ワンネスをもっと身近に理解するために解説(シンクロニティの感覚もワンネスって話)

2024-01-19

| Ⓒ なとり

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さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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ワンネスとは『すべてはひとつ』という概念にある。さて、この言葉はツインレイにとっても身近なようで身近ではないように感じられるかと思われる。

そして、ワンネス経験はレベルアップやアセンション、次元上昇しなければ理解できないと思っている人も多数いるかと思う。

だけど、私にとってはこのワンネス。すべてはひとつなんだよっていう感覚はほとんどの人が経験したことがある事象にある。

それを小難しく説明しているのが『すべてはひとつ』であり、すべてはひとつであることを理解するためには瞑想が必要なんだ——ということになっている。

が、特に瞑想なんかしなくても私たちはずっと変わらずワンネスの状態にある。

ただ気づいていないだけ。どれがワンネスなのかを知らないだけ。つまり『知らないからワンネスが分からない』っていうだけで、その概念をダイレクトに、これのことか~と理解するには悟り経験が存在していたりする。

悟り経験をすることでワンネスを理解することもできるし、ワンネスとはいかなることかの理屈を理解することでワンネスは常に自分の経験の中にあったことを理解することもできる。

悟りって結局のところ、私たちが生きている感覚よりももっと高度なところで理解するために悟りを啓くわけで、別に悟らなくても悟りを啓いた人と同じ世界観の元に生きている事実は変わらない。

ゆえに、悟りとワンネスを掛け合わせてみれば、悟りとはワンネスを知ることならば、ワンネスの理屈を理解すれば悟りなんて必要がないってことでもある。

つまり悟っている人も、悟っていない人も、同じ世界に生きている。同じ世界に生きているけど視点が違うだけ。だったら、悟りがない人も悟りがある人の視点に合わせてみれば『ワンネス』を理解することができるようになるって話でもある。

で、今回説明するのは、ワンネスとは何か——という名目でもあるんだけど、実践的に私生活のなかでもワンネスは常に起こり続けているけど気づいていないだけっていう話。

なとりさんが大好きなメカニズムの説明である。

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ワンネスとは?

ワンネスについてを調べてみた。簡単に言うと、すべてはひとつ。ひとつはすべて。ひとつはすべてに通じているし、すべてはひとつに通じている。

そして他人と自分という概念をも消失させ、他人と自分には差がないこと、他人と自分は同一であることを理解するって話。

反対にもとれて、それは他人と自分には差があるという事実をも理解せねばならない。

私はこの地球の視点をとると『他人と自分には差がある』という事実そのものを学習しに来ているのであって、実にワンネスとは私たちの生きる地球とは真逆の思想でもある。つまりワンネスなんて知らなくてもいいんだよって感じでもあるんだ。

この地球はこの地球の習わしに沿って、私たちがすべての存在が違うのだと言う事実を受け入れることが出来たとき、私たちはワンネスへ到達する。

他人は他人なのだ、この事実は当たり前のことだと思う。だけど、私たちには知性というものがあり、知性に結びつくように生存本能も持っている。この地球も残酷なもので、ご飯食べなきゃ生きていけないっていうルールがある。それは私たちがまずは先入観として持っているルールではあるけど、このルールを終わらせていった人たちが不食の人たちなわけだ。

ご飯を食べなきゃいけない私たちは他人よりも優れていなければならない。優れていればいるだけご飯をいっぱい食べられるってこと。

だからこそ、私たちは知性を持って『他人と自分は違う』という比較を持っている。誰よりも優れた自分になりたいと思っているし、その感覚が私たちを成長させている。

だけど、他人と自分は違うことは当たり前なんだが、それを許せないことも度々ある。他人が自分とは違った考えをしているとき、腹が立つんだ。「お前の考えは間違えている!」そのように思う。

他人の考えが自分と同じでなければならないと思い込んでいるから、そこで相手を自分と同じにしようと躍起になる。これがマイナス側のワンネス的な感覚だと思われる。

従来、私たちはワンネス感覚を知っている。だからワンネスにしようと自らが相手をワンネスにしようと支配を仕掛けていく。これもワンネスともいえる。同じでありたい、いっしょでありたい。この感覚もワンネス感覚なんだ。

だけど絶対的に私たちは違う生物である。ここに私がいて、向こうにあなたがいる。だけど私とあなたが同一である——というのはやっぱり異常な感覚であることを知ってほしい。ワンネスっていうのは『異常感覚なんだ』っていう事実。いわゆる精神疾患的な感覚ってこと。

生きている実感が消滅していくと——、もっといえば、正常な精神的活動が死滅していけばどんどんと私たちは異常感覚に呑まれていくが、そのなかのひとつがワンネスにある。

ワンネス的な感覚は、この地球の概念からは真逆にあり、このワンネス感覚を行使しようとするとこの世では異常者になる。理由は「あなたと私は同じ。」と言われても「は? なにいってんだこいつ?」って思われると思う。なんならイラッとすると思う。なめてんのかコラ! って思う。だから言葉にしたらいけない。

だけど、この「何言ってんだ?」がまかり通る世界観がある。それがワンネス。

ワンネスのメカニズム


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私たちの根っこはいつも同じである。誰しもが根っこが同じ。

図の説明:根っこでは皆同じことを思っている
図の説明:根っこでは皆同じことを思っている

たとえば、桜の木を見て「ワァ、キレイ。」と思うわけですが、隣にいる人も同じように「ワァ、キレイ。」と同じように、同じ瞬間に、同じ感覚で実感してシンクロニティを起こす。これがワンネス感覚。

もちろん桜の木も同じように自分に対して「ワァ、キレイ。」と思っている。

つまり、他者も自分も同じことを思っている、自然も同じことを思っている、これがワンネス的感覚

相手を好きって思ったとき、相手も同じように自分のことを好きと思っている。これもワンネス的感覚。

同じように思っている、だけど、同じように思えないとき、私たちにはエゴが存在している。

他者も自分も同じことを思っているんだけど、自分の本音を隠している人たちや本音を受け取っていない人たちは、ワンネス受け取れない。

本音ではない違うものを『ワンネス』だと思い込む。だから自分の本音には素直になりましょうとなっているんだけど、その本音と向き合いたくない人たちもいる。

その本音がもちろん「ワァキレイ」であれば、そりゃいいことなんだけど「嫌い」とか「いっしょにいたくない」とか。ネガティブな方向性の感覚に対して蓋を閉じる人たちもいる。ワンネス的な感覚では、すべてにおいて同じように目の前の人は感じている。

感じていることを素直に実感することが出来たらいいけど、それが『本来の自分の感情とは違うもの』を認識している人たちはワンネスの感覚からはかけ離れた状態になっていく。

 

相手と自分の足並みがそろわないとき、それは必ず本音から遠のいている。それはワンネスという感覚から遠のいているのである。

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ワンネスの感覚と向き合えないとは?

目の前の人が思っていることは自分が思っていることと同じ。この感覚を身近に理解してみよう。

目の前の人が話している本音はすべて自分の本音だよってこと。

ツインレイのサイトだし、ツインレイを例として挙げてみようと思う。

ツインレイの相手が「結婚したいとは思っていない。」と言葉にしたとき、それはあなた自身もそう思っているということ。

ツインレイの相手とサイレント期間に入り、連絡がとれない。それはあなた自身が連絡を取りたいとは思っていないということ。

だけど、私たちは「結婚がしたい」と思っているし「連絡を取りたい」と思っている。

それはなぜか——。なぜかの追求をしてみると、その理由が見えてくる。自己保身のために結婚がしたいし連絡がとりたいのである。でもそれは本望ではないと考えている。

これがエゴイズムの介入であり、足並みがそろわない理由である。

図の説明:人を下に見るというお題に対して
図の説明:人を下に見るというお題に対して

私たちは共通要項を持って出会っている。

たとえば、上記の通り『人を下に見る』という現象に対して「自分は80点だった。75点は自分よりも下。」という感覚を私は持っているんだが、これに対して腹を立てる人がいる。「75点の人の話も頑張った!」と。(議論として点数と精神論をいっしょにしたらいけないんだけど、カテゴリ別けがあまいとこういう現象が起きる。)

『人を下に見ることは悪いこと』で『人を下に見ることが悪いこととは思わない』という2種類の視点が生じているわけである。

私たちはこうやって相手に自分が持っている気質を投影するわけだが、その気質が気になるときと気にならないときがある。気になるときは『自分の中にそういう気質があることに気づいていない』ときであるが、もっともワンネスに対して必要な情報はこちらだ。

現象に対してそれぞれ思うことが違うこと。

『人を下に見る』という現象に対し『悪』と思う人もいれば『善』と思う人もいる。どっちが間違えているというわけでもない。だけど、悪だと思い、それを排除しようとする意識の人もいれば、そういうこともあると思い、排除せずそこに人を下に見る意識を受け入れる人もいる。

見下されても気にしないのか、見下されたら嫌なのか——ということなんだが、これが『反射』である。

私たちが持っている現象は『同じ』であるが、私たちが知性により『審判をかける』ようになる。私たちは神さまごっこが大好きなものだから、現象に対して、人に対して、それぞれ善悪の審判をかけては自分の世界を構築していくことになる。

私たちは現象に対して『反射』を起こすわけだが、根っこにある『人を見下す』というテーマはどちらも持っていることになる。どちらも人を見下しているし、私たちは80点を取ったら75点の人は自分よりも5点低い点数だなと認識する。当たり前の認識力を持っている。

人を見下すという意識がワンネスにあり、それに対して「どう感じるのか」がエゴなのである。

つまり私たちは『ワンネス』⇒『エゴ』というやり取りを行っているということ。このエゴが『善悪二元論』なのか『二元性』なのかによってワンネスに対してのアクションはまるで変わってくる。

ツインレイの場合のワンネスの反転

 

図の説明:本心が反転しているとき確実にエゴが介入している
図の説明:本心が反転しているとき確実にエゴが介入している

自分の身の保身、自分のために何かをしたい、自分の欲求、自分の見栄。そういったものを含めて『善悪二元論』が介入するとき、私たちの本音はひっくり返る。

闇の刺客なんかはダイレクトに私たちの本音そのものを体現している。なにかの行動を起こし、その行動に対して逐一腹が立ってかなわないわけなんだが、その怒りそのものがエゴなのである。

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ワンネスへの到達の課題『エゴ』『ワンネス』

ワンネス(現象)の感覚に対して、私たちはエゴで対応している。

図の説明:現象に対してエゴで対応し続けている
図の説明:現象に対してエゴで対応し続けている

そのエゴで対応しているものは、対象者に対して現象を見つけることにより生まれるわけなんだが、私たちは善悪二元論で審判をかけ続けていく限り、相手に悪いエゴを見つけた途端に、その相手が『悪い』と認識するわけなんだが、問題は私たちが現象(ワンネス)に対して理解をしていないことが問題でもある。

図の説明:ワンネスとは現象に目を向けること
図の説明:ワンネスとは現象に目を向けること

相手と自分の共通要項に目を向けてみると、私たちは常に『同じもの』を見つけることができる。しかし、相手に現象を見つけ続けることにより、相手に必ず『善悪』を生み出す。これが問題の火種にある。

だけど、両者においての共通要項——、もといワンネスの感覚を理解し認識したとき、私たちは二元性として相手のなかに悪を見つけることなく、自分と向き合うようになる。

 

善悪という概念に縛られ続けているとき、私たちは常に『現象を無視している』状態にある。それはワンネスを無視しているっていうこと。だから私たちはワンネスは悟りを啓かなきゃわからないと思っているのかもしれないけれど、常にそこには『現象というワンネス』が存在している。

両者には共通要項が必ず存在しているのである。その共通要項を受け入れるとき、私たちはワンネスを理解するわけである。

 

もちろん、エゴがない状態のワンネスとはダイレクトに「相手が思っている事と、自分が思っていることは同一である」という感覚が得られる。そして、ワンネスを自覚することができる。

だけど、相手が思っている事と自分が思っていることが別である——というのが『エゴ』にある。ワンネスに対しての対応がどのように変化するのか——がエゴである。

ワンネス的な生き方とは?

ワンネス的な生き方とは、他者を審判にかけることもないし、相手が持っているものは自分も持っていると認識することでもあり、優劣意識も存在しない感じでもあるわけなんだが、もっと簡単に言うと『ワンネスに対して対応しない』ことでもある。

現象に対してとやかく思うことがないとも言える。

たとえば「相手が劣等感を感じている」と思ったとき、それに対して「劣等感を何とかしてあげよう」なんて思わないわけである。それには何も問題がない自分のなかにある要素となるため、劣等感に対して対処しようとは思わない。

対処しようと思うのがエゴなのである。

たとえば「相手が劣等感ゆえに自分を攻撃してくる」と感じたとき、私たちは自分のなかにある『劣等感』に着眼する。だけど、その劣等感に対して相手は『おまえを潰して優位に立つ!』とかやっているけど、自分は『劣等感がある』としか感じられない。

劣等感に対して何かしらの行動を起こす——、いわば攻撃をする対応をとるか、とらないか——もエゴの在り方である。

ワンネス的な感覚は常に「相手の中に自分を見つけ続けること」でもあり、たいてい私は何かやられて傷ついたりもするが「いつかの自分がやらかしたことなんだろうな。」と思いながら腹の虫をいさめていることも多い。ただ、度々『やりすぎ』と思うこともあって、やりすぎとは私がやらかした以上の分量を相手に投げているとき。(これは徳落とすからやめたほうがいい。)

相手のなかに自分を見つけることが出来なくても、大抵は「いつかの自分なんじゃろうな。」と思う癖があるのがワンネス的感覚なのかもしれない。

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父である神のお父ちゃんのなかにいたときのワンネス感覚

私は意識が発生する前、ホムンクルスのようにしながらお父ちゃんのなかにいた。父神であるお父ちゃんは、丸い枠のなかからこの地球を望んでいるんだけど、向こう側の存在はいつもそうやってこっちを望んでいる。

私も同じようにお父ちゃんがみている、その丸い枠の中から地球の人たちを見ていた。

お父ちゃんは「いかなる感情」であっても、同じようにその人たちの感情を感じていて、私もお父ちゃんを通して同じように感じていた。

人が劣等感で人をいじめているシーンでも、その劣等感をお父ちゃんは同じように感じていた。実にとやかく何かを想うことなく『同じように感じていた』だけ。

可哀想だとか、なんとかしてあげようとか。特に何もない。ただ『同じように感じている』。これだけ。そのお父ちゃんが感じている感覚を、まだお父ちゃんのなかにいた私も感じていた。

ワンネス感覚とは、このことかなと思っている。いかなる感情であれども善悪はない。だけど、人にはエゴがあるから、そのエゴによって行動が変わってくる。それが『その人らしさ』にも繋がっている。

みんな、同じ。お父ちゃんである神も同じ。存在は違う、だけどみんな繋がっている。

愛とは何か——。それは相手の心を受け取ること。これがワンネス。

愛とはワンネスのこと。相手の心をそのまま何も思わず同じように感じているとき、私たちはワンネスとなっている。

苦しみも同じように苦しんだらいいだけなのに、その苦しみを消そうとして躍起になって活動するのが人であり、エゴである。だけど、それが人のよいところであり、また人が持つ素晴らしさなのだと思う。

エゴがあるから出来ることもある。エゴがあるから出来ないこともあるし、みんなワンネスの感覚は持っている。

みんな同じように感じている、同じように感じているとき、私たちはエゴがない。エゴが私たちを人たらしめるものであり、エゴが私たちの個性でもあることを忘れてはならない。