アダムとイブは楽園のツインレイでした。

| Ⓒ なとり

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ツインレイステージまとめ

私のステージが進むごとに更新していくステージをひとつの記事にして販売しています。


さよなら、ツインレイ Kindle版
さよなら、ツインレイ

当時はこれでおしまいなんだ・・・。そんな風に思いながら書いた『さよならツインレイ』。結果的にさよならしたのは、神交法の相手であるツインレイの霊体だった件。今更振り返って読んでみると納得がいく一冊だが、当時はよくわかっていなかった。

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タロットカードの恋人のカードにはアダムとイブが描かれています。

アダムとイブの関係性は、ツインレイのふたりの関係性を模していますので、アダムとイブの話はツインレイの人たちにとっても重要な神話となっているかと思います。

アダムとイブの神話についてはアダムとイブの神話でわかりやすく簡略的にまとめていますので、読んで見て下さい。ツインレイに新しい発見があるかもしれません。

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アダムとイブのお話をツインレイと合わせて分析

アダムとイブのお話をツインレイと合わせて分析

アダムとイブのお話を分析してみると、もう少しツインレイについてを理解しやすくなるのではないか——と思います。

ツインレイにとってアダムとイブのお話はとてもつながりがあるようにも感じられるからです。

アダムとイブと『蛇』とツインレイ

まず、配役についてを考えてみようかと思います。

アダムはツインレイ男性、イブはツインレイ女性として考えることができるかと思います。

この二人はもともとひとつの魂であり、その魂をふたつに分けた——ということです。

ふたつに分けられた魂は、アダムとイブとして旧約聖書に登場してくることになりますが、私が知っている限りでは、まず男性の魂は発生し、そのなかから女性の魂が発生する。そして、その後に魂の意識が反転することにより、人の魂は完成します。

それから分離が起こり、二人はバラバラに地上へ落とされていきます。

この経緯を経ているので、地上では性別と意識が反転しているんですね、男性は女性で、女性は男性です。

アダムとイブのお話には『蛇』がでてくるわけですが、この話のなかで蛇は『悪魔』と言われています。

悪魔はなんの姿をしていてもよくて、多分、クモでもよかったんじゃないかとは思いますが、蛇は『知恵の象徴』であり、善悪の実を食べている状態なんですね。

いわば、それってアダムとイブが善悪の実を食べた状態と同じです。

アダムとイブは、善悪の実を食べて地上送りにされているので、そもそも蛇は地上の存在ということがわかりますね。

善悪という判断を悪い方へ使ってしまったのが蛇であり、それが悪魔とされていますが、言葉にすれば『偽善』と『悪』を蛇は使ってしまったということです。

蛇には目的があったんですね。

イブとアダムを神の怒りに触れさせてやる! っていう目的があり、その目的を果たすためには善悪の実を食べさせてやる! ってことでした。これが『悪』ですね。蛇の本心です。

イブはさっさと食べて、アダムはイブに言われて食べたっていうあたりが、なかなかの男女の性質を模しているかと思います。

もうひとつ『偽善』はどこにあったのかといえば、イブへの態度に現れていました。

さも、私はあなたの為を想って言っているんですよっていう態度で、その裏側には目的である悪が存在していることが偽善です。

私たちの世界にも存在していますね、そういう人たち。表面的には善を装っているけど、腹黒になってて本質的な部分では人を騙している人たち。

それが蛇なんですね。

その蛇たちがツインレイたちの『闇の刺客』としても定義できるかと思います。

でも『なぜ、イブとアダムを神の怒りに触れさせてやらなきゃいけなかったのか』がわかりませんね。

これはもう憶測ではありますが、蛇は人間の女だった。それもめっちゃ美人みたいな感じの。

めっちゃ美人だったから地上の男は制覇して、今度は楽園に住んでいるアダムを制覇したくなってきた。

美貌を武器につかって、男をそそのかすことをし続けていたんですね。男を自分の下において楽しんでいたといいますか。

したらば、アダムも絶対振り向くはずと思ったけれども、アダムは蛇には目もくれなかった。

なぜならば、アダムは無垢だったし、魂によるツインレイの相手であるイブがめっちゃ一番かわいい存在だった。

見かけだとかは関係のない世界が楽園でした。無垢であるということは『表面的なもので判断しない』ことでもありましたし『上下意識も関係がない』し、『魂による判断が出来る』ということです。

無駄な知識がないんですね、人と自分を比べる意識がない。なぜならば、善悪という判断がないためです。

善悪という判断は『上下意識』や『人と自分を比べる』ことになりますが、精神領域や魂による領域で判断することではありません。

けっきょく、アダムはイブばかりで蛇には目もくれない状態となっていた。

蛇、くやしい。

じゃあ「善悪の実食べさせれば、アダムは振り向くんじゃないか?」「だってイブ、かわいくないし。」ってところに蛇は気づきました。

アダムが何故イブが可愛いし、大好きだったかって、魂による関係性を重要視していたから。純粋であると言うことがイブの良さに気づくことだったんです。

で、騙しやすいイブをそそのかせば、今度はアダムも絶対善悪の実を食べると踏んだ蛇は、イブをそそのかした——という感じなのではないかと考えています。

これは個人的な視点であって、これが正解ではないかと思いますが、これだと辻褄があってきます。

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ツインレイが再会できない理由と蛇

この地上で、アダムとイブは再会することが出来なくなりました。

なぜならば、善悪の実を食べてしまったがゆえに、誰がイブなのか、誰がアダムなのかの判断がつきません。

ツインレイの二人は『転生』することにより、肉体の苦しみである死を経験するなかで、イブとアダムはツインレイとして引きあうためにドンドン自身のなかに或る「善悪の実」を抜いていかなければなりません。

もし、神が地上におろしたことを罰と捉えるのであれば、それはとても宗教的な観点ではないかと思います。

地上でなければ善悪の実を克服し、無垢な状態に戻ることが出来ないから地上へ送り込んだというのが神の本心ではないでしょうか。

そして、その世界では「蛇」もいます。これは生物としての蛇ですが、人間の女としての蛇です。

恋人のタロットカード タロットカード 恋人
ウェイト版タロット 恋人 マルセイユ版タロット 恋人

タロットカードを見てみると、マルセイユ版の恋人のカードでは『男一人』『女二人』が描かれているんですね。

つまり、恋人のカードで問われているのは『蛇にしますか』それとも『ツインレイ?(もしくはツインフレーム?)』という問いかけがなされています。

片方は権力を持っている、ほかにも多くのものを持っている状態かもしれません。

ツインレイ男性であるアダムは『多くの動揺』となる性欲や恋愛感情を抱くように、ツインレイ女性も恋に落ちていくようなタイミングとなっているのが恋人のカードのタイミングです。

そのとき、アダムとイブが地上で『蛇』という存在に惑わされ、地上へ縛り付けられている状態でもあります。

蛇はどうしてもアダムが欲しい。アダムがほしいからイブの邪魔をしたい、アダムのもとへ戻したくない。

なら、無垢にしないように心を汚しちゃえばいいじゃない! っていうのが蛇の算段かと思います。

ツインレイ女性(イブ)が、闇の刺客(ヘビ)に邪魔され続けているステージもあり、ツインレイ男性(アダム)が闇の刺客(ヘビ)に誘惑され続けているステージも存在しています。

ツインレイ女性は闇の刺客により「無垢であり続けられるのか」が問われ、ツインレイ男性は闇の刺客により「誘惑に負けられないでいられるのか」が問われています。

タロットカードの恋人についてはツインレイステージと恋人のタロットカードの関係性の記事でわかりやすくツインレイとの関係性を書いています。

ツインレイの闇の刺客は蛇

けっきょくのところ、地上にいる蛇はツインレイのふたりを楽園に戻したくないんです。

なぜならば、蛇はアダムが好きだから。自分の言うことをなんでも聞いてくれている(ようにみえる)イブがうらやましいのが蛇なんです。

闇の刺客として蛇は、アダムとイブを楽園という世界へ返したくないゆえに、無垢に戻したくない。

それが反対にアダムとイブを再会へ持ち込むために必要なステージとなってしまっていることはおかまいなしの状態なのが蛇なんです。

智恵があるとは、その場しのぎであり、魂による回答までは知ることができません。どんなに頑張っても魂による反応を大事にするようになっているツインレイたちは、今度は蛇にそそのかされるよりも、ふたたびツインレイの相手と結ばれることを望んでいきます。

そして、そのために必要なことはなんなのか? それを思い出させてくれるのが蛇になってきます。

 

私の持っている知識に変えてみますと、人間輪廻マップが『地上』であり、魂輪廻マップが『楽園』なんですね。

地上のツインフレームのなかに蛇が紛れ込んでいて、その蛇はさもツインレイである——といわんばかりの顔をしている。それが蛇です。

魂輪廻マップへかえっていくためにツインレイたちは出会い、魂輪廻マップでは新しいツインフレームと出会いますが、ツインフレームのなかにツインレイの相手が存在している状態になっていきます。

人間輪廻マップや魂輪廻マップについての説明は『人間輪廻マップから魂輪廻マップへ移動するツインレイたち』の記事の方で詳しく触れています。
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ツインレイと生命の樹(セフィロトの樹)

アダムとイブのお話のなかにでてくる木として『生命の樹(セフィロトの樹)』と『善悪の樹』という二種類の樹があります。

生命の樹はアダムとイブを永遠の命となる不死の命を授ける木であり、こちらの樹の実はアダムとイブが食べることが許されていました。

しかし、善悪の樹の実は食べることが許されず、神は「死ぬことになるからダメだ」と言っていました。

ヘビは「死ぬことはない」と言い、「神のような智恵を授かることができる」とも言いました。

ツインレイのステージのなかで『命』についての奪い合いが生じている(詳細はこちら)状態であり、ツインレイたちは命の樹の実を食べることが出来なくなったからこそ、命の奪い合いを始めることになったのかもしれません。

生命の樹・セフィロトの樹とツインレイの関係性についてはセフィロトの樹による皆既月食とツインレイの解説の記事で詳しく説明しています。

ツインレイと善悪の実

善悪の実を食べないということは、ツインレイたちにとって『ジャッジメントをしない』ということに繋がっています。

アダムとイブは、善悪の実を食べることにより『善悪』という認識を生み出すことになりました。

それは『判断をする』ということでもあり、善悪の実と言われる傍ら智恵の実とも呼ばれています。

善悪と智恵は紙一重だということですね。

知識を善悪という判断基準にすることと、知識を人のために使っていくことはだいぶ違います。

自分の知識は何のために存在しているのか——。

蛇も元々、知恵の実を食べることができる存在だとされています。

つまり、蛇は知恵を使うことは出来たかもしれませんが、その智恵をどのように使ったのかということです。

蛇は知恵を自分の私利私欲のために使いました。しかし、知恵は元来、人のために使うものだったんですね。

蛇はイブに「神のようになれる」とも言っています。

それは『智恵』の使い方によって、神にもなれれば蛇にもなれるということです。

 

さて、ツインレイたちは地上に渡り、知識を『智恵』としたのか『善悪』としたのか。

そこがネガティブツインレイとポジティブツインレイの分かれ道になっているのではないでしょうか。

なぜ、神はツインレイ(アダムとイブ)へ善悪の実を与えなかったのか

ここでひとつの疑問があがります。

どうして、アダムとイブには『智恵』である善悪の実を神は初めから授けなかったのでしょうか。

そこは神がいうように「永遠の命」がなくなるからではないでしょうか。

 

ツインレイたちは楽園で『魂』を軸にして存在しており、地上では『肉体』が主体となっています。

つまり、肉体が保有されているから知識が『善悪』という形になってしまい、それが罪となっているということですね。

善悪とは『人と自分を比べる』という考え方です。アダムとイブは自分たちが裸であることに羞恥心を抱いたと書かれていますが、そこに恥ずかしさを覚えるというのは他人と自分の違いを認識したということです。

他人と自分の違いを認識することにより、ようやく人として存在することが出来ます。

善悪の実とは『自己認識』を持つための実だったんですね。

人として存在することになる——とは、それは地上における法則性なのではないでしょうか。

『そこに存在がある』と認識されて、ようやく人は存在する。
もし、存在がないと認識されたら、存在がなくなります。

しかし、存在が認識されなくても存在することができる。それが神の領域である楽園の法則性なのかもしれません。

 

たとえばなんですが、ムシされると嫌な気持ちになるわけです。

でも別にムシされたところで、死ぬわけではありません。が、ムシされると自分の存在がなくなってしまったかのように感じられもします。

死ぬわけでもないし、存在がなくなるわけでもないのに、どうして人はムシされると存在がなくなったように感じられ、それが悪いことだと感じているのか。

それは人の法則性のなかで『存在する』とは人に認識されてようやく存在している状態となっている。

しかし、人に認識されなくなった時点で、その存在は消滅する——というような感覚になっているのではないでしょうか。

 

神や楽園の存在たちは、他者に認識されなくても存在が消滅することがないことを知っている。なんなら自分一人でも存在することができる。存在とは個が個を認識することであり、他者が自己を認識することではない感覚だからなのかもしれません。

ひらたくしますと、人は他者に認識されないと存在できなくて、神は他者に認識されなくても自分で自分を認識しているので存在することができるという認識の違いが生じているのではないか——ということです。

 

善悪の実とは『他者からみられた自分』を認識しますが、神そのものは『自分で自分をみることができる』ということです。つまり、客観性の立ち位置が変わってきているということです。

善悪の実は『他者からみられていると感じられている自分を想像すること』により認識することになっています。
それは知識により生じている自分なんですね。

しかし、神は『自分で自分を自己認識している』状態です。それは『他者から自分を学ぶ』ことを終えた状態の人たちかと思います。

 

善悪の実を食べたアダムとイブは、地上で『他人』との関係性のなかで『客観性』を身に着けていくんですね。
最終的にいきつくところは『他者』も『自分である』という客観性の極致に至るということです。

これが楽園の領域の人たちであり、神という存在です。

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ツインレイ(アダムとイブ)は知識の使い方を間違えない

これは神話です。

そして、人に伝えられ続けている神話です。

なにを伝えたくて旧約聖書にアダムとイブの話が書かれていたのかを考えねばなりません。

地上における肉体では『善悪』という視点を持つことにより、罪が発生するということです。罪が発生すれば地上に縛り付けられる——ということ。それは地上の法則性による輪廻転生の形にのっとるために罪が存在しているということです。

つまり、人は『善悪』という概念をこの地上に学びに来ているんですね。

私は善悪を『善』『偽善』『悪』『偽悪』と四種類にわけて理解をするように世明けのツインレイでは書き分けるようにしています。

四つの善悪の概念についてを『光と闇のエネルギーの構造とツインレイの関連性の解説』にて書いていますので、そちらの記事を参照してください。

 

地上での善悪の学習をしに来ているなか、『知識の使い方』を学ばなければならなくなりました。

日月神示にも智恵については多く書かれていますが、この地上では『知識』をどのように扱うのかで方向性が二分されるということです。

  • 自分の為に知識を使うのか
  • 人の為に知識を使うのか

そのなかでも自分の為に知識を使ったのが蛇であり、『偽善』と『悪』が物語に書き込まれています。

そして、地上でツインレイたちは闇の刺客という蛇と出会い、偽善と悪について克服をし、脱却していく必要性があります。

輪廻の最終へといたっているツインレイたちは『知識の扱い方』をしっかりと理解できた段階になっているということが物語とツインレイの関係性から理解することが出来ます。