき、私たちはプライベートというICを構築する。プライベートというよりも『一体化できる安心領域』がICなのだと思われる。
相手は自分で自分は相手。だからしっくりきて安心が出来る。この感覚がICであり、またそれはMCとは真逆の場所にあるということだ。
MCとICによる分離的感覚と統合的感覚
ツインレイにおいて、私たちがなぜか『統合』にこだわっているわけなんだが、私たちは『社会的感覚』が強すぎるゆえにツインレイの相手と統合している感覚を忘れているだけに過ぎない。
私たちは、自己と他者が現実的には別々の存在である分離的感覚を持っているからこそ、人を大切にしようと思う。そして、精神のなかでは他者と自分が同一である統合的感覚を持っているからこそ、安心感を覚える。
このふたつが常に私たちのなかには存在しているし、MCとICの感覚にある。
MCとICの役割がひっくり返っているとき、他人と自分が分離している孤立感を覚える精神となり、また人と自分は同じ存在だと思い、人を支配しようとするようにもなる。(ひっくり返っているんだな、概念が。このとき、他者と自己によるASCとDCがひっくり返り、他人は自分で、自分は他人となっている状態になるが、それにより苦しむのが『闇の刺客』と言われている存在なのだと思われる。)
また、私たちのディセンダントという理想によってMCとICの分離と統合の認識の領域が変わってくる。
親との分離経験、異性との分離経験、他者との分離経験。この分離経験をすることにより、MC(分離)からIC(統合)を学ぶことになるため、私たちは最低でも3度は離別経験を経なければならないとして考える。
私たちは精神内で『統合』と感じている。しかし、社会では『分離している事実』を直視しなければならない。その直視をすることにより、MC(分離)を構築し、ディセンダントという異性を認識することになる。
つまり、私たちはずっとグルグルグルグル回り続けていて、そこにある太陽のもと『自分』と『それ以外の概念』という意識を育て続けているということだ。
グルグルした回数だけ、占星術による結果が純粋に見て取れるようになると考えられる。
ツインレイとステージの形成とアセンダント・ディセンダント
多くの人が勘違いしているところが『ツインレイの相手は分離している存在で出会っている』という大前提にある。
そもそも私たちは分離しているのではなく、統合した存在で出会っている。だけど、相手を『他者』だと認識できないことに問題がある。他者だと思わない、理解できないからモメるわけだ。
自分と同じではないことに腹が立ち、自分と同じだからこそ自分勝手にやって相手に嫌な気分にさせる。そんなことを繰り返している状態が続くと、そりゃサイレント期間とも呼ばれる時期にも突入したくもなる。だって嫌な気分にしかならないから。
この嫌な気分をまずは自覚する必要性があるのだと考えられる。次に他者であること、自分とは別の存在である事実を受け入れるとき、私たちはMCという分離を受け入れることになる。
ここでようやく私たちは『自分』と『ツインレイの相手』という概念になる。それは相手を尊重することができるということでもある。
次に、再び統合という段階へ差し掛かる。
そもそも分離している感覚が無ければ統合することも出来ないよってことでもある。つまり「ツインレイの相手は他人だった件について」がなければ、統合ができないんだ。分離している自覚もないのに、なんで統合できるのか? ってことでもある。
このときの私たちは、ツインレイの相手を身近に感じることもないし、ツインレイの相手は『わからない存在』にもなる。わからないからこそ、私たちは他者を認識することになる。
最終的には『精神領域で統合する』ことにもなるんだが、この精神領域で統合すると言うのも少々おかしな話でもあり、そもそも私たちは統合された精神を持っている存在たちである。みな、繋がっているわけだ。繋がっているのに、そもそも統合をするというのもおかしい。
大事なのは『私たちはそもそも最初っから繋がっていたんだ』と初期値を理解するってだけ。この理解が出来ていないおばかちんの魂が私たちでもある。だから「安心してもいいんだよ、相手はちゃんとわかってる」ってことを信じられない。