本物のツインレイの見分け方(真実のツインレイ化について)
『本物のツインレイ』と『偽物のツインレイ』について、どのように判断していくのか——。その興味は、私たち自身が「本物」を探しているからなのだと思います。
まず、ひとつの疑問に触れてみたいと思う。
本物という言葉の定義からです。
私たちが本物という言葉を使うとき、必ず偽物が存在しているということ。
それこそ、本物が成立するのは偽物が存在してからと相場が決まっている。
ブランドでも『偽物』が存在しているから、『本物』を手に入れようと思う。わざわざ偽物を手に入れようとは思わないし、本物が存在しているからこそ、偽物が作られていく——ということでもあります。
つまり、偽物が存在しているからこそ、本物が存在する。本物が存在しているからこそ偽物が存在する。
ツインレイも同じ。
偽ツインレイが存在しているから、本物のツインレイが存在しています。
ここまで語れば、わかってくるはず。偽物と本物による善悪二元論が。
この大前提が存在しているからこそ『本物』の定義が生まれてきます。
一番最初に『偽ツインレイ』に出会わなければ『本物』のツインレイは導き出されません。
間違いを先に提供され、次に正解がやってきます。
もしかしたら、人によりけり。本物のツインレイが提供された次に、偽ツインレイがやってきて「あの人が本物だったんだ」と気づくのかもしれません。
そして、次に『本物のツインレイ』といっしょにいると、今度は『偽物のツインレイ』がサイレント期間にやってきます。
サイレント期間では、本物と偽物の両方を統合させることにより、自分自身が今まで『偽物だった』と気づく段階になる『真実のツインレイ』へと進んでいくことになります。
本物のツインレイの見分け方とは『偽物』があってようやく『本物のツインレイ』という真相を知ることが出来ますが、真実のツインレイへの到達段階では、今までの自分が偽物であったけれども、それでもそれは自分である——と定義することができる段階へ進んでいくことになります。
いわば、ツインレイの段階が先に進めば進むほど『自分』と向き合いますが、一番に嫌悪した存在が自分であるということを受け入れていかなければならない過酷な道にあります。
本物のツインレイの見分け方なんて言葉が、そもそもおこがましい言葉とも感じられます。
なぜならば、随分長く私たちは、本物である前に『偽物の自分』なのですから。
偽ツインレイの『偽物』と『本物』の定義
偽ツインレイについてを、このサイトでも取り扱ってはきましたが、それを『ツインフレーム』とか『地上のツインレイ』等の言葉で語ることもありました。
さて、それを世のなかでは一般的に『偽ツインレイ』とも呼んでいるわけなんですが、実際のところ、本当にそれは『偽物なのか』については本物を知らなければわかりません。
偽物だけの世界にいれば、偽物だって本物になります。しかし、本物の世界に飛び込めば『偽物』は浮いて見えるものではないでしょうか。
偽ツインレイとは『ツインレイを擬態していること』なのだと思います。
私たちツインレイは、善悪二元論のなかでもがき苦しむモラトリアムの青年期を過ごしているなか『善悪』を定義し、自分自身を善とし、悪を嫌っては悪を迎い入れるような人生を送っています。
悪を悪だと認識すればするほど、自分自身のなかに生まれる悪意が存在し、その悪意が悪を呼び寄せるということです。
このメカニズムのなかで、私たちは『本物』と『偽物』のうち、偽物側の悪を持ったツインレイを呼びよせることがあります。
これが『偽ツインレイ』です。
いわば、私たちは『本物』が存在しているとき、同時に『偽物』を呼び寄せているときに存在しているのが『偽ツインレイ』として定義するのが本来なのかな? と思います。
でなければ、善悪二元論が成立せず、二元性への昇華を行うことが出来ません。
『自分が善』『相手が悪』。この仕組みがツインフレームの仕組みであり、ツインフレームによる出会いは『偽ツインレイ』として定義されます。
もちろん、お互いがお互いにとっての善悪を定義していますが、必ず自分が『善』としているし、ツインフレームの相手も自分が『善』です。そして相手をお互いに『悪』として定義します。
ツインフレームの段階を抜けると『自分のなかに存在する悪』を自覚するようになります。
ここで『偽物のツインレイ』を定義していくことになります。次にようやく『本物のツインレイ』がやってきます。
『女性性の善』『女性性の悪』『男性性の善』『男性性が悪』。この仕組みがツインレイの仕組みであり、ツインレイの出会いは『本物のツインレイ』と『偽物のツインレイ』として定義されます。
しかし、ツインレイたちは最終的に善悪思想を抜け、二元性へと昇華していくため、善悪を統合し、自分自身のなかにある悪を認め受け入れていくこととなり、偽ツインレイも本物のツインレイも存在しなくなり、最終的には『真実のツインレイ』のみとなります。
さて、この段階で『ツインフレーム』が偽ツインレイとなってしまう理由が『悪』にあり、『ツインレイ』の段階ではツインレイの相手を本物として定義している限り、偽物がやってくる——というメカニズムが理解できたと思います。
偽物のツインレイと本物のツインレイの違い
偽物と本物のツインレイとしての違いは、本質的に『オリジナルかどうか』が存在しています。
ツインフレームの経緯を経ているツインレイたちは、オリジナルとなっています。その理由は「自分の悪」を内包しているところがある為、自分の悪い部分をも受け入れることができるようになっています。
自分の悪い部分を受け入れることってなかなか難しいことなのかもしれません。
たとえば「自分が悪い」という事実を受け入れることや「自分が間違っている」ということを受け入れること。これがツインフレームの課題でもあり、また「自分の欲求を抑制し、相手を尊重すること」も必要となってきます。(ゆえに、ツインフレームの課題では「別れ」がやってくる。相手を尊重するが為に。それは同様に自分を尊重することでもあります。)
この段階の人たちは『自分の悪い部分を受け入れている』が為に、自分をオリジナル化させる道に進んでいます。
どういうことか。
「自分が間違えている。」という部分を受け入れ続けた人は『オリジナル』になっていくってことです。というのも、自分が間違えている部分に気づき続けていくため、自分を正しい道へ戻していく作業もあいまって『自分らしさ』のようなものを自分なりに見つけていくことができます。
さて、偽物とはどのようなものかというと、自分が間違え続けている事実に気づき続け、自分の道を切り開いていく人たちの意見を完コピした人たちともいえますね。
そっくりそのままコピーして、そのまま表現として使っているとも言えます。
簡単に説明すると、ツインレイは運命的な出会いによりひき合わせられる魂の双子だよと言う言葉を『ツインレイ』として認識している人たちとも言えます。
そのようにブログに書かれていた、だけど、本当にそうなのかはわからないよね? ってことを考えているのが『本物』。
というのは、ツインフレームの段階で悪を内包しているから、偽物の悪を認識することができるんです。そのためには、自分自身が間違っている事実を受け入れなければ、他人が間違っている事実にも気づいていけないっていう背景がある。
そして「本当にそうなのかわからないよね?」ってことを、誰かが言い始めて、それを完コピしてブログで『本当にそうなのかはわからない』と言葉にし始めるのが偽物です。
いわば『本物と見せかけている』のが偽物であって、これはずっといたちごっこです。
ブランド品で新しいアクセサリーが出たとしても次々に偽物がでてくるのと同じ。
だけど、偽物は『最先端の商品』はだせない。だけど、ブランド品は『最先端の商品』をだして売り続けることができる。
根源に本物とは『自らのなかから表現がある』のであり、偽物は『誰かの表現をまねている』に過ぎないということ。
これを見抜くことができる段階に差し掛かるのが『ツインフレーム』の段階であり、それ以前は、私たちもずっと『誰かの表現をまねている存在』であるのも事実なんです。
いわば、私たちは絶対的に誰かにとって偽ツインレイだった時があり、絶対的に誰かにとって本物のツインレイへとなることがあるとも言えますね。
成長の過程で、私たちは『人を真似る』んです。
たとえば、絵を描く過程でも、誰かの絵を真似てみて、次に自分のオリジナルを導き出していきます。必ず『手本』がいるんです。
その手本を真似て、次に自分をオリジナル化させていくことに繋がっていきます。
偽ツインレイとは『手本を真似ている段階』であり、まだ修行の身って感じで考えるの一番なのかなと思っています。
話をしてみると、まず「オリジナル性」がないことや「自分の話をちゃんとできない」ことなどがあり、人の話をそっくりそのまま自分の意見として取り入れたり、自分の意見を言うために他人の意見を否定的に扱ったりなど、自己表現に『他者を利用する』ことがあげられます。
偽ツインレイを内包していくこと
この段階で、善と悪として定義をしたが、私自身の考えだとこうだ。
偽物とは『自分のコピーに過ぎない』ということ。
だけど、この段階で『統合』させるというのは、自分のなかに『誰かを真似てもいい』という事実を受け入れていくことなのだと思います。
ゆえに、私は人を真似ることにしました。
オリジナルだからこそできないのが『コピーすること』『真似ること』だったりします。
もしかしたら、他にも、偽物と本物の定義が違ったり、善悪の定義が違ったりするのかもしれません。
自分らしくあればあるほど、私たちは『真似ること』が出来なくなっていくのです。いわゆる、オリジナルであるがゆえに何かを吸収することが出来なくなって、我が道を突き進むしかなくなる悲しい性となる。
しかし、真似ることがなければ、私たちは『成長がない』のです。
ゆえに、ツインレイたちは『悪』として定義した『偽物』を吸収していくのです。偽物を吸収するとは『人のものをパクり続けている存在を肯定する』ってこと。
あたいも誰かのことをパクった人生でもいいや、っていう独自性から抜け出すことでもあり、また、そこから広がっていく世界を知っていくことでもあり、出来ないことを人に頼むことであったりもします。
ツインレイたちは、オリジナルだからこそ、真似ることやコピーすること。人に習うことが下手だったりもしますが、この段階からは人に習い、人から吸収し、より『自分のオリジナル化』を進めていくことができるようになります。
ただの学習だけでは『二番煎じ』ですが、学習から自分らしさや独自性が生み出された時点で『オリジナル』です。
この段階へ差し掛かると『真実のツインレイ』へと変化していくと言うこと。
さて、少し前の文面に戻ります。
偽ツインレイだったことがあるということ。つまり、私たちもいつかは二番煎じで誰からか何かを学び、真似続けていた時がある。
その真似続けてきた過去を肯定することが『偽ツインレイの内包』でもあります。
振りかえれば、自分はずっと『偽物だった』のです。他人のことを偽物だの本物だの言っている場合ではありません。自分こそが、偽物だったのです。(ヒィ! 恥ずかしい!!)
偽ツインレイとは偽物ではなく、過去の自分でもあるのだと思います。いつかの自分、それが『いつなのか』は問題がありません。いつかの自分にもそんなときがあったのだと思えば、内包し、真実へと到達していくことが出来ます。
本物のツインレイではなく『真実のツインレイ』へ
本物のツインレイが存在するとき、必ず偽物のツインレイが存在します。
ゆえに『本物のツインレイだ』と思う心は、そっくりそのまま『偽物』がまだそこに存在し、偽物である自分を受け入れることが出来ていないということでもあります。
私たちが求めているのは『本物』ではなく『真実』なのだと思います。
真実の裏側はどこにもありません。どこから見ても『真実』です。
真実のツインレイとは、どのような存在なのか。それは偽物を受け入れることが出来ていることなのだと思います。
このような存在は『善悪二元論』を抜け出していますので、いくつかの課題を克服している段階となっているかと思います。
- 自分のなかに存在する『悪意』に気づいている(闇の内包)
- いつかの自分を受け入れている(過去の受容)
- 死の克服(恐怖の克服)
- 不安の克服(自他の克服)
ほかにもありそうな気はしますが、善悪二元論を抜け出している存在は『恐怖』や『不安』を抱えていません。
死を恐れず、また他者に不安を感じません。
ツインレイの場合、片方が死の克服が終わっておらず、片方が不安の克服が終わっていない場合があるように思いました。
ゆえに、ツインレイはツインレイの相手に『恐怖』を感じ、もう一方は『不安』を感じるということ。
このときの課題は、恐怖は『死の克服』と、不安は『孤独の克服』になっているかと思います。
死の克服をすると、死そのものを回避します。不安の克服をすると、孤独を回避します。
ツインレイへたどり着く人たちは、片方が『死』に近く(病気や死にかけるなど)、片方が『孤独』として生きているかと思います。
最終的には、お互いがお互いの課題を終わらせる期間が『サイレント期間』として設けられているように思います。
先にどちらかの課題を終わらせるとき『ツインフレーム』の課題が存在し、次に『ツインレイ』の段階でもうひとつの課題を終わらせるようになっています。
最終的には『恐怖』と『不安』が心に存在しないふたりが『真実のツインレイ』として結ばれるという算段です。
恐怖は安心へ向かい、不安は共感に向かいます。
安心と共感により結ばれるのが真実のツインレイであり、サイレント期間前のツインレイは『恐怖と不安』により結ばれているがゆえにうまくいかないようになっています。
本物から真実のツインレイまでの経緯
つまり、偽ツインレイとは何度かでてくる。
当初のツインフレームによる偽ツインレイは『親によるイメージビジョン』により形成されている為、自分が本当に望んでいる異性ではないとして地上のツインレイとして定義もしています。
この段階で、親による影響を受けない恋愛をするために、先ずはこの『偽ツインレイへの強烈な慕情の克服』が存在しています。
いわば「親は恋愛対象ではありません。」ということでもあります。
親が恋愛対象ではないことが明確にツインフレームの段階による偽ツインレイで打破することができると、次に『本物のツインレイ』がやってきます。今度はオリジナルの自分にぴったりとした『本物』でもあります。
しかし、うまくいきません。その理由は自分らしい生き方が出来ていない為、自分が『偽物』なんですね。
自分が偽物の状態で私たちは生きているので、ツインレイと出会うことで『真実の自分』へと到達していきます。
このとき、偽物の自分と出会い、また偽物のツインレイと出会います。しかし、それは『本物』ではありません。自分にとって本当の偽物がやってきます。
ゆえに、自分は『本物だったんだ・・・』と知ることになり、偽物の段階から脱却していきます。
本物のツインレイと出会う段階で、私たちは仮初の自分となっています。かりそめの自分から脱却するためには『本物の偽物(いわば、自分からしてガチの偽物)』と出会うことで『自分が偽物ではない本物なのだ』と自覚が出来、ようやく『自分らしさ』を取り戻していくということです。
自分にとって本物の偽物を見て、自分は本物なんだと気づき、しかし、偽物だったことも自分のひとつだったと認めることが『偽物だった自分の受容』であり、真実へとも到達していきます。
真実の自分の状態へ到達し、ようやく過去の自分が偽物だったと自覚します。振りかえってようやく気づきます。理由は、私たちは自己の視点を客観的に捉えることがなかなかできないので、ずっと『本物』だと誤解し続けています。
たとえば、今、自分自身が「本物」と思っているかもしれませんが、本物である自分である限りは偽物である——ということ。
偽物の自分を理解したとき、ようやく『真実』へと到達していきます。
本物のツインレイの見分け方
私自身がツインレイと出会ったときの感覚を「見分け方」の基準として書いてみようかなと思いました。
これからツインレイと出会った人たちの基準にどうぞ、本物のツインレイの見分け方としてお使いください。
そして、本物から真実のツインレイへと切り替わっていく人たちです。
以下は、本物のツインレイが発生する魂が成立するまでの経緯。これが先ずは『基盤』として成立しています。
ツインレイの魂が生まれるとき
ツインレイの霊魂が生まれる経緯の図表 1.ツインレイの魂の核 2.神が意識を入れこむ 3.第一感情を得る 4.意識を反転させる 5.第二感情を得る 6.ツインレイの霊魂が完成する
ツインレイから離れなきゃいけない
出会ったときに「そばにいちゃいけない。離れなきゃいけない。このままいっしょにいてはいけない。」と、とっさに思います。
理由ですが、魂そのものが発生した途端に離別を迎えています。それは『神によって』行われています。
ゆえに「いっしょにいちゃいけない存在がツインレイ」なんです。
なので、ずっといっしょにいたいのではなく、離れなくちゃいけない存在であり、遠くで見守っていたり、近づいたりしてはいけない存在なのがツインレイって感じでしょうか。
ですから、最初のファーストアクションは「ほったらかし」だったりします。深く介入しないようにします。
関わっちゃいけないので。
それからも、しばらくは「深くかかわらないように気を付ける」ようにします。相手が望むときに関わるように気を付けます。
この感覚は「大事にする」と心に決めた側のツインレイかと思います。
そして、ツインレイの相手が「そばにいてほしい」と言葉にしてもらってようやく「そばにいる」と決めます。
ツインレイの片割れとして、魂を落とした側にも罪悪感があるのかもしれません。そばにいてほしいという許可がなければ、そばにいてはいけないような感覚がしているのだと思います。(ツインレイの魂は片方が落ちてしまいます。)
ツインレイへ抱く異常な見捨てられ不安と執着
片方は「見捨てられ不安」が爆発的に出てきます。
片方は「捕まえて置かなきゃいけない(落としちゃいけない)」という不安が爆発的に出てきます。
ツインレイたちは発生した当初、分離し、片方は『落ちる』のですが、落とした側は『片方を落としてしまうショック』感覚を持っています。魂へ刻まれるレベルの大ショックです。
ツインレイの片方の落ちた側は「見捨てられた」という不安を抱えているんですね。魂的に見捨てられ不安が存在しているので「今度こそは捨てられてはならない」と感じているのではないかと思います。
ツインレイの片方の落っことしてしまった側は「落としてしまった」という執着を抱えています。いわば、こちらがチェイサーとなって追いかけてしまう側となるのですが、落としてしまった理由は、父であるお父ちゃんが腕をグイッと引っ張ったからというのもありますがへその緒が切れて落ちてしまったんですね。
腕も短いですし、正直なところ、不可抗力であったとは思いますが、精神的には大打撃を受けた存在です。
次こそは『落とさない』と思っています。
「危ないからどこにも行っちゃだめだよ。」と何度か言い聞かせたりなどもあるかもしれません。私はありました。「あぶいよ、なとちゃのそばから離れちゃだめだよ。」と。
脳みそ(本能)で話す感覚がする
言葉で話しているとき、脳みそと言いますか。本能で話すような感覚があります。
「ようやく出会えたね。」という会話など「もう出会えたから大丈夫だね。」と、本能で語り合います。
それは『自分の意思』ではなく、脳みそのもっと奥にある本能のようなもので会話をするので、言葉がするすると出てきます。
思ってもいない言葉を伝え始めますので「自分のクチが勝手に動いている」というような感覚もあります。
いわゆる魂による会話が成立しているのだと思います。
「よくやく会えた」「もう大丈夫。いっしょにいれば安全だ。」と語り合いますが、次に「不安」と「執着(怒り)」により、お互いの関係性は破綻していきます。
この脳みそで話すような感覚は、本当にツインレイの超初期の段階で数回ある程度です。
ツインレイの魂がいっしょにいる感覚を一度は味わう
一回程度しか経験は出来ません。
魂がいっしょに存在し、並んで繋がっている『とてつもない安心感』を覚えます。心がぽかぽかとし、結ばれている感覚がします。
それから、ツインレイのふたりが『繋がっている』状態へとなっていきますが、この段階はどんどんと現世の感覚により分離していくことになります。
不安や恐怖が発生するたびに『雷が落ちる感覚』『フライパンで殴られる感覚』というような経緯で衝撃を受けるようになります。しばらくお互いにフリーズしてしまったり、相手に拒絶されると雷が落ちてきてフリーズして何も言えなくなってしまったり。
このときの衝撃は、大ショックを通り越し、雷が落ちた衝撃と感じられますので、わかりやすいかなと思います。
拒絶されると「どうして!?」となります。
これは多分ですが、ツインレイの相手は、元々『繋がっていた自分』でもあるため、自分だと思っています。
自分だと思っていた存在が『自分ではない』ってとてつもない衝撃なのだと思います。
たとえば、自分を自分ではないと言われたら、ものすごい衝撃を受けてしまうような感覚なのだと思います。
このような経緯を経て、ツインレイの相手が『もはや自分ではない個別のアイデンティティを持った存在』だと受け入れていかなけばなりません。
ツインレイと一個に戻りたい
これは私の魂が大いなる勘違いをしていたことなので、ほかの人に当てはまるのかがわかりません。
ツインレイは出会ったら『一個に戻れる』と思っていました。なので『一個になりたい』と思っています。
ツインレイの彼と私の会話の中では、辛いことがあると「お腹に入れて。」でした。
また、ツインレイの彼に『のまれ』『呑み込まれ』というような感覚が存在し、私は「彼の肝臓になりたい」と言っていました。
そして、サイレント期間の初期あたりの私の口癖は「みて! 一個なれるよ!」でした。一個に戻りたいし、一個になれると思っていた私です。
しかし、サイレント期間の初期では、一個に戻らず『接続』するようにして『結合』しただけでした。
物凄く大きな驚きがありました。
私の魂は、あのときのように再びひとつに戻れると思っていたのだと思います。戻りませんでした、なんなら、個別の『二個』になっている事実にものすごく驚くのです。
ツインレイは〇〇なのが当たり前
ツインレイの相手は『好き』と『大事にする』という意識が存在し、それぞれ分離しています。
ツインレイの片方が「自分が何をしてもツインレイの相手は自分のことが好き」だと思っていますし、ツインレイの片方は「自分が何をしてもツインレイの相手は自分を受け入れてくれる」とも思っています。
これが『当たり前』なのです。
ツインレイの魂が発生したとき、ツインレイの相手に対して『好き』と思う個体の意識を反対側の魂は覚えているし、ツインレイの相手に対して『大事にする』と思う個体の意識を反対側の魂は覚えています。
敢えて言うと、それは『自分の個体になる前の自分の意識』なので、そもそも、知っているのです。
何をしても好きなことも、何をしても大事にされることを知っている。
だけど、この地上で生きているツインレイたちは、何をしても好きではないし、何をしても大事にはしてもらえません。
ツインレイの相手に嫌がられることをしたら「嫌われる」。
ツインレイの相手に嫌なことをしたら「大事にされない」。
物凄く当たり前のことだと思います。相手が嫌がることをしたら嫌われるし、大事にされないのは当たり前だし、自分だけの思い通りにいくわけがない。
だけど、当たり前の感覚がありません。
当たり前のことなのに、ツインレイの相手には「なにやっても、好きでいてもらえる」「なにやっても、大事にされている」ことが大前提の行動をとります。
最終的に「それやったらダメ」と言われると、ワナワナします。
どうして? どうしてこれだめなの? と思い、混乱します。
ごめんなさいもちゃんとありますが、魂のレベルで大ショックを受けるのです。好きじゃないんだ、大事にしてもらえないんだと自覚するのです。
ゆえに、最終的にサイレント期間の分離では「嫌われた」「大事にしてもらえない」という思考のもとに別れます。
出会い | サイレント開始 | |
---|---|---|
落としてしまった側 | ツインレイの相手は大好きなのは当たり前 | ツインレイの相手に嫌われた |
落ちた側 | ツインレイの相手は自分の要望を聞いてくれて当たり前 | ツインレイの相手は自分を大事にしてくれていない |
また、ツインレイの相手に嫌われたから「離れる」行為こそが、ツインレイの相手を大事にすること。
ツインレイの相手は自分が大事じゃないなら「離れる」行為こそが、ツインレイの相手を好きだと言う証明。
みたいな構造になっているので、基本的にサイレント期間を逃れることは出来ません。100%のすれ違いを起こすことができる神秘がツインレイです。
サイレント期間では、落としてしまった側は「ツインレイの相手を大事にする方法」を学び、落ちた側は「ツインレイの相手を大好きになる方法」を取り戻していきます。
ツインレイの夢とツインレイからのテレパス
ツインレイの相手の夢を頻繁に見ます。そして、テレパシーを受け取り続けるので、寝起きは基本的にツインレイの相手から「なにか教えてもらっている」ことなどはよくあります。
が、ツインレイの彼は特になにかいっていたことがありませんが、私の夢は時たま見ているようでした。
テレパシーなどをあんまり受け取るタイプではありませんが、ツインフレームで何度かテレパスを受け取ったことがある程度です。
ツインフレームのテレパスよりも頻度が格段に多いです。
ツインフレームはサイレント期間にテレパスがでてきましたが、ツインレイは出会った当初からテレパシーがガンガン来ます。
ツインレイとのシンクロニティ
自分自身になにかいいことがあると、ツインレイにもいいことがあります。
たとえば、自分に新しい友達が出来た! となりますと、ツインレイの相手にも新しい友達が翌日にできたりします。
「今日、これについて考えていた。」と話をすると「奇遇だね、実は自分もこれについて考えていたよ。」と返事がきます。
シンクロニティはとても多いですが、出会いからサイレント期間に進むにつれて関係性があやふやにもなっていきますので、シンクロニティが起きているのかどうかも判断することはできなくなっていきます。
出会ったときから「家族」
出会ったときから「家族」になるために、存在していると感じます。
ツインフレームのときは、出会ったときから「恋人」になるために存在しているのですが、家族です。
ツインレイの相手が辛い時は自分が受け皿となることが当たり前であり、自分がかえる場所という感覚があります。
出会ったとき、恋愛感情はありません。もちろん、大好きな気持ちはありますが「恋をしている」わけではありません。
随分長く離れていた家族に出会い、嬉しくてそばにいたいというような感覚のほうが強いかもしれません。
ツインレイの見分け方として基準にならないもの
いくつかあるかなと思います。
ありません。いっしょにいると、心地よい感覚があるときもありました。
ツインレイの相手が自分の思い通りにならない瞬間「雷が落ちてくる」んです。心地よいというよりも、ツインレイの相手は常に緊張状態の相手です。
緊張している状態で関わっているので、関わっていない時の方がホッとします。
似ていないかと思います。笑いのツボや、会話のテンポなどは似ているようには思います。
なにもありません。ツインレイの彼のお兄さんとは「なんじゃこれ」ってぐらいの干合、支合の冲などをしていて、当日結婚して翌日には離婚していそうな人だなとは思いました。
まず、生年月日等でツインレイの相手がわかるなどのことはないかなと思います。理由ですが、私たちは別々の単独行動をしており、自分の生まれる日も自分で決めてきているかなと思います。単独行動なので、ツインレイの相手の生年月日を気にして、この世の生まれてくる等の配慮はしていないかなと思います。
占い結果などではわからないかなと思います。少なからず「相性最悪でした。」という結論だったら、ツインレイの可能性はありますが「同一である」ようなケースは、ツインフレームのほうが濃厚かなと感じます。
私のツインフレームは、私と生年月日が似ており、私と同じ生年月日の妹がいるそうです。
感じません。
懐かしくはありません。「やっと出会えた」と本能が語り始めますが、懐かしい感覚はありません。あるとしたならば、極度の緊張と、統合時の究極なる弛緩です。
似ていません。本当によく似ていません。本来ならば、いっしょにいることがおかしいかのようなほどによく似ていません。
抱きません。ツインフレームはつぐに抱きましたが、ツインレイは抱きません。
当初「離れなきゃいけない、深く関わっちゃいけない」と感じるのもあって、当初は「距離を置く」のもあり、恋愛感情は抱きません。あるのはひたすら「愛」です。